『閃光のハサウェイ』から『全裸監督』にまで至る「不思議ちゃん」と「ダメ男」的存在のあり方をどう包摂するか?という話と日本社会の今後

先月から本を書くぞ・・・といってネットでの活動を休んでいたんですが、まだ8割程度ですけど一応目処がついてきたので、そろそろネットでの活動を再開しようかと思っています。(あと月三回の記事をここに書くノルマが自分にはあるんですが、あと一回分残っているので)

今回のテーマは、今月あちこちで話題になって、自分も凄い感動した「閃光のハサウェイ」の話と、あと「予想通りの賛否両論」を巻き起こしているネットフリックスの「全裸監督2」を、いわゆる「不思議ちゃん女性キャラとダメ男のカップル」という存在を軸に考える・・・みたいな話です。

特に「全裸監督」とか、ポリコレ的に見れば最低最悪な作品みたいな言い方だってされがちだと思うんですが、しかし結構、

「ああいうの」のところから今のポリコレ的ムーブメントが持つ息苦しさを超える、「ちゃんと皆の個性を尊重する」の新しいカタチも見えてくるんじゃないか?・・・そして、そのへんは少なくとも日本においては「意識高い系の人」も同じ問題意識を持っている部分もあるのではないか?

みたいな話をします。

1●「全裸監督」と「ガンダムシリーズ」の共通のテーマは「不思議ちゃんとダメ男の社会の中での居場所」を具体的に描くこと

「全裸監督2」は、時間がないないと言いつつ一気に見ちゃったんですが、個人的には結構好きだったんですよね。ただ、もちろん受け入れられん!って人もいると思うんですよ。

そもそも実物の村西とおる氏ってのがツイッターで暴れまわってる現状では、「あのおっさんの顔がちらつくと感動するシーンも感動できない」という声はわからないでもない。そこはそれ、「これは日本のあの時代の本質を戯画的に取り出したフィクションなのだ!」と念じながら見るしかないですね(笑)

ただなんというか、例のカズオ・イシグロが「意識高い系の人たちだけの世界観しか文芸で描かれないようになってしまってはいけないのではないか。そうじゃない価値観の人の声も反映されるようにならないと相互理解は起きないのではないか」っていう「例のインタビュー」

 的な話でいうと、まさに『全裸監督』こそが「意識高い系の価値観からは外れるけど実際にそういう価値観で生きている人たちの世界を描く作品」そのものだ、って感じではあると思うんですね。

で、実際特に「2」では別に主人公が「肯定的」に描かれているわけでもないし、「功罪」の両面、特に「罪」の方をちゃんと描いた上で、「こんなヤツもいる世界の中でどうすればいいのか」みたいなことをちゃんと考えることができる題材にはなっているように思います。

まあ、もう今の日本のネットじゃ言い尽くされてることですが、「意識高い系」の世界観が、「受けて立つ」べき存在であるというか、まあ別に単なるドラマっちゃドラマなので好みじゃなければ見なくてもいいわけですが、「ああいう界隈」的な世界で生きている人たちに対して、「代替案」としての新しい価値観を提示するなら、「全裸監督界隈に流れ着くような生まれつき」の人に対しても何らかの説得力をもたせるだけのリアリティを提示しなくては・・・という意味では「受けて立つ」べき存在なのだと言えるのかなと思っています。

で!

「閃光のハサウェイ」の方も凄く感動したんですが、閃光のハサウェイ含めてガンダムシリーズ全体のテーマは、「”不思議ちゃん”とダメ男の行き場所」みたいなことなのかな、って最近思うんですね。

で、なんかあらゆる差別問題的な話について、「ポリコレ的に政治理論で抽象化して考える」んじゃなくて、ガンダムシリーズや全裸監督みたいに「具体的な不思議ちゃんと具体的なダメ男の行き場所」について物語的に考えることで見えてくるものもあるな・・・って最近凄く思うんですね。

2●アメリカ由来の差別解消運動は、実はアメリカ人的なマッチョイズムに馴染めない存在を差別している

なぜ、「抽象的な政治理論で差別問題を考える」のではなくて、「具体的な不思議ちゃんとダメ男の行き場所を物語的に考える」ことが必要なのかというと、要するに、何らかの「標準的な正しさ」が設定されると、そこになじめない人が当然出てくるからなわけですよね。

