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明治神宮外苑再開発の話(後編)…日本における「双方向の話し合い」はどうすれば可能になるのか?

トップ画像は神宮外苑のイチョウ並木(ウィキペディアより)

今日二本目は全然違う記事を書いていたんですが、今朝アップした前編記事が過去最大ぐらいにバズって色んな意見が飛んで来ているので、それに答える形で補足記事を書きたいと思います。

とりあえずまず前編記事をお読みください。

今回の後編記事では、寄せられた多くのコメントの中から単純に前編に少し追記するだけでは足らず、追加の考察が必要になっている部分についてまず書きます。(見出し1−2まで)

そしてその上で、どちらにしろ変わらず私が伝えたいメッセージについて、より深堀りして本質的な部分をまとめる内容となっています。(見出し3以後)

(いつものように体裁として有料記事になっていますが、「有料部分」は月三回の会員向けコンテンツ的な位置づけでほぼ別記事になっており、無料部分だけで成立するように書いてあるので、とりあえず無料部分だけでも読んでいってくれたらと思います。)

1●「新建築家技術者集団案」というのがあるらしい

Twitterに賛否それぞれ色んなコメントが投げ込まれる中で、「イコモス案」とは違う「新建築家技術者集団案」=通称『新建案』というのがあるらしいということを知りました。

他にも「再開発をそもそもしない」「神宮球場もラグビー場も改修だけで済ませる」という意見が反対派の一部では持論なのだ…というコメントがチラホラあって、それはだいたいこの『新建案』(これそのものをその人が意識しているかはともかく結果として同じ意見を持っているという意味で)の事を指していると思われます。

「三千数百億円も必要だというのは議論をごまかしている。球場だけなら数百億で済むはずだ」という批判もだいたいこの案の路線だと言えるでしょう。(イコモス案は案外色んなところで工事をし、仮球場を一回建てて壊したりするので、あれはそれなりに巨額の費用が必要なプランだと思います)

で、その「新建案」がこちらなのですが…

新建築家技術者集団 神宮外苑再開発問題 見解と提案

リンク先記事からの図ですが、新建案の最終図はコレです。

特徴は、

・神宮球場の建て替えはせず、必要な改修を行い継続活用
・秩父宮ラグビー場の建て替えはせず、必要な改修を行い継続活用
・伊藤忠の本社ビルも建て替えはせず、必要な改修を行い継続活用(まあこれは特に問題ないと思いますが)

…というわけで、要するに今ある建物を全部「改修」で済ませるという案です。

ほとんどモノを移動させないので木を切る必要はほぼなく、今の公園のイメージはそのまま保たれます。

問題は、古い球場を改築だけでやるのは結構コストがかかるっぽいことです。

この話でいつも例に出されるのが阪神甲子園球場で、これもコメントで指摘している人がチラホラいました。

甲子園球場は2005年〜2009年の間に「21世紀の大改修」と銘打った改修を行い、耐震補強やバリアフリー化などが実現しているのですが、この投資額が当時で200億円と阪神の発表資料にあります。

一方で広島カープのマツダスタジアムは、用地取得費などを排除した純粋な建築費は90億円だったそうですから、要するに「古い球場の大改修は新築より高くつく」のが基本という事だと思います。

2000年代後半と今では資材や人件費の高騰もあり、同じ金額ではできないでしょうから、ラグビー場と神宮球場の改修費用だけでも、例えば600億円とか、もう少しかかるのではないかと思います。

ただし、ここで幾人かにご指摘された話としてラグビー場の改修費は明治神宮ではなく持ち主のJSCが行うのであり、明治神宮がやるべきなのは神宮球場周辺のごく一部の改修だけで良いのだとすれば、ひょっとすると数百億円あればいいプランになるかも?

ここまであくまで「現状維持」にこだわることは、果たして「反・開発主義の物好きな一部の層の自己満足」ではなく本当に「多くの人々の望むこと」なのか?というのは大いに考えるべきテーマであるように思いますが、単純にプランとしての金銭的実現性はある程度見通せる案だと言えるかもしれません。

2●『新建案』の実行上の問題はどこにあるのか?(確かに”金銭的な意味での実現性”は最も高いプランかも)

確かに、外苑全体をあちこち作り変える現行案やイコモス案に比べて、巨大な再開発はせずに、既存施設の再回収だけで済ませるわけで、コスト総額だけを見ると大分節約できているように見えます。

