見出し画像

親と子の境界線

くだらないことで不機嫌になり、ツムギが自室に篭り始めて10日が経ちました。

辛うじて、挨拶ぐらいはするけれど、それ以外会話はなし。

これは本当に、ツムギの悪い癖だと思うのですけれど、何かあると必ずこのプロセスを踏んでしまいます。


前の家での癖が、そうさせてしまっているのだと思います。

過干渉の祖母には、叱られてばかりだったそうです。

叱られて、喧嘩になると、祖父は「部屋にいってなさい」と二人を引き離し、ツムギは父親が仕事から帰ってくるのを待っていたと聞いています。

父親は、現場を見ていないので、ツムギを注意することができない。

この家に来るまで、ツムギは父親に叱られたことがほとんどなかったそうです。


部屋に篭ってたら、お父さんが助けに来てくれる。

これがツムギの成功体験として刷り込まれているのでしょう。

こうなってしまったとき、どうやって自分で部屋から出てきたらいいのか、本当にわからないのだと思います。


この話を、義母側からの視点でみると、こういうことだったそうです。

義母は、仕事で疲れて帰って来る息子が、家でリラックスできるように、グズるツムギの世話をなんとしても終わらせなくてはいけないと思っていたそうです。
焦れば焦るほど、ツムギは言うことを聞かなくなり、声を荒げていったのです。


私もその現場に居合わせたわけではありませんから、そうせざるを得なかった事情もあったのかもしれません。

けれど、第三者として客観的に見たとき、私には疑問が残ります。

なぜ、義母は息子に子育てをさせなかったのだろう?

助けを求めて実家に戻ったとはいえ、息子は立派な大人です。まして、人の親になっているのです。

貴女の息子であることよりも、ツムギの父親であることの方が、優先されるべきことではなかったのでしょうか?


ツムギと会話のない日々は、私にとっては楽でもあり苦でもあります。

常にツムギのことが頭にあり、食事のことを考えたり、さまざまな点から注意をしたり、その言葉に反応したツムギに嫌な顔をされたり、子育てには膨大な時間とエネルギーを必要とします。

もちろん、会話がないからといって、まったく存在しないものにはなりませんから、そんな間にも、こうしてエネルギーは使い続けています。

でも、感情を揺さぶられない分、かなり気は楽です。

反面、いろいろと浮かぶ今しか経験できないこどもとの生活が、目の前にありながらごっそり経験できず、自分がそう決めたと言ってしまえばそれまでなのですが、残念だなぁと見送ることもあります。

それに、そんな態度しかとれないツムギが不憫で、こちらまで悲しくなることも。

けれども、不機嫌を続けて、相手が歩み寄ってくるまで待つというやり方は、絶対にそのまま大人にはなってほしくないという、譲れない部分。

どうやったらそれに気づいてくれるのか、適切な方法には当たっていないけれど、最近は、こういうことがあった後に対話を重ねると、なんでこんな無駄な時間を過ごしたんだろう?と自分を振り返ることもできるようになってきているので、この状態がいかに不快であって、生産性のない不毛な時間かということを身をもって体感させることも必要ではないかと考えています。

こんな無駄なことをするくらいなら、自分から声をかけた方が楽だった。

ここに辿り着いてほしいのだけれど、この方法では難しいのでしょうか。


今までの例でいくと、痺れを切らした夫が、「ツムギ、話し合いをするからリビングに来なさい」と召集をかけて家族会議をし、延々話をして、和解にもっていきます。

私には、それを繰り返したことによって、イヤイヤながら来るくせに、早くお父さん声かけてくれないかな?と待っているのではないかと見えてしまうのです。

そして、そんな時でさえ、「お父さんが来いって言ったから来たんじゃん」と、他責の保険をかけているような。


案の定、夫が、「そろそろいいんじゃないか?こんなことしても、一生気づかない可能性があるよ?」と言い出しました。

それって、自分の罪悪感を払拭したいだけじゃないのかな。

それは、貴方自身の問題なんじゃないのかな。

もうちょっと、ツムギの力を信じて待てないのかな。


こちらから、家族会議を開催しなくても、話すきっかけはいくらでもあるはずです。

なぜなら、ツムギはまだ、ひとりでは生きられないから。

このまま口をきかないで、同じ屋根の下に暮らすだなんて、非現実的なのに、ツムギは今のところ、そちらの方が楽だと思って選んでいます。

それでも親に頼らざるを得ない事情ができたときに、或いは、どうしても親に甘えたくなったときに、なんとか自力で殻から出てくることぐらいは、できるはずだと思っています。


私は、悩みながら、信じています。

これはツムギにとって悪影響な方法かもしれないと、様子を見ながら信じています。

もうできる年齢になっているよね。

自分の思い通りにならない不快なことなんて、社会に出たら山ほどあります。

不快を誰かのせいにしないで、誰かがなんとかしてくれるのを待たないで、自分で笑顔を取り戻せる力を、その方法をどうか探してほしい。


『親』と『子』の関係性は一生続くかもしれないけれど、『大人』と『子ども』の関係が変わらないわけではありません。

『未成年』である、『親』の保護下の間にも、『親』が手放していかなくてはいけないことは、段階的にあると思います。

いつまでも、なんでも『親』のせい、と言われたら、『親』ばかりが苦しいですよね。


そう言いながら私も、『親』として、あと僅かな間にできることは、社会に出る前に、『親』が責任取れる範囲で、成功や失敗を経験させることだと必死になってしまっているのですけれど。


月9ドラマ『海のはじまり』を見て、それに対する記事のみんなのコメントを読んだりするのですが、どうも私の感覚は世間とずれがあるように感じます。

一番違和感を感じるのは、妊娠した水季(古川琴音)が、恋人夏(目黒蓮)に堕胎すると言いながら一方的に別れた後、内緒で子どもを産み、水季が病死した後で、その母親朱音(大竹しのぶ)が夏に対して発する言葉に、「自分の娘がしたことを夏に詫びるべきだ」と言うコメントが多いこと。

二人は大学生カップルとして描かれているので、成人しているかしていないかは定かではありませんが(どこかに描写があったかも知れませんが)、少なくとも社会人経験がない二人が避妊に失敗してしまったと言うことなのだと思います。

その時点での話であれば、「娘が勝手に産んでごめんなさい」であるし、それでいえば、夏の母親も水季に「一人で抱え込ませてしまってごめんなさい」だと思います。

でも、物語は、娘の海が7歳になっているところの話で、その間に、水季は一人の『大人』として、様々なことを決断してきているのです。

いつまで、『親』は『子』の全ての責任を感じなくてはいけないのでしょうか?


『親』と『子』の境界線が曖昧で、いつまでも分離できていないなぁと感じるのは、私に『親』も『子』もいないからなのでしょうか?


『親』が手放せていなくて、それが当たり前の世の中になってしまっているのではないかと感じます。

だから、『子』の方も親ガチャなんて言って、なんでも『親』のせいにしてしまう。


もっと、『子ども』は一人の自立した『大人』に向けて多角的に成長できるように、多くの『大人』に影響を受けて育っていける環境があったらいいと思います。


ツムギと距離を置いている時間は、自分の思考も混沌としていて、纏まりがないのですけれど、今感じていることを綴ってみました。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?