「差別をやめよう」という「標準」ですらも、「差別をやめようという人たちがまとっている気分」自体が唯一無二の「標準化」的な権力をまとってしまうがゆえに、そこに馴染めない人たちを排除してしまうメカニズムがある。

そのへんについて最近、「文通のしごと(私は経営コンサル業のかたわら色んな個人と文通しながら人生を考えるという仕事もしていて、興味ある方はこちら)」で繋がっている人にゲイをはじめとするLGBTの人が増えてきて、色々と深い「ホンネ」を聞けて勉強になっているんですが、その一人に紹介されたツイート(ゲイを公言している哲学者の千葉雅也氏のツイート)がものすごく勉強になったんですよね。



これ↑ちょっと哲学・社会学的な用語になれない人には意味がとりづらいツイートですが、雑に訳すと、

「アメリカ型の差別解消運動に形を借りた”風紀委員長的な存在”によって自分の”本当の気持ち”が規制されるのは嫌だ。それよりは差別が多少あっても日陰で好きにやれるほうがいい」

みたいな事を言っているのだと思います。

で、日本におけるLGBT当事者は「こういう意見」な人も結構多いなと思うんですね。(そういう人でも、アメリカ型の運動で何らかの政治的権利が認められること自体を否定しているわけではない事が多く、適切な役割分担が大事だなと思うわけですが)

「正しさ」を押し立てるムーブメント自体によって「差別」が生み出されることになるというか、既存の「プライド運動」的なムーブメントが、実は「アメリカ的なマッチョイズム」をセットで押し売りしているので、「日陰でダラダラと自分らしく生きていたい」みたいな自分の自然な気持ちが抑圧されるのが嫌だ・・・みたいな話?

こういうふうにまとめると↑、これは「アンチポリコレ」的な「闇属性(笑)」の人たちだけが言っていることなのかな・・・と思うと案外そうでもなくてですね。

最近日本のネットで「意識高い系」の人たちの間で「凄い凄い」と話題になっていた「向井くんはすごい」という漫画は、

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「人それぞれの事情」をアメリカ的に概念化することなく「微に入り細に入り」描きまくっていて、特に既存の「差別解消運動が持っている非リア充(今風に言うと”陰キャ”)を排除する雰囲気」が持つ功罪両面の問題・・・みたいなのが意識的に描かれていて、

「アメリカ型の差別解消主義が概念先行すぎて、ある意味でそれ自体が人を裁きまくってしまっている」ことに対する問題意識は、日本においては「意識高い系のポリコレ派」の人でも結構持っているんだなあ

・・・ということを思ったりしました。

ついでに言うと、最近文通はじめた小学校の先生がいるんですが、その人はご本人もゲイなんですが、結構野心的に「意識高い系」の新しい教育を教室でやろうとしたんだけど、「教室のリアリティ」とのギャップでちょっと病んでしまって・・・みたいな話をされており、

「教条的な理屈を押し付ける抽象→具体的」ではなく、「とにかく”個々人”が思うように生きていければいいのだ・・・という具体→抽象」という順番を徹底していくこと

が、人類の1割にすぎない欧米社会の中で暫定的に今描かれている「理想」を、ちゃんと人類全体にまで広げていく時には重要になってくるのではないか・・・というようなことを最近は考えています。

これは性的マイノリティとか男女差別問題とかそういうポリコレ的な社会問題についてだけでなく、その他いろいろの課題について「どう考えていくべきなのか」という基本的な視座の問題としてね。

3●「形式的平等性の無理強い」でなく「全員分の意地とプライド」の共存を考える

で、そういう時に、「オレとお前はぜんぜん違うけど、それぞれ意地を張って生きている」というような構造が社会全体で成立するというか、「ほんとうの徹底した相対化」が起きる必要性があるというか・・・みたいなことを最近よく思うんですよね。

「形式的平等の無理強い」ではなくて、あらゆる人が、北斗の拳で言う「退かぬ! 媚びぬ! 省みぬ!」的な生き方ができるようにすることが大事・・・みたいな。

ジョジョSBRのセリフで言えば、全員が「納得は全てに優先するぜッ!」って生きられているなら、構造的な「差」はあちこちにあっても問題ない・・・というような感じ?

