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日本人こそ見るべき映画『オッペンハイマー』に見る「21世紀の名作の条件」

海外では既に配信やブルーレイディスクが販売されてる今になってついに日本公開された映画『オッペンハイマー』を見てきました。

すごい作品だった!というかめっちゃ考えさせられる映画で。名作と言っていいと思います。

ちょっと「アメリカ人にしかわからないだろう部分」も結構あった映画ではありましたけどね。多分日本人が「関ヶ原の戦い」とか「幕末歴史劇」を見ていて、「今作は石田三成を誰が演じるのかな?」とか「なるほど今作では一部の幕臣側の影の働きかけの影響に光を当てる展開なんですね」とかいう感じで元々詳しく知った上で見るような感じで、説明なしにいろんなキャラクターがたくさん出てくるので。

原爆開発現場のパーティ会場で謎に太鼓を叩いてる変なヤツがいて何の説明もなかったのが、あれは有名な物理学者のリチャード・ファインマンだよなとかいう感じで、詳しい人はニヤリとさせられるみたいなシーンはたくさんある映画だとは思います。

でも、「大枠」で見ればシンプルなストーリーと言えて、細部はわからなくても十分深いメッセージが伝わってくる名作映画だったので、ぜひ気になっている人は見に行っていただければと。

どういう映画なのか?どこがどうすごい映画なのか?について考えたいので話を聞いて下さい。

(いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)

1●「被爆地を描かない」から被爆者を無視しているというより、「被爆地を描かなさ」自体が強いメッセージ

「日本公開を躊躇した」っていうから、ものすごく広島・長崎の原爆被害を軽視したテキトーな作りの映画なのかな、と思ったんですけど全然そんなことなかったんですよね。

もちろん、「日本人は反発するかも?」って思って公開を躊躇したアメリカの映画会社の重役の懸念ぐらいは一応理解できます。テーマがテーマだしね。

でもたまたま昨日見た広島のローカルテレビ局のYouTube動画で被爆者団体の理事長の箕牧智之さんが試写会に続いて公開初日にも二回目見に来た上で「これで核兵器の悲惨さが世界に伝わるのはいいこと」とコメントしていました。

なんというか、日本人のある点での能天気さというか、「変に細かい立場性を超えたフワッとした理想」を受け止める感性(色々な日本の”具体的な弱点”の裏返しだとしても)を、アメリカ側はナメていたところがあるんじゃないかと思いました。

この記事で書いた「なんでも天災みたいに考える日本人メンタリティ」的な観点からすれば、全然批判しようがない映画という感じで。

事前の偏見(今回記事でも後で詳しく書きますが映画『バービー』とセットになったネットミームとかに関する反感)と、三時間もある難解な映画であることもあってヒットするかはわかりませんが、普通の日本人の感性で見て反発するみたいな話では全然なくて、むしろ”あのアメリカ”で大ヒットする映画で「よくここまで描けたね」というぐらい核兵器の罪深さや人間の業について抉るような作品になっていたと思います。

まあ、でももちろん、「原爆投下の成功に大喜びするアメリカ人たちのシーン」とか「実際に被爆地の映像などは一切流れない」とか、それ自体が実際の核兵器の被害にあった人たちを「蚊帳の外」に置いているという批判を持つ人もいるかもしれない。

でもこの映画のそういう要素こそが、「被爆者を蚊帳の外においてしまっているという現状」自体を凄い批判的に描いているという感じなんですよね。

そして何より、「被爆地の様子」は直接映像にはならないんだけど、オッペンハイマーの日常の中にちらほらと「幻影」のような形で染み出してくるシーンがあちこちにあるんですが、そこがマジでほんと怖いんですよ。恐ろしい。

「はだしのゲン」風に全面に「地獄」が描かれている構造になっていると、そもそも見ない人の方が多くなってしまうと思うんですが、3時間ある映画の要所要所で「幻影」がオッペンハイマーの日常の中に染み出して来るシーンは「逃げ場なく見ちゃう」上に「本当に恐ろしい記憶」として残る。

何度もいうけど、そこのシーンは「音」と「ちらつく幻影レベルの映像」だけで本当に恐ろしいんで、実際に被爆地を描く・描かない…みたいな批判は全然当たらないと思いました。

SNSの感想でもちらほら見たけど、「音」がいい映画館で見ると良い映画かもしれません。僕はIMAXじゃなかったですが、たまたまVIVO AUDIOとかいう「音」が強化された劇場だったこともあってとにかく「音」が恐ろしかったです。