三千数百億円必要だったところ、例えば数百億円程度で済むかもしれません。

一方で、実は前編で指摘した「イコモス案の問題点」と、この案は同じ問題が発生しています。

つまり、もともと三千数百億円だろうと600億円だろうと明治神宮には負担しえない巨額であって、再開発事業と絡めることによってやっとその費用を捻出するプランになっていたからです。だから、投資額が5分の1〜6分の1になったんだから簡単でしょ?というわけにはいかない。

↑上記のように書いていたのですが、実際にもし数百億円だけの工費でできるなら、寄付なども組み合わせて明治神宮にも負担可能になってくるかもしれませんね。

その場合、やはり明治神宮側の懸念を迎えに行くようなコミュニケーションができていれば良かったのではないかと思うところがあります。

「新建案」ではこのコスト問題について、以下のように書かれています。

特に、土地・建物所有者にとって外苑の維持管理負担が問題であるならば、その問題に関する情報公開を行い、都民も含めて方策を検討すべきです。

新建築家技術者集団案6ページ

これは理想論としては非常に正しい。全くそのとおりです。

一方でこの問題のすれ違いの本質は、前編で書いたように

この問題の本質は外苑単体だけの費用負担の話ではなく、あの本丸である「内苑の森を守る」ための原資をどうするかという問題でもあるという事が理解されていないこと

…です。

あの荘厳な内苑の森の管理をイチ宗教団体が担っていて、その原資は主に外苑の球場施設その他の収益から出ている。

それも毎年ギリギリなので、何か安定した収益を得られるプランがないか長年考えてきた結果、建替費用(主に空中権取引)も安定した収益(ホテル棟の借地権代)も得られるプランにたどり着いた。

ここまでの”切実さ”を考えると、

特に、土地・建物所有者にとって外苑の維持管理負担が問題であるならば、その問題に関する情報公開を行い、都民も含めて方策を検討すべきです。

…とか大きな資料の端っこにチョロっと書かれているからといって、ハイそうですかと乗ってこれるかというとかなり難しいと思います。

「議論」はしてくれるかもしれないけど、あんたらあの内苑の森の維持管理について、自分たちと同じぐらい真剣な責任感を持って費用支出考えてくれるの?

…というのは不安になりますよね?

ましてや、長い資料のほとんどは、「いかに事業者が過大な収益をあげようと強欲なプランを練っているか糾弾するモード」で書かれた資料を突きつけられて、そこから双方向に有意義な話し合いが立ち上がるとは思えません。

要するに、ある程度「明治神宮側の懸念点」を迎えに行くような議論のあり方が、「双方向性」のためには必要だったのではないか?というのが私の意見です。

3●欧米型のチェックアンドバランスとは違う対話のモードが必要

欧米の政治家の汚職とかを扱ったドキュメンタリとかを見ていると、特にアメリカのものを見てると「こんなことマジでやるか?倫理観ぶっとんでんなー」と思うことが結構あります。

欧米(特に米国)においては、事業者はとにかく利益追求が第一で、他の事は一切考えなくていい・・・というカルチャーが一方でまずあって、それをバランスするために「糾弾する側」も全力で糾弾してやりあう構造になっている。

一方で、日本社会は事業者に何らかの公徳心みたいなものを求めてそれを前提にして動いているので、明治神宮があの内苑の森を守ろうとしているように、彼ら側もなんらかの「大きな責任感」を持って動いている事が多い。

逆に言えば、そういう「公徳心を持った事業者の献身」なしには、今の日本社会の「普通」は維持できない構造になっている事を、私たちは普段生きていて気づいていないところがある。

例えば今回の再開発は、東京都が持ちかけて、森喜朗氏がそれを働きかけるのを是認する会議録が残されており、森氏のイメージの悪さもあって(笑)、ただ明治神宮は無理やり載せられてるだけなんだろう…と思っている人が反対派にはかなりいます。

しかし、例えば前編でも紹介したこの記事では2005年に既に明治神宮の関係者が、内苑の森の維持費負担が重いので何らかの再開発事業が必要だと雑誌で述べていたとされており、そういう状況を”関係者全員(必ずしも明治神宮所属の人間だけではない)”が理解した上で色々な制度を利用する案を練ってきた(当然具体的には東京都庁の人間も森喜朗氏も含まれる)という様子が、これも前編で紹介した元都庁出身の学者さんの解説記事からわかります。

日本人が「公」的なことを実現しようとする時、各プレイヤーが各自分のエゴのことだけを考えてぶつけあって落とし所を探る…という形にはならない事が多いですよね。

・「なるほど明治神宮にはそういう事情があるのか。誰かが何か解決策を考えないといけないな」
・「宗教団体だから公費を入れにくい(よほどの特例措置を合意できれば別ですが)中で神宮球場の建て替えはいずれ必要になるよな」