もちろん、ある個人の「退かぬ! 媚びぬ! 省みぬ!」によって誰かが具体的なダメージを受けている事例があるのならば、「その事自体」を問題視してなんとか是正しようとすればいいわけで、そこでも徹底的に「具体→抽象」の方向で考えていくことで、「形式的平等を無理やり全人類に押し付けようとして人々のナマの感情とぶつかって頓挫する」みたいな問題を回避できるのではないか?てことですね。

要するに「概念的な差別反対運動」をこねくりまわすと、とにかく「今の風習」のダメなところを次々と糾弾することは簡単にできるんですが、それによって「必ずしもアメリカンに決然とした行動力や容姿の良さや知性を持っていない人」の「生の納得を生み出す文化的な盾」を男女・性的マジョリティマイノリティ問わずガンガン削って行っちゃうみたいなところがあるわけですよね。

そしたら本来「差別解消運動で救うはず」だった女性や性的マイノリティに含まれる人のかなり部分もその「差別解消運動」に反対するようになるし、もちろん「陰キャの男」は絶対反対するし・・・みたいな事で余計にその社会的改善自体が「社会のほんの上澄みの特権階級のクローズドサークル」の外側には全然普及していかないことになってしまっている。

そういうふうに考えると、だからこそ「具体的な個」の方から常に考えていくことが大事になってくるわけですね。

で、結局「普通の人はだいたいそれぞれの意地というか”まあまあの納得”を通して生きられる」わけで、問題は「普通からあぶれちゃう」人の居場所をどう考えるか・・・みたいな事になってくるわけですけど。

全裸監督の主人公って最初は「結構普通の真面目な働き手」だったのが、アレコレあって転落して、どんどんおかしくなっていくわけですよね。

で、それは毎回、「ほんとうの平等性」を求めて動いている・・・という話なのだ、とも言えると思うんですよ。

「全裸監督2」で衛星放送事業に突っ込んでいくのも、「自分」と「特権階級」の人たちが「平等」であることを証明したいという意志の徹底故に・・・みたいな話になってもいるわけなので。

そして、現状の日本では、というか「あの時代の日本」を考えると、その放出の方向性がアダルトビデオ業界を舞台に起きたのだ・・・っていう話なわけですけど。

その「理屈じゃない意地の平等性」みたいな話を考えると、結構普遍的な課題を扱ってる作品でもあるな、って思うんですね。

4●「韓ドラ」とは対照的なようで結構共通点がある。

全裸監督は、英語・中国語・韓国語・ポルトガル語の吹き替えがあるんで、印象的なシーンは結構切り替えて聞いてみたりしたんですけど、なんだかんだ言って韓国語が一番「日本語の気分」に似てるなあ・・・って思いました。

いわゆる「てにをは」がある膠着語の世界っていうかね。

なんか、英語や中国語はもっと「概念的」な文法なんだけど、「膠着語の世界」はなんか「オレ」「あたし」がナマのままゴロッとある感じで、そこは凄い共通した特徴だなあと思うんですよね。

そもそも「いい年したおっさんが大声で自分の意地を叫ぶ」シーンとか韓ドラによくあるな、って思うしね(笑)「政治的主張」じゃなくて「個人の意地そのものを叫ぶ」っていうのが、案外中国語や英語といった「概念先行」の文化には案外薄いのかもしれないと思ったりする。(似たような行為はあるけど意味合いが結構違うように個人的には感じる)

その他にも、「あまりモテそうにない男の同僚同士愚痴を言い合う(カップラーメン食いながら)」シーンとか、それを強い女の人がどやすシーンとか、なんか「韓ドラによくあるな」って感じがそういうふうに感じ始めるとアチコチにあるところがあります。

「韓ドラ」と「全裸監督」って、「ポリコレへの態度」において対照的!なように見えるんですが、結構似たような問題意識はやっぱり文化的にあるよなと思う部分はある。

ツイッターで「全裸監督2」の感想を検索していると、ある女の人が、

「自分は愛の不時着でもリ・ジョンヒョク(主人公)氏よりク・スンジュン(アルベルトと名乗っていた詐欺師の男)の方が好きだったから、全裸監督も凄いハマる」

みたいなことを言ってるのを見かけて、「そうそう、そういう構造なんだよなあ」って思ったんですよね。

以前韓流ドラマは、「一人の男が文句なくかっこいい存在になるために、何十人もの男にダメ男役を引き受けさせている構造があって、そういうのはサステナブルじゃない」という話をしましたけど。。。

