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「偽善の知」ソクラテスの無知の知からの考察

偉大なる世界最大の哲学者と言われるソクラテスの「無知の知」は誰でも知っている哲学と言えよう。それは、さも当たり前の教養や空気として世間に流れている。西洋哲学などにさして興味のない人でも知っているほど有名なフレーズでありまた、名言でもある。この言葉の意味するところは自分なりに解釈すると「無知であるということを知っていることはとても重要なことだ。」という意味である。つまり、人間はいくら知識を学んでも学びきれないし、ひとえにこの世の事象は偉大で難解であり説明し難い原理ばかりで、そのすべてを見極めるには途方もない年数がかかるだろうという暗黙の了解があり、さらには人類がこの先滅びる前にすべての事象を知ることなど果たして可能なのか?とすら思える・・・そのような心理を表した真理と言える。確かに、遥か古代より人類は様々な奥深い研究をしてきて深淵なる高みを目指すべく、あらゆる科学や文化を操りはたまた文明や技術も発展させてきた。そこには、人類がこの世界の事象をあたかもいずれ把握できるのではないか?という一種の希望観測すら起こしてきた。しかし、現実にはそれらの希望観測には根拠などなく、今の地球の現状などを見るとそれら”現象”とやらを把握し尽くす前に人類はむしろ滅んでしまうのではないか?という杞憂すら生じてきている。一種の終末思想的な儚い絶望あるいは諦めとも言える。しかし、これらについては一種の人間がこのソクラテスの言う「無知の知」を何気なく漠然としてではあるが理解しているから、到達している共通認識と言える。いわゆる「人間の頭の中なんて大したことはない。」という共通認識である。しかし、これは無知の知が本当に有効に働いているからこそ、到達できている人類の最高の共通認識と言えるのだろうか?これが、今回の私が疑問を呈する哲学的テーマである「偽善の知」というものである。これは、簡単に言えば、人間というのはみないわゆる世間でいうところの処世術や世渡り術としてみんな「愚かな振りは一様にできる。」ということなのである。これはつまり、さもあたかも人類は「無知の知」を知っているかのようにふるまっているというものである。つまり「自分は無知の知を知ってるから人間の限界を知っているから私は謙虚である。」とこう主張するのである。しかし、ここには一つ落とし穴がある。「謙虚である」と自覚していること自体にそもそも欺瞞があるのではないか?そもそも本当に謙虚である人間は「自分は謙虚である。」などと自慢したりはしない。つまり、私の長年の多少ではあるが人間懐疑的な憶測から仮説を立てると大半の人間は「自分が頭はよくて賢く正しい」という認識があり、人間は皆一流役者な訳だから、無知の知を理解している”つもり”になっている訳である。そして、そのことをさも厚顔無恥にさらけ出してドヤ顔で「自分はソクラテスの領域に一歩近づいた」と思う訳である。ここに、人間の欺瞞がある。これは、何も哲学だけでなく宗教でも同じことが言える。キリスト教では謙虚さを美徳とし「傲慢になるな」と散々神が人類に警告しているのにも関わらず、そこから脱するのは大変難しいということに似ている。仏教でも謙虚さは美徳であり「増上慢」という「悟っていないにも関わらずさも悟ったつもりでいる」という態度のことである。これも、キリスト教同様、仏教徒が陥りやすい罠だと言える。つまり、人間は「自分は無知の知」というのを知っていると思う時点で「人は思いあがる」ということでかえって「無知の知」にさして意味がなくなるようなものなのである。つまり、人間は「無知の知」を知ることが賢いと思うことでかえってそのソクラテスの哲学は空虚と化す訳である。そして、私の個人的意見からすると人間はそれをむしろ「承知なのである。」それは一人一人色々な人と対話をすれば自ずと分かる。「自分は無知だから」と謙虚な態度を取るが、本気でそう思ってる人はまずいない。それの”無知”の意味するとことは「ソクラテスの無知の知は理解しているけど、少なくとも無教養な他人よりは自分はまだマシであり、日々努力して勉強なり自己研鑽しているのだから、叱責される筋合いはない」と・・・恐らくこのような心理になっている人が大半だと思われる。そして、彼らは無知の知を理解した上でそのように世間でバカなふりをして他人に対して謙遜な態度を取って相手を立てているのである。これは、つまり人間はソクラテスの考える「無知の知」以上に色々と複雑な考察をしていて、さらに色々な行動や態度を表明していることになる。つまり、ソクラテスの無知の知だけでは説明できないほど人間心理は複雑であり、つまり人間は以外にも賢いのである。しかし、この賢さというのは傲慢さと表裏一体であり、そこには必ず欺瞞や偽善といったものが包括および内包される。つまり、私の個人的な考察では、「人間は無知や愚かというより、人間は賢いけど所詮偽善者からは誰一人抜け出せない。」ということが正しいと思えるのである。色々な人と本音で語ると「以下に人間が誇り高いプライドの高い生き物であるか・・・」が分かる。つまり、彼らは愚かなのではなく賢いけど欺瞞であり偽善なのである。つまり、無知の知を知るよりも「偽善の知」を知ることの方が遥かに重要なのではないか?と私は思うのである。偽善の知・・・つまり、人間は賢いけど所詮偽善からは抜け出せない。

しかし、ながらこの「偽善について」というのは今まで様々な哲学者や思想家が散々追究してきたことではあるので、自分があえて思考するまでないと思われる。ただ、自分は「無知の知」よりも「偽善の知」を知ることの方が人間をより知ることに繋がるのではないか?と思う次第である。

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