・色んな制度を利用してなんとか安定的に”皆の良いようになる”プランはないだろうか

・・・というような事を、「誰からともなく皆で考えている」というのが日本人の「公」というところがある。

だから、「ある瞬間誰がこう言った」という部分を最大限曲解すれば森喜朗が暗躍して自分の懐を肥やすために無理筋なプランを実現したように見えるかもしれないが、そうじゃなくてその背後には「その場に対する強い責任感を持つ人々の集合的な関与」があるんですよ。

そういう観点で「何が起きているのか」をまず理解しないと、抜けもれなく色んな条件が解けるように10年かけて準備してきた人々からすると警戒心から余計に引きこもりがちになるのは不可避なことだと私は思います。

しかし、この問題について「費用負担が必要ならオープンに”市民的議論”をして考えるべきだ」という理想主義を持っている人(反対派の多くの人はこれでしょう)も、実は”同じビジョン”を目指している側面はあるはずではあります。

ただし、今はこの「現状行われがちな非常に日本的なやり方で実現する公」を、「フルオープンな議論」に載せ替えようとする時に、日本人の公的でオープンな議論のやり方があまりにも下手くそすぎるので、個々人のエゴの暴走によって「守られていた公」自体が全部吹き飛んでしまいかねない状況に置かれてしまいがちな問題が放置されている。

前編記事に対して色んなコメントが寄せられましたが、私も前編記事に書いたように最近の東京の再開発事業が、「一部の事業者関係者」だけの意志で大きく動かしすぎていて、だんだんワンパターンで滋味の少ないものになってきているのではないか?というのは同じように感じていることなんですよ。

そこに「新しい双方向的な対話のやり方」が立ち上がってきて欲しいと私も思っている。

ただ、そのために今何が必要なのかを考えると、例えばこの場合においてですが、反対者側がもう少し「明治神宮側の事情とか思い」を理解した上でメッセージを送ることを考えるべきではないでしょうか?

欧米のように「事業者はエゴの追求だけが仕事」「チェックする側はチェックすることだけが仕事」ならいいのですが、日本のように「事業者側も責任を持って考えているテーマがある」場合、チェックする側もそこに迎えに行って一緒に考えるモードがないと、「日本社会の基礎を支えている部分を考えている人が誰もいなくなってしまう」問題が発生する。

長い資料の大半で、「巨額の暴利を貪るために制度を悪用しているに違いない」というトーンの文章が続いた後で、最後にチョロっと「コスト負担が必要なら一緒に考えましょう」とか言われてもなかなか不信感が渦巻いて話は進まないと思います。

「銭ゲバの明治神宮が悪どいことをしているに違いない」という筋立てを最初から持ち出す風潮が溢れているので、推進者側も正直に全部話せばわかってもらえるだろう…という信頼が崩壊していて、結果として非常に高圧的な形で押し切るようなスタイルが横行してしまっている。

本当に「有意味な対話」を行うなら、以下のようなモードに変えていくことが必要ではないかと私は考えます。

・批判するならフェアにやる。
・相手がそれをやっている理由を、性悪説でなく性善説でまず理解する
・曲解して「巨悪」扱いするストーリーをマスコミやSNSに売り込んで物事を混乱させない
・ただ意見百出して混乱するだけに終わらせないように一緒に協力する姿勢を見せる

現状の議論のあり方には何か「日本特有のすれ違いのパターン」がありますし、勿論当局者が聞く耳を持つ姿勢が必要だというのも確かですが、反対派からもあと一歩迎えに行く姿勢が必要だと考えています。

今はお互いの寄って立つ文脈が全く違う状態が放置されすぎて、「どうせちゃんと説明しても曲解されて混乱させられるだろう」という不信感から当局者が過剰に高圧的になっている側面も明らかにあるからです。(ただしこれは今回の案件に対する接し方だけでどうこうできる問題ではなく、長年積み重なってきた不信感を、そもそも緩和していく努力をするべきなのだと考えています。ある意味今の反対派の人は今のやり方をとりあえず続けるしかないという事情も否定できないかもしれない)

ただし私が先程述べたような、「日本人が現状ギリギリ日本社会的調和を維持するために献身している事情」を考えると、例えば今回の批判コメントの中には村上春樹の「卵と壁があれば卵の側に立つ」という言葉を引用する人が何人かいましたが、私の理解においては、今の日本では例えば「内苑の森の維持費をどう捻出するか」といったレベルの責任感も、あらゆる「個のみの解放」の結果として「ある意味”卵側”の脆弱性」を持っている部分があります。

