合理化 X 教育
育休旦那さんいいことをおっしゃっている。
手間暇 ≠高い価値なんだよね。
手抜きのすすめ
少し前に手抜き料理が話題になった。その時味の素が、それは「手間抜く」です。と神対応をしていた。
手抜きをすることは、その時間を別の価値あることに使うことができる。気持ちの余裕を持たせることができる。
Comfortable /Uncomfortable Zoomという概念が人間の成長の仕組みを考える際に用いられる。Uncomfortable Zoomに僕らは長時間耐えられない。もとに安心できる場所に戻って、心の休憩を取らなくてはいけない。
それが、心の余裕。
手抜きが市民権を得られない理由の一つが、手間をかけることは相手への愛や尊敬を表していると考えられているからだ。
こればかりは、文化なので、一朝一夕で変わっていくことはないだろう。そして守べき日本の文化でもあるだろう。
何とか、特別な日の手間と普通な日の手間抜きのバランスを認める文化なればいい。
企業の中で合理化というと、人切とかサービスの低下とか、悪いイメージがどうしても付きまとってしまう。合理化がすべて儲けの拡大のためにお客や従業員を犠牲にすることを目的にしているわけではない。
むしろ、どうやって今のサービスを維持していくか?新しいサービスや価値を生み出していくか?という目的の一つの方策として、合理化が行われる。
ほとんどの合理化は未来を見据えたものだ。合理化は企業版手”間”抜きなのだ。
ただ、このプロセスの中で、どうしても避けて通れない痛みがある。それは、今その手間をかけていただいている方の仕事を否定しなければいけないことだ。
その人を否定しているわけでは間違いなくない。
それでも、その仕事はその人が情熱をもって、その仕事の価値を上げてきた。気持ち的な誇りを否定しなければならない。
ましてや、合理化の結果、その仕事を担っていた人たちはこれまでのComfortable ゾーンを意図せず飛び出さなければならない。
下手すると、許容できないほどのハイリスクなチャレンジを求められる。
気持ちとプロフェッショナルの間で抜き差しならぬ葛藤が生まれる。
企業の場合と、個人の場合の手抜きは少々意味合いが違うが、いずれにも合理化に対する文化的、心情的負の側面がある。
しかし、これを怖がっていれば、世の中は進んでいかないだよ。
良くならないんだよ。
教育の現場にも同じような葛藤があるんじゃないでしょうか?
あなたに手間をかけるのは、教師としての愛情です。
教師は児童・生徒に手間をかけて愛情を示すべきだ。
一クラスの児童・生徒数を減らして、手間をたくさんかけましょう。
でも、これをやっていけば、先生がつぶれてしまいます。
合理化をしましょう。
現場の先生が協力的ではありません。
でも、これをやらないと、あなたか、あなたの生徒か、もしくは両方がつぶれちゃいますよ。
悪意のない手抜きは、正義です。
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