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アメリカのアフガン撤退が日本にとって「繁栄のボーナスタイム」を引き寄せるチャンスを生み出し、アメリカ型の「ヒステリックに全方位を糾弾しまくる型のポリコレ(政治的正しさ)」を終わらせるという話。

(トップ画像はウィキペディアよりお借りしました)

この記事は、先週アップされたファインダーズというウェブメディアにおける記事↓との連動企画としてアップされています。

先週末ぐらいに、連続でこの記事もアップする予定だったんですが遅くなってすいません。

なんか、想像以上に情勢がどんどん悪くなるし、しんどい映像も見ることになるし、簡単にネタにする気分にもなれないなあ、と思ったり、しかしこれが「世界史上の転換点」として非常に重要なタイミングであるようにも思い、それを長期的視野で、かつ日本という国のマクロな話とミクロな話を関わらせた記事を書いておくことは非常に重要なことだとも思うし・・・とか、ウネウネと持て余しているうちに月末になってしまいました。

今回は、月末恒例の三連続note記事で、目前にある「世界史レベルの大転換」が日本という国にとって、そして私たちそれぞれの生活にとってどういう意味を持っていきそうか、多面的に考える記事を書きます。

全体として言えば、

・今回の米軍撤退は「米国覇権の衰退、そして中国をはじめとするその権威に挑戦する勢力の時代の到来」を表しているように見えるが、そうはならない。

・純粋に「日本にとって」という意味で言えば、この状況は決して悪いものではなく、むしろ日本にとっての「繁栄のボーナスタイム」を引き寄せられる可能性すらある。

・しかしその為には、過去30年ほど染み付いた「平成時代の日本のあり方」を根底的に反省しなおし、いろんな立場の人間の知恵を集めて対処を組み上げていくことが必要になる。

というような話をします。

特に今回記事と対になっている「平成時代の日本のグダグダさを脱却する方法」については以下の記事をどうぞ。

いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。

1●「アメリカの時代の終わり」ではない。

まず、今回の一連の記事の前提にしたいことは、情勢分析として、今回の事件は

「アメリカの時代の終わり」を意味しない

という事はハッキリ言っておきたいと思っているんですね。

それはこの連動記事↑で書いたような理由があって、たとえば今回の「カブール陥落」は、1975年ベトナム戦争終末期の「サイゴン陥落」とよく比較されますよね。

現地にできる新しい政権から逃れようとする現地の人の大群が追いすがる中、それを見殺しにする形で退避していくアメリカ軍軍用機・・・という「映像」のパワーはものすごくて、これはもう「アメリカの衰退」は明らかだな・・・という気持ちになるのはわかります。

ただ、ここで考えてみてほしいんですが、歴史を振り返ってみると、じゃあその1975年サイゴン陥落以降、

「アメリカの時代の終わり」=「反アメリカ勢力の勝利」

を意味したか?

を考えると、むしろその後ほんの10年ぐらいたてば、「共産主義の敗北、西側世界の勝利」はほとんど決定づけられるほどの差がついていた。

つまり直感に反するようですけど、「サイゴン陥落」は、「アメリカ側の世界の終わり」ではなく、「反アメリカ勢力の終わりのはじまり」であったことがわかる。

より詳細にいうと、サイゴン陥落やカブール陥落の「映像」が、「もうアメリカは終わった」と「思わせる」効果自体はリアルにあるんですよ。

しかしその「もうアメリカは終わったと思わせる印象」自体がトラップだというか、その事自体が「反米勢力」にとって非常に難しい局面を引き寄せる構造にあるんですよね。

ついでに、世界史的に「そういう状況」においては私たち日本という国の重要性は急激に高まる星回りになるんですよね。

その「サイゴン陥落以降、アメリカ側勢力が完全に勝利するまで」は日本という国にとって世界一レベルの繁栄期間であり、以下の記事で紹介した「冷戦全体を学術的に分析した本」を読んでいても、「当時の日本の常軌を逸したレベルの繁栄」というのが、「アメリカvs反アメリカ勢力」との戦いにおいて非常に重要なファクターになっていた事がわかります。

なんでそうなるかというと、今回のファインダーズ記事で書いたように、

・反米勢力は反米であるうちが花であり、”アメリカ”を拒否すると、その存在感の空白を埋めて日常の経済の隅々を統御できるだけの秩序形成の中心を作るために必死の内輪争いが始まる。(それは時に歴史的に非常に陰惨な事件につながったし、すでにチラホラとタリバン兵の”私刑”的なニュースが入ってくることでその不穏な未来を暗示している)