欧米社会における当局者はグローバル社会の文脈における「百%の文脈的安定性」を持っているので、「攻撃側」も最も非妥協的なモードにおける「お前が壁、俺が卵」で対処すればいいですが、日本におけるそういう「歴史の中で培われてきた助け合いの連鎖」のようなものは、むしろ常にグローバル社会の文脈によって攻撃を受けている脆弱性を抱えており、非欧米社会においては、「当局者も反対者もそれぞれなりに脆弱性を持っている」という欧米社会とは別の”権力勾配”があるのだと考えるべきだと思います。

そこの部分に無頓着であるからこそ、過去100年の人類社会は常に欧米社会の「辺境」において強権的な政権が生まれ、そしてときに欧米社会の主流に「復讐」にやってくる悲劇を繰り返してきたはずです。

米中冷戦が深刻化し、プーチンの挑戦が人類社会を揺るがす今、そこにある「欧米社会内とは違う辺境における権力勾配のあり方」に応じた柔軟な対応こそが必要とされているのだと私は考えています。それなしには第三次世界大戦も不可避なほどの不安定な状況に置かれつつあるからです。

4●「お上任せにしない」ということは、「モンスタークレイマーになる」ことではない

なぜ日本的な暗黙知で実現される「公」を、フルオープンな「いわゆる民主的・市民的な議論」に移し替えることができていないのか…の理由としての「日本人がオープンな議論が下手くそだから」という話をもう少し掘り下げます。

より本質的な話に踏み込むので、少し再開発の話から離れるように見えますがついてきてください。

日本人は「お上に決めてもらう」事になれていて、民主主義のなんたるかがわかってない…というよくある指摘があります。

まあそうかもしれませんが、私はいつも、この指摘が本当に当てはまると思うのは、

「自分は主権者なんだからモノ言わせてもらうぞ!」となった時の日本人が、その問題の当事者としてでなく、一種モンスタークレイマーみたいな気質になる時

…です。

なんか、果てしなく「要求を突きつけてやったぞ!」という事自体が自己目的化してしまう層と、逆に過剰に従順に「物言わぬ民」になってしまう大部分とに分断されてしまいがちだと感じています。

例えば…の例として、今私が別件で取材している電力業界の話を考察例としてあげさせてください。いきなり?って思うかもしれませんが、ここにある「日本での議論が不毛になるよくあるパターン」的な重要な問題が非常にわかりやすく露呈した例であるからです。

今、私は再生エネルギーと原子力発電などをテーマに、日本の電力事情の混乱の原因がどこにあるのか?を深堀りする記事を書いています。

既にアップされましたので、以下リンク先から今後連続で続く3回記事をぜひ読んでいただきたいのですが…

この記事を書く中で、日本における再生エネルギー推進者が「バイブル」みたいによく引用しているある映画を見たんですね。

どうやって再エネの変動を吸収するプランなのかな?と期待して見ていると、

「色んな場所に色んな風車なり太陽光なりを置けば、全体として均されて変動がなくなるから大丈夫なんです!」

…みたいな事を力説していて、

いやいやいや、理論はわかるが現実はそうならんから皆苦労してるんじゃないですか!

…という感じで脱力しました。

あまりにも社会が「再エネ」に懐疑的だった時期にはこのレベルの暴論も意味があったかもしれませんが、国家レベルでかなり野心的な再エネ導入目標が掲げられた今となっては、「このレベルの再エネ推進者」はむしろ申し訳ないですが「邪魔」になっている側面があると思います。

これは前編で「事情をちゃんと考えない反対論が横行していると、事情をちゃんと考えて地道に提案している人が埋もれてしまうのが問題だ」と述べたのと同じことです。

今、日本のSNSでは主に最右翼層が再エネを敵視している事が多いですが、実際に調べてみれば、「プロ」がキチンと計画的に取り入れていくならば再エネには大きな可能性があります。

しかしその「理想」を本当に実現したかったら、

「ただ沢山作れば変動は吸収されて問題なくなるのだから、それを止めようとするのは原発ムラの陰謀だ!」

…みたいなレベルの議論をフェードアウトさせていって、入れ替わりに例えば、

「ドイツと違って周囲の国と繋がっていないから電力が余っても売れないし、ましてや足りない時期が続いたら大問題なのは理解できます。だからしばらくはいざという時の備えは万全にしておかないといけないですし、例えば老朽火力も残しておくための維持費を再エネ業者も広く負担する案は大事ですよね。一方で洋上風力のアセスメントが過剰に事業者に負担が大きすぎてスムーズに行えない問題はなんとかしてください。」

…というレベルの”大人の議論”に置き換えていかないといけない。

「お上任せにしない」ということは、自分も当事者なのだと考えて、上記の2つの例で言えば”後者”のレベルで考える…という事ですよね?