そういう「一人の男をかっこいい存在にするためにダメ男を大量に必要とする」構造をなんとか抜け出そうとし、「主人公と同格レベルにかっこいい存在」を作り出そうとすると、アルベルト氏みたいにわけわからん詐欺師みたいな存在を作り出さざるを得なくなる構造があるんですよ。

で、「アルベルト氏」は結構「ほんと実質的には全裸監督の主人公以上にクズの犯罪者だけど見た感じ女性にはジェントルマン」だったりして、「村西とおる」とはえらい違いだな、ってなるんですが、問題意識は凄い似てるんですよ。

「実質的に犯罪者で酷い事するやつだけど女性にはジェントル」を選ぶのか、「犯罪度は高くなくてむしろ一応マトモな社会人だが女性への態度はちょっと問題ある(けど愛情っぽいものもあるしそれを喜ぶ女性は実際に結構いる)」を選ぶのか・・・というのはまあ、考え方の優先順位の問題で(笑)

で、韓ドラでは一応こういう「主人公の裏側にいる男」は「死ぬ」ことになっている??んですが、日本ではなんとかそこを「生かす」構造を模索しているので、「見たくない男を排除したいタイプの女性」からはちょっと不評だったりする・・・ってことなのかなと思ったりします。

ここで「殺さずになんとかいけないか」を模索するのが、昔このオシャレ媒体で書いた「国譲り神話」がある日本の可能性・・・みたいな話だと思っていて、そこをなんとか起点として「果てしなく誰かを糾弾し続けるムーブメント」を反転させたいなと思っているわけですね。

ともあれ、韓国人とは随分と「方向性」が違うけど、でもこの「オレ」「アタシ」のナマの感情同士の平等性を概念以前にこだわるみたいなのは凄く共通してる部分があるという話で言うと、なんか数日前ツイッターで、10年前の日本のドラマの「ドラゴン桜」を見て、「俺も東大に行くぞ!」と思った韓国人が凄い強烈に勉強して本当に東大に(ソウル大とかでなく)入った・・・ていう人が林修氏の番組に出てたのが話題になってましたけど。

なんか”この人↑の意地の張り方”って凄い韓国人だなあと思うし、そして「ドラゴン桜」に熱中してる日本人とも共有してる部分が多い部分で、それがまさに韓ドラで「ジョンヒョク氏の裏にアルベルトさんが出てこざるを得ない構造」と、「全裸監督」がどうしてああいう世界観になっているのか・・・にまでまたがる「共通の問題意識」があるわけですよね。

ドラゴン桜の決め台詞は「バカとブスこそ東大へ行け」だそうですが、たとえば「実際に容姿の差で扱いが変わることってある」時に、「いやいや、あなたは魅力的だよ!ルッキズムは良くないよ!」って言うような概念的平等志向では物足りなくて、

「ああ、たしかにアタシはブスかもしれない・・・だがしかしッ!!!そのぶん努力して東大に行ってやるッ!」

みたいな話に昇華することによってはじめて「平等性」を実感できる・・・みたいなカルチャーって、まあなんというかコレはコレで全員がそうならなければ、ってなったら辛いですが、こういうカルチャーで救われる人も当然多くいるわけですよね。

「ブス」の話はわかりやすいから一応書いたんですが、その他にも「実際には生まれの差」ってたくさんあって、不公平だなって思うことって沢山あるんだけど、そこを「アメリカンな平等思想」が覆ってしまうと、本当はそこで「羨ましがって身を焦がしたりする権利」を自分が奪われてしまうように感じる人もいるんじゃないかってことですね。

そこでむしろ「オレは(アタシは)確かにそこは持ってないぜ・・・だがな、そんなオレでも、お前と平等に張り合える分野があるってことを証明してやるぜ!」的な人生に身を焦がすことで、やっと「本当の平等」を感じられるという生まれつきの人は一定数確実にいる。「概念的平等」を押し立てるのは、「実際に物凄く恵まれている人が、”そこに確かにある本質的な不平等を糊塗する”ための欺瞞なのだ」みたいな考え方で救われるタイプの人ですね。

そのへんのすれ違いが、「アメリカ型の単一の価値観の押し付け」が余計に「生身の人間のあり方」と齟齬を来して余計に「差別解消」的なものも進まなくなってしまう問題につながる。