・アメリカ単体で世界秩序を形成できなくなった時、むしろ日本をはじめとする米国側同盟国の存在意義は急激に高まる。アメリカ単体でなく”アメリカ側に立つ国ぐに全体の総合力”が重要になってくることで連携性が高まり、”陣営対陣営”という意味ではむしろアメリカ側に有利な状況になっていく。

・日本は今までのように「アメリカの影に隠れていれば安泰」という状況ではなくなり主体的に考え主体的に行動することが必要になるが、それが過去30年の平成時代の「いかにも中身がない空論」を弄ぶような状況を超える新しい日本の繁栄の道への扉を開くことになる。

というような構造があるのだ・・・ということが、私が今回の一連の記事で言いたいことの「幹」の部分にある見方なんですよ。

2●人類社会の「鍋奉行」の必要性と、そこにおける色々の難しい微調整について

人類社会においては「とりあえずの日常を問題なく動かすための秩序形成の公式的中心」が必要じゃないですか。

そういうのは、「鍋奉行(アメリカならバーベキューにおいて”ピットマスター”という同じ意味の言葉があるらしい)」みたいなもので、みんなが口出しして混乱するよりかはそういうのをやりたい、やれる人に任せておいた方が便利だよね的な存在なので、果てしなく混乱するよりはある程度リーダーシップ取ってくれる人がいることは、「あらゆる人間にとって良いこと」なんですよね。

ただ、その「秩序が一個」あれば中心も辺境もあるわけで、そこにおける「本質的平等性」を考え始めると果てしなく難しい問題にぶちあたる。

なんか、「鍋奉行やピットマスター」の話でもそうなんですが、

・「ちゃんと準備して作業してくれる苦労に見合う程度のちょっとした役得」ぐらいならいい(そういうのが全然ないと誰も鍋奉行をやらなくなっちゃうからね)

けど、

・やたら参加者の食べ方の細部まで口を出してきたり、自分だけ良い肉を優先的に食べ過ぎたりすると問題が生まれる

じゃないですか。

このへんの「ちょうどよいバランスの調整」が人類社会全体で見た時にも重要なんですよね。

77億人もいる人類社会全体で共有した経済を秩序だって動かすには、ある程度その「秩序を裏付けてくれる存在」が必要なんですよね。「それ」で受益しているのはカブール市民400万人だって同じで、「鍋奉行としてのアメリカ」がいてくれるからそこに滞りなく日常の物資を回す動きを動かせる。

問題は、

・「鍋奉行としての役得」がゼロである必要はないが、過剰に鍋奉行だけ優遇されたりすると不満が爆発しかねない

・鍋奉行が日常の細部のあり方まで口出しまくれば嫌がられて、またこの”鍋奉行の秩序”ごと破壊しようとする人たちも生まれる

という状況をいかに乗り越えるかを総合的に考えていくことなんですよね。

20世紀には、「ベタ」なレベルで、

・「本質的な平等性の議論から一ミリも離れたら許せない」みたいなレベルで「鍋奉行」の存在ごと否定しようとする(結果として議論が現実性を持てず空理空論になる)

・「空理空論レベルの理想論を振り回す勢力に飲み込まれないために、”鍋奉行サイド”にいる人間が過剰に攻撃的だったり抑圧的になったりする

みたいな不幸がずっと続いていたわけですけど、21世紀にはむしろ「メタ正義感覚」的なレベルで、

・「反米」側にいる人間だとしても、「何らかの鍋奉行は必要だよね」というレベルの問題を否定しない。

・そうはいっても「許容範囲な鍋奉行の役得」とはどういうレベルのことなのか、鍋奉行の過剰な介入が感情的反発を巻き起こさないようにするにはどうすればいいのか

・・・みたいなレベルの話自体を「ちゃんと全部テーブルの上にあげて」、考えるべき時代になってるんですよね。

そして

そういう時代における”ちょうど良さ”を実現する」=「平和への本当の責任」を果たしていく上で重要な役割を果たすのがこれからの日本

なんですよ。

3●「カブール陥落以降」の世界情勢における日本が取るべき道=「ヤンキーの気持ちがわかる優等生」

いずれそういう情勢になるってことを、私は7年ぐらい前に出した「アメリカの時代の終わりに生まれ変わる日本」という本で予言してたんですが、その本で提唱した重要なコンセプトが、

「ヤンキーの気持ちがわかる優等生日本」

なんですよね。

(ヤンキーって最近もう死語なんですかね?「アメリカ人」という意味じゃなくて、日本の少年漫画でよくある「ヤンキー」さんの事ですね。「不良」とかの方がいいのかな?)