日本においては、「俺はお上任せにしない目覚めた市民だぜ!」という人が、「自分の意見を言う」ことに不慣れであるせいか、「前者」のモンスタークレイマーみたいな困った存在になってしまいがちな現状があると私は考えています。

「どこまでも善なる市民の俺たちvsどこまでも悪辣な権力者ども」というファンタジーに耽溺している人が多すぎて、本当に自分が「主権者」としてちゃんと考える気がない層を止められなくなってしまいがちなんですね。

結果として逆に、現実をグリップするために余計に当局者が高圧的にゴリ押しするしかなくなってしまう。

電力関連記事について色々先月取材してきて思ったのですが、今や「いわゆる伝統的電力会社」の方も再エネにはかなり積極的であり、「原発ムラが邪魔しに来ている」なんてことは全然ない。

一方で「安定供給への責任感ゆえに二の足を踏んでいる」的なことは大いにあるので、むしろ「彼らの責任感を共有していく」ことによってのみ、「再エネにアクセルを踏む」ことも十二分に可能な情勢になっている。

これは神宮外苑のような日本における「再開発」をどうやったら「双方向的に行えるか」という時にも同じ発想が大事になってくるはずです。

性悪説でなく性善説でお互いを理解し、「それぞれの正義」を両方否定せずに尊重しあって議論していくモードが今必要されているわけですね。

5●欧米的理想が世界の半分から拒否されつつある時代に必要なこと

電力問題は調べれば調べるほど、

「あんたら何の話で激論してんねん。問題はそこちゃうやろ」

と呆れることが大量にあります。

例えばドイツの脱原発の話が出た時に、以下のような水掛け論になるのは「非常にあるある」で、さっきの「再エネ派のバイブル映画」でもかなり時間を割いてその話をしています。

ドイツはフランスから原発の電気を買っているじゃないか!
vs
いや、ドイツはむしろフランスに電力を輸出している!

で、「原発推進派」が「フランスから電力を買いまくってるくせに!」というのは確かに事実としては間違っていて、むしろ総計で見るとドイツは電力をフランスに輸出している。

しかし、「ほら見ろ!原発推進派の奴らは事実を見ていないバカどもだ!」と断じるのも全くもって間違っていて、冷静に考えれば問題は全然そこじゃないこと事が多くの読者の方にもわかるはずです。

変動する再エネの比率が高いドイツは、再エネの調子が良い時間と季節には当然余るわけで、まわりに輸出していてむしろ当然だと言える。

しかし「原発推進派」が言いたいのはそんな些末なエネルギー収支の問題ではなくて、ドイツはまわりの欧州諸国と一体化したグリッドを持っているので、『余ったら売ればいいし、もし足りなくなったら買えばいい』…という、日本とは全然違う条件を持っているという事ですよね?

冷静に部外者から見れば、「あんたら何のケンカをしてんねん」という気持ちになるはずです。

必要な議論は、こういうの↓でしょう?

「なるほど、確かにドイツと違って他の国とグリッドがつながってないから、日本では電力が一瞬でも余るのも足りないのも強烈な問題になりますよね。だから安易にドイツにできるんだから日本もできる!とは言えないのはわかります。しかしちゃんと安定性も重視した形で、一歩一歩進めていくことはできますよね?その方法を一緒に考えましょう」

はっきり言って、「このレベルの議論」↑は、欧米諸国内では当然できるはずのことなんだと思うんですよ。

「ダメな例」の方の議論は、欧米諸国内で表明されたら速攻で色んな人から反論が来てその間違いが晒されるはず。

しかし日本では、「欧米は必ず進んでいるに違いない。日本政府が欧米と違う事をしているなら、それは何か許されざる後進性に違いない」みたいなムードが蔓延しているせいで、この「ダメな例の方の議論」が放置されがちなんですよね。

そして、さっきの「モンスタークレーマー型の市民さま」の間でぐるぐると純粋培養されて、「これを受け入れられない日本政府はおかしいしこんな後進国で生きるのは地獄だ!」みたいな話が暴走していく一方で、当局者は逆に現実をグリップするためにどんどん保守的な見積もりに引きこもる必要が出てくるし、社会全体が過剰に国粋主義的で排外主義っぽい雰囲気に飲まれていってしまう。

大事なのはこの「雑な議論」をアップデートして、「現状の当局者のプラン」を絶対悪にしないで同じ目線で事情を理解して協力していく提案をいかにできるか?