2●「制作」の深い部分に「マーケティング的事情」が不可避に侵食するからこそ生まれる新しい可能性

一方で、頭空っぽにしてアメリカ人が見ていると、「国力を結集してナチスに打ち勝ったアメリカ合衆国の英雄物語」に見える人も多分いるんだろうと思います。そうじゃないとここまで記録的な大ヒットにはならないと思うし、「バービー」とセットになったネットミームにもならなかっただろうと思うし。

アメリカでのこの映画の予告編をYouTubeで探したんですが、二種類のかなり違うテイストの予告編が作られていました。

一個目は、「核」という技術を人間が獲得してしまう事の「業」について描かれた、一種の「プロメテウス(映画冒頭でも紹介される、神様から火を盗んで人間に与えた罪で磔にされるギリシャ神話の登場人物)」の神話的苦悩にフォーカスした予告編ですが…

一方で、以下のように、「ナチスに先に原爆を作られたら世界の終わりだ!」「アメリカの国力を結集してそれを乗り越えるんだ!」「これは歴史上最も重要なチャレンジなんだぞ!」「イエー!USA!USA!」みたいな映画(に見える)予告編も作られています。↓(こっちの方が再生数は2000万回ぐらい多いw)

↑この2つの予告編は「同じ映画」とはとても思えないテイストの違いになっていて、ここまでいけばこれは絶対「意図的」にやっていると思います。

で、最近私は強く思うんですが、確かにこういう「見せ方の配慮」は、いかにも

「アメリカの商業主義極まれり」という感じの即物的に売上の数字を求める姿勢ではある

…んですが、でも同時に

これこそが政治的分断化が激しい21世紀の人類社会の今に対して必死に向き合った「アメリカが獲得しつつある最新型の深い政治的メッセージの発し方」なのだ

…と思うんですね。

クリストファー・ノーラン監督がそれをどの程度「意図的」にやってるかは別として、こういう最近の「アメリカの大作映画」っていうのは、「マーケティング」と「作品作りの根幹部分」がかなり不可分一体になってきている印象があるんですね。

だからさっきの「予告編動画の切り取り方」は、「マーケティングチームが商業的意図でそうした」だけじゃなくて、「作品の本質」としてそういう多面性が全部盛り込まれている映画だからそういう予告編が作れるという構造がある。

いろんな人をセグメントごとに切り取って、どの層にも刺さるような見せ方を考えよう…というマーケティング的発想を徹底した結果、

「核兵器の悲惨さや人間の業」を考えるリベラル派にも、「ナチスに勝つぞ!USA!USA!」っていう保守派の人間にも刺さるように、そして色々なオッペンハイマーの不倫関係の性的な部分とか、「赤狩り」をめぐるサスペンス要素を盛り込むことで「なんとなく週末見に行って”刺激的ですごい面白かった!”ってなれる作品ないかな」と求めるノンポリの人間にも刺さるように…

…っていう配慮が、「宣伝」レベルじゃなくて「作品」レベルで行われる事になっている。

そういう「多面性」が全部のせになっていることで、アメリカ国内だけで3億ドル以上の興行収入(世界全体で9億6000万ドル)にもなっているわけですね。

3●「敵側の言ってること」に触れざるを得なくなる必然性を生み出す「新しい政治性」

そういう「極限的な商業的配慮」が行われることは、高騰する制作費(今作は1億ドル)を回収するには「いろんな立場の人」にお金払って見てもらわないと成り立たないって話があるのは間違いないとは思います。

「すごい数の人に見てもらわないといけない大作」を作るにあたって、「論争的になる視点を一切入れない」ようないわゆる「頭空っぽにして楽しめる作品」方向に振るという戦略は一個ありえるわけですよね。

でもそういうのじゃ物足りないよねとなって、大作映画でも「論争的になる視点」を入れ込もうと思ったら、もう極限的に「全部のせ」にしていかざるを得ない磁場を「1億ドルの制作費」という構造が強烈に発生させている。

でも、そうなっていることで、「本来見るはずのなかった映像」を見る体験を提供できているとも言える。

もし映画『オッペンハイマー』が、徹頭徹尾「核兵器の罪深さや悲惨さ」だけを描く映画だったら、映画を見る前から「核兵器の罪深さや悲惨さ」などものすごくわかっている人間しかその映画を見ないですよね。

一方で「国力を結集してナチスに勝つぞ!USA!USA!」的な映画にも(ちょこっとだけ)見えるように作られていることで、「保守派側アメリカ人」だってこれを見る機会を生みだしている。