ともあれ、「鍋奉行」を「学校の先生」に読み替えてイメージしてみると、先生は先生で譲れない部分があるわけですよね。学校というシステムを維持して、それに参加する存在にちょっと上から的に指導しなきゃいけない部分は出てくる。そこを揺るがせにすると秩序全体が崩壊して誰のためにもならないからです。

一方で、そうやって「完全な理論的平等」の地平から一ミリでも浮き上がったような構造を作ろうとすると当然そこには「反発」も生まれるわけで、その「権威」に反発して「”悪”の道」に走る「ヤンキー(不良)さん」たちも生まれるわけです。

ここまでは人類社会であれば当然存在する構造みたいな感じですよね。

で、ここから、ですよ。

「ヤンキーさん(不良)」を単に叩き潰して完全に排除するみたいなことができないのは、彼らヤンキーさん(不良)たちを支えている論理自体が結構「アメリカ」的なものだというか、

アメリカ人がいうように「人類みな平等」なのだとしたら、「アメリカ人だけが一段上の権力を握ってリードする世界っておかしくない?」という権利は世界中のあらゆる人に認められていることになる

という

「アメリカという構造の中に埋め込まれた”平等”の論理が不可避的に生み出しているのが反米勢力」

なんですよね。

だから人類社会は「アメリカに内在する論理」によって常に「アメリカの外側」ともチェックアンドバランス的な拮抗関係が成立しているわけですね。

まあ、「そういうものなのだ」ということを理解した上で、この対立が「戦争」になってしまわないための色々な調整をやり続けることが「本当の平和への責任」なわけですけど。

この状況で、「どういう人」がいればこの構造全体が安定するでしょうか?

どうすればこの非妥協的な対立が激化して不幸な戦争になるようなことを避けられるかというと・・・・

ヤンキーの気持ちがわかる優等生

というコンセプトのイメージが湧いてくるのではないでしょうか。

4●旗幟鮮明に自由主義側を擁護しつつ、”気持ちはわかるでぇ”という態度を維持する

徹底的に神経質な「本質的平等」みたいな概念をこねくり回すと、あらゆる「鍋奉行」的存在すら吹きとんでしまうわけで、そうすると人間社会が成り立たなくなってしまうわけですよね。

だから何らかの「先生」的な存在を持っておくことが必要になるんですが、「先生」の権威が「理論的に完全な平等性」からちょこっとでも浮き上がっていれば反発を覚える「ヤンキー」さんたちが必ず出てくる。

ここで、日本的存在が、「ヤンキー」さんの側に完全に立ってしまい、一緒になって「反アメリカ」をやりはじめると、もう人類社会が成り立たないじゃないですか。「アメリカvs反アメリカ」で戦争待ったなしという状況になってしまう。

だから、「アメリカ的秩序への反発」はあってもいいけど、とりあえず政治的には「旗幟鮮明に自由主義サイド」を擁護しておく必要がある今回のファインダーズ連動記事に書いたようにそこを揺るがせにすると、明らかにあちこちで「火を吹く戦争」の危険性が高まるからです。

そこが「アメリカ的秩序の優等生としての日本」の部分ですね。

ここで過剰な理想主義だけを振り回して、「火を吹く戦争の危険性」を高めてしまうようなムーブメントを20世紀には過剰に持ち上げすぎていたところがあるわけですよね。

そこはちゃんと「旗幟鮮明にアメリカサイドに立つ」ことが「本当の平和への責任」なんですよ。そこの拮抗関係を維持することは第一優先として重要なこと。

しかし、それだけだとその「秩序における中心から排除された辺境的存在」の怨念が密閉空間の中で行き場を失って高圧化していくじゃないですか。どこかで「狂気」として暴発してしまうかもしれない。そのどこまでも非妥協的な対立をガス抜きする回路もまた別に必要ですよね。

