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タンゴを通して学んだ、「私の思う”正しい”は、皆の”正しい”ではない」ということ

タンゴを踊っていると、沢山の方との出会いがあります。国籍も年齢もお仕事も様々。
日本に戻った時、タンゴLoverの皆様とお話しするのは本当に楽しく、ついつい時間を忘れてお喋りしてしまいます。

そんな楽しいお喋りの際、こんな話を時々耳にします。

ミロンゲーロの踊るタンゴこそが本物のタンゴだ

ヌエボスタイルはタンゴではない  

大会の踊りはタンゴではない

若者達踊るタンゴ、足をバタバタさせた、
まるで運動のようなタンゴはタンゴではない

ダンサーの踊るタンゴはタンゴではない

外国(アルゼンチンから見て)のタンゴは
商業化されたもので、本物のタンゴではない

技術ばかりの踊りはタンゴではない

…等々。

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こういうお話を聞いていると、タンゴが本当にお好きなのだということと、「これが私の思うタンゴ」という想いやこだわりがしっかりとあるのだな、ということを感じます。

と、同時に少し悲しい気持ちにもなります。
それは、

〇〇は正しくて(良い)、⬜︎⬜︎は間違っている(悪い)

という善悪の世界が、話の中に見えてしまうからです。

きっとご本人の中ではそうなのでしょう。
しかし、「それが正しい、あれは間違いだ」と簡単に言ってしまうことに、私は少し違和感を覚えます。

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ヌエボタンゴ、若者のタンゴ、ダンサーのタンゴ、外国のタンゴ、大会のタンゴ…

これらを見てみると、何かしら”あたらしいこと”に対して、駄目だとか悪いと思われやすいような気がします。

しかし、何故、私が違和感を感じてしまうのかと言うと、これらがあったからこそ今のタンゴがあり、そして未来のタンゴがあるのでは?
と思うから。

ミロンゲーロ達だって、若かった頃はやんちゃして、カッコ良さを競い、踊りを磨き、今のスタイルを確立してきたのでは?

今、世界中でタンゴが踊り愛されているのは、それぞれの国の文化に受け入れられるような変化をしたからでは?

ダンサー達が世界中で踊り魅せたことによって、タンゴの魅力をより広く多くの人に伝えるきっかけになっているのでは?また逆に、そうやってタンゴを知った人々が、本物のタンゴを求めてアルゼンチンにやって来るのでは?

大会を開催することは、、優勝というゴールを目指して切磋琢磨するきっかけとなったり、新たな才能を発見する場になったり、世界へ羽ばたくダンサーへの後押しをしたり、世界中のダンサー達が時間を共有できる場の一つになっているのでは?

もちろんタンゴは技術だけではない。だけど、素敵に踊る人と踊ってみたい、と思うよね?

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「正しい」と思うことがいけない訳ではありません。自分の考えをしっかり持つことは素晴らしいことです。

そして、物事が形となってきた歴史や文化を守ってゆこうとすること、私は大好きです。そこにはとても大きな価値と重みがあると思いますし、時に大きな力となります。
それが消えてしまわないように守り、受け継いでゆくことは、大切なことであり素晴らしいことです。

その一方で、この世の中は常に変化しています。
この世の多くのものは、変化しながら生き延び、成長しています。
変化する、ということはとても自然なことです。

そう。

守ることと、変化してゆくこと。

実は、どちらも比べられないもの。


だから、
「正しいか正しくないか」
とか
「良いか悪いか」
ではなくて

「自分が何が好きで、何が嫌いか」
であり、その上で
「自分は何をどう選ぶのか」
と、いうことなのだと私は思うのです。

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そして、大切なことは
自分が好きではない事に対して
「間違いである、悪である」
と否定しないこと。悲しまないこと。

私の、あなたの思う”悪い”や”間違い”は、
誰かの思う”正しい”であり、”素晴らしい”かもしれないのです。

私達は、もしかしたら知らないうちに誰かを悲しい気持ちにしてしまったり、傷つけてしまっているかもしれません。


私がアルゼンチンに来て気づいたことは、日本人は善悪を決めたがるし、一般的に言われる(または多数が占める)ことが「正しい、素晴らしい」という考え方が多いということ。
これは日本という国が、100%ではないにしろ、ほぼ単一の民族で成り立ってきた国だから、集団内から見て”違うコトやモノ”に対して違和感を感じやすい性質があるからではないか、と想像します。

一方でアルゼンチンは多民族国家。移民の国と言われ、先住民を除く、ほぼすべてのアルゼンチン人とその先祖は、スペイン、イタリアなどのヨーロッパやアフリカ、アジアなど様々なから移住してきました。皆が違う背景を持っているので、日本のように違うモノやコトに対して、一般的に見てどちらが善でどちらが悪なのが、というよりは個人の思う善悪はどちらか、という考え方のように感じます。


もちろん私にも、タンゴに対して強い考えや想いがあります。
どちらかと言うと、私は、今までのやり方や伝統を守ってゆくほうに、心地よさを感じます。時と場合によりますが、新しいことや変化することは苦手な方です。

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例えばの話になりますが、ヌエボタンゴを踊ることは好きではありません。今の時点では、私のタンゴとして踊ることはないと思います。
しかし、ヌエボを踊るダンサーたちを見ると、美しいな、と思います。
そして、テクニック的な面から自分のタンゴを理解するために、トレーニング中にヌエボスタイルを踊ることがあります。そうすると、ヌエボスタイルにはヌエボ独特の自由度の高さと、より観客と空間を分かち合える素晴らしさがあることがわかります。


ずっと善悪や常識に縛り固められて生きてきた私が、アルゼンチンというあまりにも違う文化や人々の中で生活していることは、まるで洗濯機に放り込まれたTシャツのように、もみくちゃにされるような感じ。次第に、自分の無意識の下にある善悪だとか、常識たちを手放さずにはいられなくなりました。そして逆に、たくさんの違うモノや考え方の存在を知り、良いか悪いかというジャッジをするのではなく「そうなのか、そういうものもあるのか」と受け入れられるようになりました。

しかし実際には、受け入れられないこと、というのも少なくありません。
そんな時、全てのことに対して無理に分かり合おうだとか寄りそう必要はない、と私は思います。

どうするのかというと、
「あるがままに置いておく。」
それだけです。

そういったモノの存在があることを、だだ認める。尊重する。
私は受け入れられないかもしれないけど、いろんな人がいて、いろんな考え方があるという事実は変わらないのだから。

『私は好きじゃないし
踊りたいとは思わないけど、
ヌエボタンゴ、それもアリだよね。うん。』
という感じです。

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自分の考えはしっかりと持ちながらも、自分とは全く違う考え方や物事に対して否定せず、
「あるがままに置いておく」ということ。

とても自然で、
世界が、
すーっと 広くなった気がします。


こんな考え方や捉え方ができるようになったのは、アルゼンチンに来たからこそ。
タンゴだけではない様々な変化や成長は、時に自分を驚かせ、新しい世界を見せてくれます。




読んで下さり、ありがとうございます。 サポート、とても嬉しいです。ありがとうございます。