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だから居場所が欲しかった

水谷竹秀さんの書いた、タイ バンコクでコールセンターで働く日本人について書いたルポ。

この本から見える日本は、コールセンターで働く日本人の目から通して見える日本は、多様性に欠け、メジャーになれなかった人たちに対して厳しい社会として映っている。

日本のマイノリティーの縮図がそこにあり、しかし、そこで働く人たちはその仕事に誇りを持てているわけではない。最終的なセーフティーネット的な場所。ここを抜け出そうともがく人、わかっているけどずるずるそこに居座る人、そのセーフティーネットすら零れ落ちる人、性的マイノリティー。ルポは経済的な理由から性的マイノリティーで日本には戻りたくなく、タイに居続ける人へ話が進んでいく。

四〇歳を超えた男性に、日本社会は敗者復活戦の道を用意してくれなかった。

確かに「正規」「非正規」で賃金および福利厚生に大きな差が残っている日本の社会では、正規を目指そうとすれば、労働市場の流動性が低い日本において敗者復活戦の道は少ないのかもしれない。しかし、非正規労働は基本的には何歳になっても道が開かれているので、仕事はある。ただし、日本はその対価で暮らしていくのは確かに難しいこともあるだろう。かといって、タイのコールセンターでの給料で、家族を養うことはやはり難しいらしく、経済的な点ではどっちもどっちだ。

人生の折り返し点を過ぎれば、世間の目は一段と厳しくなる

性的マイノリティーについても、

日本では同性愛者はやはり生きづらい

と、社会の目、社会の規範の中で、様々なマイノリティーが生きていくのが難しいのではと問題提起されている。

経済的貧困者については、致し方なくそのような状態に陥った場合を除き、社会的な理由ではなく本人に帰する理由も大きいのではないかと著者は社会の問題一辺倒の報道に対しても警鐘を鳴らしている。

しかし、その理由がどうであれ、格差が広がり、「下流中年」「下流老人」が増えている日本の社会が軋みを上げていることは確かであろうと締めくくっている。

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子供たちが社会に出たときに、その集団としての共通認識を身に着けさせることが教育の一つの目的である。今社会にいる大人たちはおおよそ50-70年間のこれまでの教育の結果が作ってきた社会観念であり、また、一方でグローバルな影響を受けて変化を余儀なくされてきた社会観念でもある。今の子供たちが社会でメジャーな声となるまではあと10-20年かかり、もし彼らが教えられた社会観念と、その時の社会観念に大きな差があったならば、彼らはどうふるまうだろう。閉塞感にいたたまれなくなるだろうか?

もしそうであるなら、教育では社会共通認識を植え付けるようなことはしないほうが良いのであろうか?




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