そこで、

「ヤンキーの気持ちがわかる優等生」

が両者の間を繋ぐ必要があるんですよね。

自身はあくまで「アメリカサイド」に立って、戦争レベルの現状変更は許されないぞ・・・というパワーバランスを保つ。

中国のGDPが近々アメリカを超えたとしても、アメリカ+日本のGDPを中国が超えることは相当難しく、永久にない可能性が高い・・・という情勢を維持することが「優等生としての責任」なわけです。

しかし、「アメリカという鍋奉行の振る舞い」が調子に乗りすぎて時々ウザい部分が出てきたら、

「そういうのってウザいよね!」

という「気持ち」を「ヤンキーさんたち」と直接共有し、できることならその秩序構造全体は破壊しない形でやり方を変えるようにちょっとずつ働きかけることもできる・・・

そういう存在を「人類全体が本質的に必要としている」わけです。

4●タリバンとだって共有できる気持ちはある、しかしアメリカサイドにいる優等生=日本の可能性

タリバンがやってることって極端すぎて、具体的な細部としてはかなり日本人からすると「ぎょっとする」事が多いと思うんですよね。

しかし、

「自分たちの伝統的なあり方を上から目線で”人権思想に反してる”とか断罪されるとムカつくよね。お前らこの地域のローカル社会の人心の細部について何を知ってるんだカスが!っていう気持ちになるよね」

というような感覚というのは、一応「共有できる」人が日本のネットでは多く見かけるように思います。

ここでもう「タリバンこそアフガン人が本当に求めた人々の気持ちを吸い上げる自前の政権なのだ!アメリカ帝国主義を打ち倒せ!」まで行ってしまうと「優等生」部分も返上してしまうので別の問題が出てくるわけですけど、「気持ちはわかるでぇ」という部分を維持していくこと自体は重要なことです。

「欧米文明にのしかかられている側の反感」みたいなものを直接「理解し共感し体感できるようになる」っていうことは、今の時代むしろ非欧米バックグラウンドの知識人にとって「重要なセンス」だと私は考えているんですよね。

これは「欧米的理想なんてクソだ」と思うからそういうんじゃなくて、人類全体のGDPにおける欧米社会のシェアが急激に下がり続ける時代には、「20世紀には通用していたような上から目線の断罪」だけではその「理想」を隅々まで通用させていくことができなくなっていくからなんですよ。ここのところのマジな危機感を、「欧米的理想」の普遍性を信じたい人ほど真剣に持つべき時代なんですよ。

「ローカル社会の伝統や人心の綾」に対して「欧米的理想」を、1ミリでも「上」の存在として話すロジック自体が、21世紀にはレイシズムとして排除されかねない情勢になっていることを自覚する必要がある。

しかし、そんな事をしたら「欧米的理想」自体が吹き飛んでしまうんじゃないか?気に食わない存在への私刑が普通にニュースになるタリバン社会みたいな暗黒社会になってしまうんじゃないか?という懸念はもっともです。

5●滑走路段階から飛行段階へシームレスに移行する

これは私の本で使った図ですが・・・

2-1滑走路と飛行

要するに、色々なローカル社会における色々な課題において、「状況ごとにトーンを使い分けていく」ことが必要なんですよ。

ある程度高圧的に「全否定」しかかっていく事が必要な段階っていうのは確かにある。そこで「相手には相手の理想が」とか言ってると自分たち側の理想が吹き飛んでしまうからね。

しかしこれを徐々に「飛行段階」へとシフトさせていくことが重要なんですよね。

なんでかというと、そうしないと「その社会で重要な細部の議論」ができないからなんですよ。

「欧米的理想」が好きなタイプの人って、次々とネットで話題になる「問題となっている地域」をサカナにSNS談義を毎日やってるけど、一週間後にはその「地域」のこともう全然忘れてること多いでしょう?