今の日本に足りないのはそこです。

そもそも、なぜ日本の場合だけ「雑な議論」でもいいという気持ちになってしまうのかと言えば、それはそういう論者の中に、「欧米から見た辺境の土人どもの政府のこと事なんかテキトーな議論でワルモノにしてもいいだろう」という一種の人種差別的な偏見があるからだと言えるでしょう。(たとえ本人も日本人だとしても…自分だけは例外の名誉白人だと思っているのかもしれません)

非欧米社会における具体的問題を扱う時には、まず論者の中に、

・ちゃんと欧米の国を分析する時と「同じ秤」ではかれているか?
・どうせ非欧米の国なんか間違ったことをしているに違いないという偏見を持って分析していないか?
・「現状そうなっている理由」を丁寧に尊重して向き合う意志が持てているか?

…を徹底的に反省する姿勢を持って、あくまで事実に基づいた客観的な議論を進めていくことが大事です。

先程も少し述べたので簡単にしますが、この「非欧米社会における具体的課題を扱う時に途端に雑になってしまう傾向」が人類社会に放置されているからこそ、常に欧米諸国の「辺境」に強権的な社会が生まれて復讐してくる連鎖に人類はこの百数十年悩まされてきているし、今も中国やロシアの挑戦を受け続けているのだと私は考えています。

今やいわゆる「グローバルサウス」では、欧米的理想を全拒否にされかねない反感が募っており、そして彼らが求めているものは、欧米的リベラルが大好きな「懺悔ごっこ」的な話ではなく、そのローカル社会の具体的解決を行う時にちゃんと価値観の押し付けにならずに丁寧に扱えるモードを打ち立てる事ではないでしょうか?

そういう点において、人類社会を真っ二つに分ける「分断」を乗り越える鍵は、私たち日本人が日常の具体的な課題を考える時に、本当に「日本社会の事情」を自分たちは理解して丁寧に扱えているか?という大問題を克服するところから見えてくるのです。

東京の再開発を双方向的なものに変えていくのも、混乱する電力行政をマトモなものに変えていくのも、すべて同じことです。

20世紀的なイデオロギーの病を克服して、具体的で前向きで相互補完的な話をできるようになっていきましょう。

6●最後に。

ちなみに、最後にひとつだけ、今回色んなコメントを見ていて違和感があった問題について、これはあくまで個人的な意見としてですが問題提起をさせてください。

大量に寄せられるコメントの中で、「最先端の欧州的な理想においては木を一本も切らないのが正しいんだ」という論理をかなり無批判的に追求する人がいて、そういうのはそれ自体「一つの理想のパターン」にすぎなくて、日本人は別の形を考えてもいいのではないか、と思うところがありました。

というのは、欧州人は「永遠に残る建物」的な方向を目指す志向性を持っていますが、日本は式年遷宮とかがあって、つまりは国民的に最も重要とされるような宗教的建築物ですら延々と公称1300年もの間ずっと定期的に壊してまた木材を使って建て直す事を長い歴史の中で続けてきたのが我々なわけですよね。

そういう世界観の根底的な違いを考えれば、「その国における理想の運用」のあり方も根底的に違っていても全くおかしくない。同じにしようとする方が文化的な冒涜行為だという考えかたもありえる。

つまりは「スクラップビルドこそが日本人の神事なのだ」と言えるのではないでしょうか。

「保護するとなったら何も切るな!」となるのではなく、適切に手を入れ続け、むしろ「感謝して利用させてもらう」ような関係性の中に「木を尊重する」という文化を育んでいくという観点もあるはずではないでしょうか。

ここでいう「スクラップビルド」=「自然破壊」ではありません。

これは、海外における「狩猟を通じて自然への畏敬を学んできたと考える文化」と「ヴィーガニズム系の先鋭化したカルチャー」との間のギャップに近いものを感じます。日本の中にある「前者」的な要素を尊重し、「後者」的なものを押し付けていないか精査することも大事ではないでしょうか。

実際、この記事を書くなかでいろんな「案」をまとめたサイトを見てきましたが、なんだかんだ言って正直三井不動産のものが一番ワクワクする部分は「消費者目線」としてはありました。