実際、「Worth it or Woke?(日本語でいうなら”ポリコレ汚染度メーター”みたいな感じ?)」というアメリカの保守派ウェブサイトがあって、これは「”見る価値がある”(worth it)か、”下らないポリコレ映画”(woke)か?」について保守派ユーザーが投票して点数を決めるサイトなんですけど…

映画オッペンハイマーは79点も取っていて「脳内お花畑のリベラルどもだけでなく、保守派のタフガイだって見るべき映画」と評価されています(笑)

ある意味で「まんまとノセられている」というか、「ちゃんと伝わって」いるわけですよね。

そうすれば、「ガチの保守派アメリカ人」だってこの映画を見るし、そうすると例の「恐ろしい音とちらつく幻影」レベルではあるけど被爆地の悲惨さがそういう人の脳内にも焼き付くわけです。

もちろんこれは逆の立場からも言えて、「核兵器の罪深さや悲惨さ」を描いてくれると期待して見に来たリベラル派の観客が、その「核」の背後にある当時の世界状況の切迫感を3時間のサスペンスドラマで見せられ、「ナチスが先に原爆を開発したらどうなっていたか」といった歴史的課題と向き合うことなしに核廃絶は実現できないことを、これも「脳内のどこか」には焼き付いてしまう事になる。

こういう「最新のアメリカ映画の大作」のモードが「全く新しい政治的配慮」に突き抜けつつある…という意味がおわかりいただけるでしょうか?

4「マーケティング的事情」が、「本当の真実」を描かざるを得なくなる必然をもたらしている

こういう「商業主義の極限がもたらす新しい作品のモード」は、ある意味で「20世紀的な意味での”作家性”」みたいなものからすると「裏切り」に見えるような部分もまああるんですよね。

そりゃ「逆側の人にも観てもらう」ことも大事かもしれないが、それって「妥協」じゃないの?って思う部分も人によっているでしょう。(で、実際に単なる妥協の時もあるから、20世紀型作家性によるアート作品が今後も作られる意味はある)

ただ、そういう「最新型の”全部盛り”の政治性」じゃないと描けない新しい可能性もある。

要するに、『映画オッペンハイマー』は、アメリカのガチ保守派の人も、実際の被爆者御本人も見て「何かを感じる」映画なんですよね。

そしてそれは、「立場を超えて同じ映画を見る」ことで、「逆側の人が何を考え・感じているかを知る」体験だから素晴らしいっていうのは勿論あるんですが、それだけじゃないんですよ。

それだけじゃなくて、そこで出会う「逆側の人が考え・感じていること」は、それ自体が「人類が乗り越えなくちゃいけない抜き差しならない課題そのもの」なんですよね。

「相手の意見も知れて良かったでちゅね〜みんな仲良くしましょうね〜」では終わらない「人類の課題そのもの」が「それそのもの」なんですね。

「人類の安定のために核抑止力による均衡が必要だ」と思っている人が、「被爆者の幻影」に出会う時、自分が見ないふりをしてきた現実と出会い、そうは言っても自分たちがそういう問題を軽視してきた事に向き合わざるを得なくなる。

一方で、「被爆者」側から見ても、この映画を見ればやはり、「核兵器」に纏わる人間の業や、この80億人のバラバラな利害関係をいかに調節するかに常に悩み続けている人類が、どうやって「実際に地球全体を破壊できちゃう技術」をコントロールしていけばいいのか?についての「当事者的な責任感」に、やはりどこかで向き合わざるを得なくなってしまう。

どうやってこの問題を解決できるのか?は結局簡単な答なんか出ませんが、

「単に片方側から見て逆側が全部悪いと言っていて解決できる問題ではないのだ」という強い問題意識

…がこの「アメリカの最新型の政治性」の根底には存在していて、個人的にはそこにメチャ感動するところがあります。

見る人が人類の平和維持に現状には「核抑止力の均衡」が必要だという考えだとしても、それでも「戦争終結のためには本来必要なかったかもしれない投下」による地獄を見た人々の事を忘れていいわけではない。

逆に、被爆者の悲惨さを我が事として感じ核兵器の廃絶を願う人が、もし現状の「核均衡」の考え方は不十分だと考えているとしても、実際に80億人のコントロール不可能なエゴが渦巻いている実物の人間社会において実際に通用可能な制度構築を行わなくては余計に人類は危険に晒されるのだ、というこの映画の歴史的事実が突きつけてくる課題とは向き合わざるを得ない。