「そういう種族の人」が占領政策的に実権を握ってローカルの細部まで切り回そうとすると、その「ローカルの細部」の事を本質的には全然興味がない人間に権力を与えすぎるんですよね。

「そういう人」は単に「欧米的理想基準から外れてる存在を断罪する」ことは得意」だけど、その地域にいるあらゆる違った考え方の人間を丁寧にまとめて毎日の業務を破綻しないように回していくようなことは苦手なことが多いわけですよね。

「アメリカが占領した国でちゃんと立ち直ったのは日本とドイツだけ」ってよく言われますけど、ドイツは「ナチスを排除すれば”欧米文明の一員としてのアイデンティティ”を拠り所にできた」し、日本は深い配慮によって天皇制を排除しなかったからこそ、「欧米的理想」を信奉する人と「ローカル社会の伝統的一貫性」を信奉する人をちゃんと対置することができた事が明らかに成功の必要条件だったですよね。

そうやって「普遍性とか関係なく”その地域への思い入れ”を人生のコアとして生きている人」のパワーをうまく活用できないと、「本質的にはその地域に全然興味ない人」がその地域を差配することになるんで、結果としてアメリカのアフガニスタン統治がメチャクチャ腐敗してた・・・みたいな話につながってくるんですよね。

要するに、「欧米的理想だけでは切りきれない」余地を濃密に残していて、そこで「タリバンの人たちの気持ちもわからんでもない」という要素を維持し続けている日本という土壌が、世界的な「米中冷戦」の時代において果たす役割は非常に大きいわけですよ。

「人工的な欧米的概念では隅々まで糾弾しまくることができない空気」というのは、過去30年「日本がダメな理由」の象徴みたいだったところがありますが、アメリカ一強のパワーの退潮とともに「欧米以外の人類全体」の気持ちを吸い上げることが必要な時代には最大のアドバンテージになってくるわけですね。

「強制力」が減衰したぶんは「断罪しない地続きの共感関係を広げていく」ことで置き換えていく必要が今後出てくるからなんですよ。

6●「さむらい仕草」で地続きの共感を広げていく

これは上記の結構バズった記事で書いたコンセプトなんですが、たとえば「最先端型の欧米的理想」から外れたような存在がいた時に、

お前なにやってんだ!こういうヤツって吐き気がする!排除すべき!

っていうのを「ナイト(騎士)しぐさ」だとすると、

まあ、そういう気持ちになることってわからんでもないけど、でも相手の立場も考えてみたら、人としてそこは超えたらあかん一線ってものがあるやろ

という態度で地続きに「規範意識」を広げていく態度を「さむらいしぐさ」と私は呼んでいるんですよね。(これでも最終的には”切断”があって何でも無意味に追認してるわけではなく、つまりはまさに”ヤンキーの気持ちがわかる優等生”の態度が大事だってことなんですね)

上記のnoteはかなり好評だったんでご興味があればぜひ読んでほしいんですが、「さむらいしぐさ」の該当部分だけ引用しておきますね。

>>>>>>>>
ここで「サムライしぐさ」と「ナイトしぐさ」と私が呼んでいる2つの態度について考えてみたいんですが。

あなたが、もし例えばコンビニの店員に怒鳴ってるおっさんとかがいた時に、どういう対処をするか?イメージしてみてほしいんですよ。

欧米のSNSでよく動画がシェアされてバズる傾向にあるのは、そういう時に「店員の側」に立って、

おい、なにしてんだテメー!あっち行け!シッシッ!


ってやるやり方ですよね。これを「ナイト(騎士)」しぐさと呼びたい。

でも僕はちょっとこういう「ナイトしぐさ」は苦手で、自分だったら絶対やれないな、って思うんですよ。

かわりに、僕がよくやる(結婚してからは奥さんにキケンだからやめろって言われてあんまりやってないですが)のは、逆に「騒いでるオッサン」の方に近づいていく方法なんですよ。

「おっちゃん、何があったん?ちょっと話聞いたるから外出ようや。店員さん困ってはるがな」


とかいって「店員さん」から「オッサン」をどんどん離して行こうとする。コレを私は「サムライしぐさ」って呼んでるんですけど。

これを読んでいる読者のあなたも、日本人(の特に男)なら、「ナイトしぐさ」はできないけど「サムライしぐさ」ならできるな・・・って人、結構いると思います。

今でも覚えてるのは、コンビニで騒いでるオッサン客をなだめつつ外に出したら、突然軍隊式の直立不動の姿勢を取って、深々と頭を下げたあげく

「す、すまんかったー!!!」

って大声で泣き始めたことがありますよ(笑)

要するに、「糾弾する側」に立って「糾弾される側」に「あっち行け!」ってやるナイトしぐさだと、そこから切り離された男の行き場所がなくなるわけですよね。「ロッカールームから追い出してしまう」ことになる。

