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Buenos Airesの街をゆく。 -ブエノスでは一日に一つの用事を済ますことが出来たらオッケーさ-

Buenos Airesでの最初の生活は、
刺激的であり、時に悲惨なものとなったが、今となっては全てが素晴らしい思い出だ。
それらをここへ書き残していこうと思う。


私がブエノスに住み始めたのは5年前の2015年。
とにかく毎日迷子になって、毎日お腹が空いていた。今のように携帯のオフライン地図もなく、紙切れの地図を見ながら行き先へと向かう日々は、かなり私を疲弊させていた。

バスにはバス停がない。
主要な大通り、限られた区間にはバス停はあった。が、普通のバス停はと言えば、家や店の壁にバスの番号のシールが貼ってあるか、ペンキでバスの番号が書かれている程度。街路樹にバスの番号の書かれた板が下がっていればラッキーなほうで、バス停の目印すらなかったりすることも多々あった。その場合は現地の人に聞き、教えてもらった場所に行き、ただ待つ。
ひたすらバスが来るのを待つ。
もちろん時刻表などあるわけもなく、時に2時間近くも待つはめになったり、バス停が変更されていたりする。真実はバスがその場所にちゃんと来て、目の前で止まってくれるかどうかでわかるというわけ。結果、バス停が見つからず徒歩で何十ブロックも歩いて行くことも、多々あった。
だから、どこかへ出かけるのは一日がかりの大仕事となったし、毎日のように迷子になっていた。


アルゼンチンタンゴのマエストロ、Carlos y Rosaのプライベートレッスン初日は、二時間近くも迷子となった。
今となってはいい思い出だが、あの時は本当に本当に、最悪だった。

まず最初に、バスに乗れなかった。
理由はあまり覚えていないが、同じ番号でも行き先が3種類に分かれており、当時全くスペイン語が話せなかった私には、聞くことができなかったとかそんな理由だったような気がする。
とにかく遅刻するわけにはいかない、時間は迫ってくる。そんなわけでバスを諦め、タクシーを使うことにしたのだが、何故かそのタクシー運転手が迷子になる始末だった。
ついてない。乗り続けるか少し迷った挙句、途中で下車。その日はなぜか二台も乗車拒否され、怒りが込み上げてきたところで、やっとの思いでつかまえたタクシーだった。

最初にまずかったのは、どこで降りたのかがわからないことだった。時間を気にして焦っていたのもあり、場所をきちんと確認せず降りてしまった。
後悔しても後の祭り。タクシーは行ってしまった。通りの名前を地図の中に探しながら、歩き回る。
昔から、地図を見るのは得意なほうだったから、自信がないわけでもなかった。車の運転も、ナビよりも本の地図をみて行く方が好きだった。
ただ、右も左も分からない状態で、東西南北も分からず、言葉が通じないと、こんなにも迷うものなのか。近くに線路がたくさんあったのも、迷い易い状況を作ってはいたけれど。

歩き回りヘトヘトになったところで、ようやく見つけたBAR。恐る恐る入って告げた住所を、オーナーらしき男性は知らないようだった。仕方なく、その住所の近くにある大通りの名前を言うと、あぁそれならアッチだ!と指を差して教えてくれた。
左のほうを指していた。左か、やっと行ける!ホッとしながら店を後にした。
が、ここはアルゼンチンだった。行けども行けども、目指す通りの名前が出てこない。地図を照らし合わせると、なんだか反対側に行っている気がしてならない。ある程度行ったところで、道を引き返して反対側へ歩き続けると、目指す通りに出た。
ちくしょーウソつかれてたのか!