野球ファンに聞いても、

「ぶっちゃけ神宮球場新しくなった方が嬉しいってヤクルトファンの人の方が多いと感じるけどね。ビルで風がどうこうって、そんなもん千葉ロッテの球場体験してから言えって話」

…というような話を結構聞きました。

木を残すことも大事だが、「新しいビル建ってすげえなんかいい感じじゃん」という感覚だって人々が持つ願いのひとつであるはずです。

この時に、欧米風に過剰に静的で永遠志向な理想像よりも、むしろ「スクラップビルドして更新していくプロセス自体の中に神事があるのだ」という多くの人々の期待に対して、「反対運動側のビジョン」はあまり答えられていない面があるのではないかと私は感じます。

なんだかんだ市井の人々の多くが求めているそういう「スクラップビルドの快感」的なものを、すべて「全く無意味な自己満足の商業主義」と断じること自体が、一種の欧米文明偏重主義の特殊なひとつの見方に過ぎない側面もあるのではないでしょうか。

そういうあたりで、「日本人が培ってきた価値観」とは全く違うところで、「欧米での現時点での流行」を無上のものとして押し付ける論調が、結構含まれているんじゃないか?という違和感を強く持つところもありました。

勿論、「改修のみでやる方が日本らしいのだ」という価値観もわかりますし、そちらのプランを推す意見もどんどん主張されるべきだと思います。

私がここで「式年遷宮的な神事感」を反映できていないのでは?というのは、「だから絶対再開発をするべき」ということを言いたいのではありません。あなたが現状の神宮外苑を守りたいと思うなら、改修のみで済ませる案だって真剣に主張するのは大事だと思います。

しかし、そのプランを主張する時に、同時に「日本人が式年遷宮などの神事を通じて表現したかった理想像はどういうものなのか」を深堀りする事によって、外苑の再開発のあり方が「他人事ではないもの」に進化するのではないかとも思います。

今はそこの掘り下げが浅いどころか皆無に近く、ただ「静的な永遠性」を目指す形の欧米的理想をそのまま押し込もうとして、余計に人々の「本能的嘘くささ」「反感」などを呼び起こして協力関係が途絶している側面もあろうかと思います。

4月上旬に、東大の入学式の式辞で、エボラ出血熱の蔓延を解決した医師たちが、以下のような配慮を行うことによって協力関係を取り付けた話は大変印象的でした。

上記祝辞全文はこちらから。当時こちらのツイートで紹介してかなり読まれました。

上記の話と全く同じように、むしろ欧米にはない「スクラップビルドの中に神事を見出す感性」のようなものをいかに尊重し、借り物の理想を無理やり押し付けているのではないのだ…というメッセージをいかに発することができるかも、この課題においては非常に重要であるはずが、殺到するコメントのうちの一部においては一切配慮されていない側面なのではないかと思いました。

以上、ここまで書いてきたような「日本人の議論が不毛になる時のあるあるパターン」を超える議論のやり方を、私は「ベタな正義」同士を両方否定せずに補完しあう「メタ正義感覚」と呼んでいます。

以下の本では、中小企業のコンサルティングで10年で150万円も平均給与をあげられた例や、より大きな社会問題にいたるまでいろいろな例を取って「メタ正義感覚」を紹介しているので、よろしければお読みいただければと思います。

日本人のための議論と対話の教科書

長い記事をここまで読んでいただいてありがとうございました。

ここ以後は、ちょっと話が変わりますが、最近の東アジア諸国における「スラムダンク映画(と新海誠アニメ)の爆発的ヒット」について考察します。(到達な話題転換のようですが、ここまでの記事の趣旨である”非欧米社会のリアリティをちゃんと扱えるようになる事が人類社会の分断を超える鍵”というテーマに直結する話になっています。)

昨年末、日本公開のほぼ初日近い時期に私は「THE FIRST SLAMDUNK」を見てきたんですけど、コロナ禍の期間には決してありえなかったレベルの客入りにびっくりして、「これはなんか凄いことになるぞ」と思っていました。

私は「ド世代」なんで、試合の細部までどこでどういうシーンがカットされたかまでわかるし、特に説明もなく出てくる山王工業の選手も全員バックグラウンドまで含めて理解できるわけですが、これが「世代じゃない視聴者」にどう思われるか…っていうのは未知数だなあ、と思ってたんですよね。

しかしそんな心配をよそに、日本国内でも132億円(922万人)のロングラン大ヒット中です。もちろん最初は「世代」の人たちの間だけでのヒットですけど、その先どんどん若い世代にまでファン層が広がっていっている。