SNSで騒いでいる女性活動家とかは、「キモい男」が目の前からいなくなって気持ちいいかもしれないし、「ほんと、あんな男信じられないよねー」とか言ってくる男とワチャワチャするのは一瞬楽しいかもしれませんけど、その「切り離された男」を収容所に入れて抹殺することもできないんだから、そういう男は「同じ社会」の中で放流されて、恨みを溜め込んで生き続けているわけですよ。

でもここで、「ロッカールームから追い出さないサムライしぐさ」でなんとか包摂しておけば、その「キモい男を思う存分SNSで断罪して喝采を浴びたい女性」からすると不満もあるでしょうけど、その男はとりあえずその社会への帰属意識を失わず、最低限の遵法精神も失わずに包摂されて生きていくことになる。

何度も言いますが、この「ナイトしぐさがあまり歓迎されないが、サムライしぐさでちゃんと包摂されている機能が生きている」からこそ、日本社会は細かいセクハラとかは確かに放置されてるかもしれないが、比較的夜道を歩いても安全とか「致命的な犯罪」に合う率は低い構造になっているんだと、私は上記の「いろいろの体験」から確信してるんですよ。

とはいえ、じゃあ日本じゃあ細かいセクハラとかも我慢しろ!って言うのか?・・・・と思うかもしれないけど、そうじゃないんですよ。

「ロッカールームの包摂力」を破壊しないようにしながら、「女性側の要望」をちゃんと社会の末端まで伝播させていく工夫をするべきだ

ということが言いたいんですね。

<<<<<(引用終わり)

7●アメリカ型の糾弾中毒的ポリコレを包囲殲滅せよ!

今回、バイデン大統領が、

「アフガニスタンの女性の人権のために米軍兵士の命を危険にさらすことはない、ゼロ・レスポンシビリティーだ」

とか言ってたのは物凄い大きなことなんですよね。

ただこれは、「アメリカ的理想を人類全体に普遍化することはもう不可能になった」というよりは、より「ローカル社会の民心との地続きの延長によって浸透させていくことが必要な時代になってきたし、またグローバリズムが不可逆なレベルで確立したことでそれが可能な時代にもなってきた」ということなのだと考えていいと思います。

要するにさっきの図で言えば、大枠で言って人類社会全体が「滑走路段階」から「飛行段階」に入ったから、ゴリ押しの上から目線の糾弾中毒みたいなのを退潮させていって、もう少し「さむらい仕草」的な対話の延長で浸透させていくことが必要な時代となってきている、そしてそれが可能な時代になってきてもいるってことですね。

私はよく

これからの時代には、「フランス革命の理想に熱狂した人たちの気持ち」も、それによって生まれた狂気によってギロチンされまくった人の気持ちや、熱狂した軍隊によって攻め込まれまくった国々の人たちの気持ちも、両方入れ込むことが必要になってきている

という話をしていますが、まあ普通に考えれば当たり前の話だと思いますが、そういう現象がこれから起きていく中で、日本という国の役割がいかに大きいかがわかるでしょう。

これを読んでいる読者のあなたがどういう立場の人かわかりませんが、「欧米的理想よりもローカル社会の伝統や人心の綾」の方を重視するタイプの人であるなら、昨今のSNSで盛り上がっている「上から目線で純粋化した欧米的理想を振り回してあらゆるものを糾弾しまくる中毒」的な勢力に対して、反発を覚えて攻撃したい気持ちをグルグルと持っていることが多いでしょう。

そこでは、ある意味でタリバンとも「共有する気持ち」自体があること自体は悪いことではない。「フランス革命の狂気で攻撃されてひどい目にあった人たちの気持ち」も吸い上げないといけない時代だからね。

ただできればそれが「個人攻撃」にならずに、その「考え方」自体をちゃんと批判できるようになっていけばいいですね。

結局「糾弾中毒型のムーブメント」はアメリカの軍事力が潜在的背景にあってこそ通用していた部分もあるので、「ロシア奥深くに攻め込みすぎたナポレオン軍へのロシア人の反撃」みたいな状況は今後徐々に起きてくるでしょうし、それはまあ起きていい。

起きていいが、それを単に「欧米的理想を叩き潰せばそれでいい」という話ではなくて、「単に糾弾し合うだけでなく具体的な話をできるように」転換する動きを起こしていけるといいし、世界代表としてその「土壌」を作れる可能性が日本にはある。