アルヘンティーノの嘘に怒る暇もなかった。
突然の突風が吹き荒れ始めたかと思うと、激しいスコールが降り始めた。あっという間に全身ずぶ濡れ。そう、こちらの雨は、日本の雨とは全く違う。傘があってもなくても同じだった。
そして、この頃にはもうどうやってもレッスンには間に合わない時刻となっていた。遅刻の連絡を入れなくては。ずっと握りしめていた彼等の名刺の番号へ電話をかけようとすると、今度は名刺が見当たらない。
ここまでくるともう、何かのドラマでも見ているみたいだった。地図と名刺と傘と鞄。土砂降りの中で地図を見ながら歩き回るうち、大切な名刺をどこかへ落としてしまったのだ。

下水の完備されていない街は、すぐに冠水する。あっという間に足首よりも高くなった水に浸かるのは初めてのことで、恐怖さえ感じさせた。強風豪雨、通りには全く誰もいなかった。その日、私は初めて叫んだ。通りのど真ん中で、大声で泣きながら叫んだ。



今でもあの時のことはよく覚えている。
ちくしょう負けるもんか、ふざけるなとか、ばかにするな、等々…号泣しながら思いつく限り全てのことを大声で叫んだ、傘を振り回して街路樹を叩きながら(ごめんね街路樹さん)ビタビタの姿で叫び続けていた。日本だったら、到底有り得ない姿を晒していた。品のない頭のおかしな人。
いままでの人生で、一度もこの様に路上で泣き叫んだことはなかった。だがあの時は構わなかった。

言葉や文化の違いはもちろん、ブエノスに来てから思い通りに行けるところなどなく、また毎日空腹だった。この日、それらが一気に噴き出したのだろう。
そしてもしかしたらあの時が、”ちゃんとした日本人”という自作の殻に小さな小さなヒビを入れた瞬間、だったのかもしれない。

風と雨はそんな私にはおかまいなしで、ごうごうと音をたてながら降り続いていて、それもまた腹立たしかった。


今、自分がどこにいるのか分からず、マエストロのプライベートレッスン初日に遅刻する、その連絡すらもできない。
一体、どのくらい泣きながら歩き回っただろう、やっとの思いで、紙に書かれた住所にたどり着いた。既に1時間半以上、遅刻していた。

Carlos y Rosaの二人はドアを開けるとすぐにハグをして、心配したんだよ、というようなことを言いながら、ビタビタの私をタオルで包んで優しく迎えてくれた。そして、安堵からボタボタと涙が止まらない私に温かいお茶を出してくれて、涙が止まるまでずっと話してくれた。当時、パートナーのいなかった私がレッスンを受けれるようにと、声をかけてくれていたRauriも、ずっと二人と一緒に待っていてくれていた。四人でお茶を飲み終わったあと、2時間半ほど遅れてレッスンをスタート。皆、とてもあたたかかった。


どうやらこの日は神様はお休みだったらしいね、
今なら笑って話せるが、あの当時は毎日のようにこんな状態でヘトヘト。笑い飛ばす元気もなかったが、遅刻は常識?なアルゼンチン人は全く気にしていないようで、救われた。
毎日お腹を空かせていた話は、またいつか書こうと思うが、こんな日々により私の体重はすぐに下降ラインを描くこととなった。


......

“ブエノスでは一日に一つの用事を済ますことが出来たらオッケーさ“
これはこちらに住み始めた頃に言われた言葉です。
正にその通り。ただ目的地に行き帰ってくる、これだけで、こんなに忍耐力が試されることになるとは、タンゴのことしか考えていなかった私にとっては全く想定外のことでした。

今はオフラインの地図アプリもあるし、ちゃんと鉄製の標識もある。タクシーの運転手もナビを使うようになり、5年で別世界のように街は変わりました。

当時、毎日のように起きていた大冒険に出かけることは もうありません。しかし、今でも一瞬にしてあの頃に連れていってくれる素晴らしい思い出となりました。


(現在、ブエノス市内ではバス停標識はかなり改善されています。またGoogle Mapsでは行き先を検索すれば、バス停の場所とバス番号、何分後にバスが到着するかを確認できます。なんと便利な世の中になったことか)

読んで下さり、ありがとうございます。 サポート、とても嬉しいです。ありがとうございます。