結果として、以下記事で書いた広島サミットでの岸田首相の演説

…みたいな領域に踏み込む以外の「道」がなくなっていく、

「本当の理想主義」の『必然性』が浮かび上がってくる

…ところに、昨今の「アメリカの大作が持つ語りのモード」の可能性はあるわけですね。

5●映画『バービー』とセットになる意味はあった

アメリカでは同時期に公開された『バービー』とセットにした「バーベンハイマー」っていうSNSの流行があって…

こういうのですね↓

https://x.com/Trendswoodcom/status/1681332345272688641?s=20

この流行自体は、被爆者の人は怒って良いと思いますし、実際抗議活動も行われていましたが、ただフェアに言えばこれは”SNSの騒ぎ”の問題であってバービーやオッペンハイマーの制作者は全然関係ない話ではあります。

ただこの「バービー」とセットになって同時期に世界的大ヒットになっためぐり合わせには何らか共通項的な意味はあるなと私は感じています。

なぜなら『バービー』も、この記事で書いてきたような「アメリカの大作映画における最新型の政治性」がものすごく詰め込まれた作品だったからです。

詳しくはバービー公開当時に書いたこの記事を読んでいただきたいのですが↓…

『バービー』っていうのは、見た感じ能天気なエンタメ映画で、かつ「フェミニズム全開のガールズパワー炸裂映画」みたいな感じですよね。

でも、実際に見てみればわかると思いますが、「いわゆるSNSで燃えがり続けるタイプのフェミニズム」には結構批判的な要素が大量に含まれている映画なんですよね。

詳しくはさっき貼った私の昔の記事を読んでいただきたいですが、その記事から一部だけ引用すると、

『バービー』は、「ガールズ・パワー全開でアホな男どもをバッタバッタとぶっ飛ばす痛快作!」の外見をしていて、よほど先鋭化したフェミニストは別としても、「普通に現代社会に不満を持ってる女性視聴者」みたいな人からすれば全く文句のつけようがない。(中略)

結果として多くの女性が、「私たちのための映画」だと思って、作中でバンバン不満をぶちまけて社会を変えていく様子に痛快さを感じ喝采を送り、2時間の映画を見終わった頃には単に先鋭化したSNS型フェミニズムからはかなり外れたメッセージを本能レベルで受け取るようになっている。

「古い家父長制」をぶちのめしたいのなら、単に「今の社会のダメなところをあげつらって裏返す」だけでは全く不十分(ただ今までの女性に対する抑圧を裏返しで”男”に対してやろうとしているだけになってしまう)で、性別、人生観、その他の違いに関わらず、ちゃんと「誰しもに光が当たる社会」がどうすれば実現するのか?そのためには、個々人が千差万別の不満を持つ現実社会において、地道な利害調整を積み上げていかなくてはいけないのだ、という方向に自然に誘導される。

そして、「今まで女性が描いてきた理想世界」というのは、結局「黒服のCEO(白人・男・老人のようなビッグダディ的存在)」が全て隠れてお膳立てしてくれていた幻想にすぎず、それを本当に排除して超えていきたいなら、それが防波堤として押し留めてくれていた「人間社会の過酷さ」を自分自身も引き受けて生きていかなくてはいけないんだ、というメッセージも伝えられる。

(引用おわり)

「バービー」が、もし例えば「単に男社会の悪かった点を批判するだけじゃなくて、もうこれからは、どうすれば誰もが自然に参加できる社会を作っていくかが大事ですよね」的なメッセージだけを押し出すような、なんか「人情モノ」の雰囲気が漂う映画になっていたら、すごい「地味」な映画になってここまで世界的ヒットになることはなかったでしょう。

でも、

・「ガールズパワー全開でバッタバッタと古い考え方の男たちをなぎ倒す痛快映画」に”見える”

…ようにして「2時間頭空っぽにして楽しめる作品」として世界的ヒットにしつつ、根底には

・「今の”フェミニズム的理想”って、”白人・男・老人”的な家父長主義の権化が作り出したシステムにお膳立てしてもらったオママゴト的なことに過ぎないのでは?」
・「単に今までの鬱憤を”男”に対して復讐しているだけで、本当に”新しいフェアな世界を作る”という理想には向き合えていないのでは?」