昨今の「糾弾中毒型のリベラルムーブメント」に批判的なのは欧米の穏健的知識人の中にもかなりいるので、そういう人たちの思いともつながっていきながら、「先鋭化しすぎた理想を生身の社会に調和させていくゆりかご」が世界のどこかには必要なんですね。

そしてそういう存在がちゃんと米中冷戦の間に揺るぎない「基準」を日本が「地続き」に作り出していくことによってのみ、中国人14億人の思いを国際社会と調和させて戦争を回避できる道も見えてくるようになる。

図3-2

私がいつも使ってる図でいうとコレ↑みたいな存在が必要なんですよ。

8●「具体的な話」をするべき

要するに、単にサンドバッグみたいに「古い社会の象徴」を叩いていても社会は前に進めないというか、その「見た感じ感じ悪い部分」が、その社会のマイノリティの人も含めた色々な生身の人間(特にアメリカンに個人主義的な行動力がない人間)にとって大事な盾になってくれてる部分もあるからなんですよね。

だから、昨今アメリカではやってる理論「とにかく古い社会の象徴は無限大に叩いていい」系を実践する人への「包囲網」は今後どんどん狭めていっていい、むしろ積極的にやるべきと思っています。

そこの「包囲網が狭まる」ことについては、ナポレオン軍に攻勢をしかけるロシア軍のような「やりかえしてやる」的な黒いエネルギーが介在することは悪いことではない。

少年漫画風にいえば、

ほらほらポリコレ勢力の居場所がどんどん削られていくぞぉ?時間切れまでにちゃんと「対話」と「具体的改善」の積み重ねモードに移行してみせろ!

的な圧力は、しょうもない個人攻撃になったらダメですけど、全体とした議論の方向性としては悪いものではないはず。

で、大事なのは、いつも言ってる事なんでこの記事では簡単に述べますけど、

・「それが”今そうなっている理由”にまで遡って解決する」

たとえば私立医学部入試の男女不均衡が起きているのが「男のエゴのせい」だと思ってたら解決できない。女性医師がなかなか行かない診療科の人数が手薄になったら医療崩壊するから苦肉の策として起きているわけで、その「原因」まで遡った配慮が必要。診療費の傾斜配分がいいのか、医学生の将来進路をはやめに縛っておけるシステムがいいのか、なんかとにかくそういう「具体的な細部」の検討をちゃんとやらないと解決できない。「その入口の提起」ぐらいまでフェミニストがやってくれたら状況は全然変わってくる。

そういう「具体的な制度の話」に踏み込まないと、男の方が辛い、いや女の方が辛い・・・とか「生きづらさトーク」とかをやっているだけでは前に進めないわけです。お互いに憎悪だけが募っていって逆効果だったりする。

・ちゃんとブレイクダウンした数字を使って問題に迫る

たとえば「ジェンダーギャップ指数」みたいなかなり問題が指摘されてる大雑把な指標使っていても意味がない。そもそも数字の比較がフェアでないことも多い。たとえば世界一の高齢社会で高齢議員が多い日本の政治家の男女比をトータルの数字のまま比較したらフェアじゃないのは明らか。「上の世代」の女性に政治家になる人生を歩んだ人がいないんだから改善のしようがない。

しかし、「ある年齢以下の新人議員の男女比」とか、あと何歩かブレイクダウンしたフェアな数字を使えば圧倒的に具体的に意味がある話ができるようになる。

最後の最後まで女が活躍すること自体が許せんっていう男も残るでしょうけど、少なくとも「欧米的理想とローカル社会の伝統とを等価に見るフェアな議論」をしていけば「普通に話が通る存在」の中で具体的な話は進んでいくんで、「タリバン的暴発」が起きなくて済むんですよね。

そうやって「同じ場所に気持ちを繋ぎ止めながら」動かしていくことが重要なんですよ!