だからこそ、「ルッキズム反対!」的なカルチャーによって単一に塗りつぶされた社会ではなく、一方で「バカとブスこそ東大へ行け」的なカルチャーも、それぞれ併存して文化圏を形成している状態こそが「個々人が自分の生き方を本当にあるがままに選んで生きられる本当の多様性」に満ちた社会になるはずではあるんですね。

そのへんが、「ポリコレ問題をあくまで概念的に」捉える文化圏とは違う、まず世界の中心に概念化されていない「オレ」「アタシ」が存在する構造というか、そしてそこを起点として考えることで生まれる、

「具体的な物語として、それぞれの人生の意地が成立していればそれでいい」

という解決策の模索の方向性を示しているのではないか・・

みたいなことを最近考えています。

ま、とはいえ「全裸監督」の方は「その時代にはあの形でそのエネルギーが昇華した一例」を見せてくれているだけで、それを「褒め称えて肯定」しているわけでもないし、「もっと良いやり方で決着できるならそれの方が理想だが」という立場もあるはずなので、だからこそ「意識高い系が受けて立つ」事が必要な内容だなと思うわけですね。

そして、それは、この記事では「差別」問題的な社会課題について話してるけど、コロナに対する対処とか、経済問題とかでも、「イデオロギー的な糾弾中毒」をいかに「現実的対処の積み重ね」に転換していくべきなのか、っていう話を全体的な「新しい理想主義のパッケージ」として提起していきたいわけですよね。

5●新しい「具体」→「抽象」の順番の理想主義を

今書いている本は、先月の段階では結構「左翼叩き」的なトーンで書いていたんですが、なんかやってるうちに、今「自己目的化した反権力」になってる人だって、やりたくてやってるんじゃなくて、今の時代には「そこにしか意地を発揮できない」ってだけだよなあ・・・みたいなことを思い始めたんですよね。

で、随分とトーンの修正に時間がかかったんですが、その「新しい具体→抽象型の理想主義」によって「今の左翼主義のダメなところ」をアップデートするのだ・・・という趣旨で、もちろん「保守派」の人も願ったりだよね・・・という着地点にしようと思って書き直しています。

結果として、これ以上ない「左翼叩き」というか、「自己目的化した反権力」とか「誰かを糾弾しまくることの中毒」みたいなものに対してこれ以上なくちゃんと批判してやろうという強い断固とした意志はあるんですが(笑)、それをちゃんと「欧米文明全体を相対化して米中冷戦時代の新しい中心軸を日本文化由来で提示していく」といった僕自身のライフワークの先に位置づけて、「左翼叩きでなく新しい理想主義はコレなのだ」って形にしたいなと。

8割ぐらいのところまでは来たので、今月は徐々にネット活動も再開しながら地道に完成まで行きたいと思っているとこで。

で、「閃光のハサウェイ」や「全裸監督」を見てると、そういう問題意識で「日本のコンテンツ」は着々と色んな「必要な試行錯誤」をやってきているよなあ、と思ったんですよね。

形式的な理屈で他人を断罪しまくる中毒の人たちから距離を置いて、本当に「人それぞれの気持ちのままに」生きられる社会を構築していく新しい理想主義を日本発に掲げていきましょう。

何度も引用する小林秀雄の言葉のように、

美しい花、がそれぞれあるのであって、花の美しさ、などというものはない!

という日本文明の精神を大事にしながらね。

今回の記事の無料部分はここまでです。

以下の有料部分では、もうちょっとガンダムとかその他古い同時代のアニメ作品(特に最近見た”オネアミスの翼”に出てくる不思議ちゃんの怖さが凄くて)の思い出話をしながら、「不思議ちゃん女性」の扱いと日本文化・・みたいな話を、ちょっとこのまま書くとさすがにポリコレ的に問題かも、という部分も含めて最近考えていることを書きます。

一言でいうと、「社会」が存在すると当然「ダメ男と不思議ちゃん」が不可避的に生まれるんだけど、それを単に「無意味な方向に」放出するか、「胡蝶しのぶ」的な形で「有意味性」に接続できるか・・・が、「新しい理想主義」においての鍵になるのだ・・・みたいな話です。

2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。これを機会に購読を考えていただければと思います。

普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

また、倉本圭造の最新刊「日本人のための議論と対話の教科書」もよろしくお願いします。以下のページで試し読みできます。

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また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

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