…という裏のメッセージが深く埋め込まれている構造にすることが、「今のアメリカの最新型の政治性」のあり方になってきてるんですね。

6●SNSを通じて80億人が「アメリカ的な個人」に目覚めた先に生まれる大混乱の、”さらに先”の「新しい着地点」

結局、あらゆる「20世紀的なイデオロギーをそのまま作品一個にぶつける作家性」という「自分個人」だけのものをいかに乗り越えるか?という課題が、こういう「アメリカの商業主義の極限」において全く新しい形で解決策のモードが見えてきているということなのだと思います。

それは、

「人類80億人レベルのあらゆる人」が「アメリカ人個人レベルの政治的主張」をSNSでするようになって果てしなくバラバラになっていってしまう世界

…における

あたらしい「公」的なものを再生する試み

…なんですね。

最終的には、

・被害者が黙らされないこと
・その現象が起きた事情を否定せずに「相手側の問題の解決策」を考えること

…は、本来完全に両立するはずで、「どちらか」だけを選んで先鋭化させる20世紀の「政治党派争い」のモード自体を、人類はいま完全に克服していかなくてはいけない段階に来ていると言えるでしょう。

フェミニズムの例でいえば、「医学部入試の男女差別」問題があった時にそれを「ただ女を抑圧したいからそうなっているんだろう」という陰謀論にせずに、世界一の少子高齢化社会の中で日本クオリティの医療を田舎でも提供するための関係者の奮闘を理解したうえで、医療制度改革までキチンと踏み込む姿勢を「当たり前の姿勢」にしていけるかどうか。

それが『新しい公』をいかに作っていけるかという課題ですね。

これはいわゆる「もっと相手の事情も勘案して優しい言い方をしないと」っていう”トーンポリシング”じゃなくて、むしろ「新しい公」にコミットする姿勢があればあるほど、「古い制度的抑圧」とか「日常におけるマイクロアグレッション」なんて、”保守派側からもガッチリと強い指示を得ながら徹底的に”新しいモードに置き換えていくことだってできるはずの事なんですよね。

「アメリカの商業主義の最前線」に生まれてきているこの「21世紀の政治性」が、「単なる党派争いでしかなかった20世紀の政治性」を乗り越えていく流れが今起きていて、私は本当にそこには嘘偽りなく100%の希望を感じています。

私はそれを「メタ正義感覚」と呼んでいて、よろしければ以下の本などをお読みいただければと思います。

日本人のための議論と対話の教科書

長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございました。

ここからは、「バービー」も「オッペンハイマー」も、「白人至上主義」とは言わないものの「白人の内輪の映画」と批判されている側面もある事について掘り下げた考察をする記事を書きます。

「オッペンハイマー」の中で最大の悪役だったルイス・ストローズを演じたロバート・ダウニー・Jrが、アカデミー賞授賞式でアジア人俳優(前年度受賞者だったキー・ホイ・クァン)を邪険に扱ったっていうゴシップネタがありましたよね。

「バービー」も「白人女性の美」を過剰に賞賛する映画で云々みたいな批判をちらほら見かけました。

で、多分この批判は両方とも無根拠とは言えないというか、「そういう要素」はすごいあるんだと思うんですよ。

ただ、現状「そうなってしまう事」でしか描けない価値というのがあるために、反復的にこういう形に描かれてしまわざるを得なくなっている領域というものがある。

「メタ正義」的に考えるなら、この「バービーやオッペンハイマー」が「白人の内輪物語」として描かれる問題を抱えることによって「現時点で実現している価値」を、いかに多文化主義というかあらゆる人種や立場をレペゼンした構造をした上でも同じように実現できるかどうか?がこれからの課題なのだと思います。

その構造の中で、「東洋と西洋の交差点」として生きてきた日本が果たせる役割は果てしなく大きいはずで、その点がこの「オッペンハイマー」における被爆者の扱いにも関わってくるのだ、というような話を以下ではします。

あと、この「バービーやオッペンハイマーが白人の内輪の物語にならざるを得なくなりつつ何を描こうとしているのか」みたいな話では、「マネー・ショート華麗なる大逆転」「ワンス・アポン・ア・タイム・インハリウッド」とかの「ブラッド・ピット主導の映画」にも共通して見られて、自分はそこの可能性は理解しつつ「その先」を目指すような世界を目指していきたいという話もします。

あとは、林志弦という韓国の歴史学者さんが書いた「犠牲者意識ナショナリズム」という本が一部人文系で話題で、「いかにも韓国人」の良い部分が現れている作品だと思いましたが、これもこの問題に深く関わってくるのでその話もします。

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