・・・というあたりを持って掘り下げていけるといいですね。

最近、「日本政府を批判し変化を求める側」の熱意が暴走しすぎて、たまに「何を言ってるんだ」っていうレベルのツイートが万単位で「いいね」されていて凄い心配になります。

たとえばほんの一例ですけど東京都のコロナ検査数は報告のラグがあって「陽性者数」は即反映されるけど「検査数」は後から反映されるんで、物凄く陽性率が高いように見える瞬間があるんですけど。

それを比較した数字を見せて「スガ政権は自分たちだけを守るために隠蔽してる!」みたいなツイート、万単位で「いいね」されてるのを、閉じた世界にこもらないようリベラル派も沢山フォローしている僕は一週間に一回ぐらい何度も何度もこの半年〜一年ぐらい見続けるハメになっていて、そこに大量の「自民党は自分たちの仲間以外死ねばいいと思ってるんだ。やっぱり検査数は無理やり抑えられているんだ!」的陰謀論に凝り固まった人々が寄り集まってるのを見るんですけど。(最近その盛り上がりに日本のリベラル派の”知識人”が乗っかりすぎて、そこと繋がっている日本語わかる韓国人とかまでオカシクなってるのを見かけます。目を覚ましてくれ・・・)

そういうスレッドに対して毎回「この数字は反映時期にズレがあって」ってご苦労さまにもちゃんと説明してる人がいるんだけど無視されてて(笑)、色んな有名なジャーナリストとか野党政治家まで「いいね」をし続けてるのってマジで何をやってるんだって話ですからね。

「スガは何もやってない。補償だって一切してない」とか言う事実認識からしてメチャクチャ間違ってるんで、そういうのに野党支持者みんなで「いいね」とかされると、どんどん「やっぱり実際に政治ができるのは自民党だけだな」って流れになっちゃうわけなんで。

まず事実認識として体温が40度の高熱なのか36度の微熱なのか冷静に判断した上じゃないとマトモな治療方針なんてたてられないでしょう?

経済補償だって、色んな先進国と遜色ないレベルの予算で特に雇用安定化についてはジャブジャブに出しているという現状を理解せずに、「ぜんぜん出してない!欧米と違って民衆なんて死ねと思ってるんだ!」とか吹き上がってたらマトモな「改善策」も出せないじゃないですか。

「ファクトチェック」が必要なのは右の人だけじゃないんですよ、ほんとに。ちゃんとやろうぜ主権者の我々!

「とにかく不満があるんだから文句言いたい」というエネルギー自体は否定できない大事な感情だけど、それをある程度責任持って束ねて具体的な議論に転換できる仕組みを作っていかないとね。

「米軍の強制力の退潮」は、その「空隙」を、そういう「大人の配慮」で置き換えていくことが、これからの日本にとって大事なことなんですよね。


今回記事の無料部分はここまでです。

ここ以降は、「反米崩壊国家セルビア」の話をします。

これは色んな場所で書いていますが、大学時代につきあってた女の子が旧ユーゴのセルビアに文化人類学の調査に行ったので同行したことがあるんですが、当時セルビアは旧ユーゴ紛争の元凶扱いされてNATOが空爆しまくった直後で、「アメリカと切り離されると社会はどうなるのか」を凄く実感する体験だったんですよね。

ドイツマルクの現金を持って入ると、市場を歩いていたら話しかけられて公定レートの10倍とかで変えてくれたりして、「貨幣というものの仕組み」について物凄く勉強になる体験でした。

今、ベネズエラが似てる状況になっていて、「国」単位で反米・反欧米になればなるほど、現地では米ドルが有難がられる現象が起きるのが面白いなと思っていて(笑)。

そのあたりから、人類社会にとって「アメリカ」とはなんなのか・・・みたいな話について考察する記事をここ以降では書きます。

その「本質」までちゃんと遡った上で責任を持った行動とは何か?を考えていくことが、次の「平成時代の日本のグダグダにはブチャラティの覚悟が宿っていた」っていう記事につながるんですよね。

こちらの記事↑もぜひどうぞ。

2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。これを機会に購読を考えていただければと思います。

普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。

また、倉本圭造の最新刊「日本人のための議論と対話の教科書」もよろしくお願いします。以下のページで試し読みできます。

ここまでの無料部分だけでも、感想などいただければと思います。私のツイッターに話しかけるか、こちらのメールフォームからどうぞ。不定期に色んな媒体に書いている私の文章の更新情報はツイッターをフォローいただければと思います。

「色んな個人と文通しながら人生について考える」サービスもやってます。あんまり数が増えても困るサービスなんで宣伝してなかったんですが、最近やっぱり今の時代を共有して生きている老若男女色んな人との「あたらしい出会い」が凄い楽しいなと思うようになったので、もうちょっと増やせればと思っています。私の文章にピンと来たあなた、友達になりましょう(笑)こちらからどうぞ。

また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

また、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。

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