それは各国でも同じ現象のようで、韓国でも…

香港・台湾でも…

シンガポールでも…

そして今回中国大陸でも…

いちいち引用するのも面倒なぐらい色んな「記録」を破っていく大ヒットになっている。ちらほらと世界的大ヒット映画「アバター2」の記録を局所的に抜いている例もあるらしい。

何より、「全国制覇」とか時には「流川命」とかwの横断幕持ってるファンとか、上演前にみんなで「安西先生、バスケがしたいです!」って叫ぶとか、「バスケシューズ屋のオッサンのコスプレ」とかしてる人とか映ってて(笑)

上記動画のどれでも、それぞれの国で映画を見てきたファンの人の「絶賛!」みたいなコメントが沢山あってなかなか嬉しい気持ちになりました。

やはり、見た人はどの国でも「最初のオープニング音楽とともに湘北メンバーがこっちに歩いてくるシーンがマジ凄い!」って皆言ってるんですよね。韓国人ファンの描いた以下のOPパロディとか凄い良かったです。

その他ファンならうなずける「あのシーンが良かった」「このシーンが良かった」という共通の話題があるのはとても良いことだなと。

また、特に中国は、既にたった4日で80億円近い興行収入なんで、多分日本の興行収入を抜くと思います。

実は「すずめの戸締まり(新海誠)」も中国の興行収入が日本の記録を抜いており、まあなんせ人口が多いので、今後も日本アニメの大事な市場として存在感を高めていくのは間違いない。

一方で!

勿論、日中関係を全体としてみれば、色々な問題があることは事実です。

なんかスラダン作者の井上雄彦氏の以下のツイートで「CHINAのH」が黄色なのは、Hを抜くと「CINA」という中国への蔑視語になるからではないか、とか(実際は例えばベトナム当てのツイートでも同じ色使いになっているので特に意味はないデザイン的なことだと思われる)、あと彼の過去の香港民主化デモ時に民主化勢力を応援する発言なんかが掘り起こされて「不買運動」とかやってる人たちもいるらしい。

折しも米中冷戦の激化から、台湾有事も近いのでは?とか、実際日本の防衛費もやはりある程度上げる必要があるよね、という話が出てきているなか、こういう「スラムダンク(及び新海誠)」現象をどう考えればいいのか?についての記事を書きます。


2022年7月から、記事単位の有料部分の「バラ売り」はできなくなりましたが、一方で入会していただくと、既に百個近くある過去記事の有料部分をすべて読めるようになりました。これを機会に購読を考えていただければと思います。(これはまだ確定ではありませんが、月3回の記事以外でも、もう少し別の企画を増やす計画もあります。)

普段なかなか掘り起こす機会はありませんが、数年前のものも含めて今でも面白い記事は多いので、ぜひ遡って読んでいってみていただければと。
ここまでの無料部分だけでも、感想などいただければと思います。私のツイッターに話しかけるか、こちらのメールフォームからどうぞ。不定期に色んな媒体に書いている私の文章の更新情報はツイッターをフォローいただければと思います。

「色んな個人と文通しながら人生について考える」サービスもやってます。あんまり数が増えても困るサービスなんで宣伝してなかったんですが、最近やっぱり今の時代を共有して生きている老若男女色んな人との「あたらしい出会い」が凄い楽しいなと思うようになったので、もうちょっと増やせればと思っています。私の文章にピンと来たあなた、友達になりましょう(笑)こちらからどうぞ。

また、この連載の趣旨に興味を持たれた方は、コロナ以前に書いた本ではありますが、単なる極論同士の罵り合いに陥らず、「みんなで豊かになる」という大目標に向かって適切な社会運営・経済運営を行っていくにはどういうことを考える必要があるのか?という視点から書いた、「みんなで豊かになる社会はどうすれば実現するのか?」をお読みいただければと思います(Kindleアンリミテッド登録者は無料で読めます)。「経営コンサルタント」的な視点と、「思想家」的な大きな捉え返しを往復することで、無内容な「日本ダメ」VS「日本スゴイ」論的な罵り合いを超えるあたらしい視点を提示する本となっています。

また、上記著書に加えて「幻の新刊」も公開されました。こっちは結構「ハウツー」的にリアルな話が多い構成になっています。まずは概要的説明のページだけでも読んでいってください。

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ウェブ連載や著作になる前の段階で、私(倉本圭造)は日々の生活や仕事の中で色んなことを考えて生きているわけですが、一握りの”文通”の中で形に…

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