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大学教育は「買い物」か?

新型コロナウイルスの影響で大学でも休校やオンライン授業化といった対応が行われている。それに伴って一部の学生(や保護者)から次のような声が上がっているそうだ。

通常の授業が受けられなかったり、キャンパスを使用できないのだから、その分のお金を返してほしい

この主張、気持ちはとても理解できるのだけれど、僕にはどうにも釈然としない思いがあった。「返金」ってなんだか買い物みたいで、大学という高等教育にはなじまない、という感覚だ。

「教育の等価交換」意識への違和感

そんな中、この問題に関して興味深いnoteを読んだ。

ICU(国際基督教大学)の一部の学生による施設費の減額などを求めた署名活動と、それに対する大学側の回答が紹介されている。その回答の誠実さは学ぶべき点が多く、このnoteでは「双方が『話せばわかってくれる』という前提に立ってコミュニケーションしていること」の重要性について書かれていて、そのことには僕も素直に賛同する。

ただ、僕の「釈然としなさ」はここでも解消されなかった。いや、むしろ深まった。というのも、ここでのやりとりを見ると、学生側だけでなく大学側もお金による教育の等価交換を前提に議論しているからだ。

学生側は次のように主張する。(上記noteより抜粋。太字強調は筆者)

学生として私たちは納付した金額相当のサービスを受けることを期待します
私たちは実験室、図書館、部室、体育館などの様々な施設を使用出来なくなるだけでなく、教授方との直接的な交流や指導という貴重な機会を失うことになります
私たちは「施設費の減額」及び「請求された施設費と授業費の内訳の公開」を要求します

それに対して、大学側は次のように回答する。

施設費は、意外に思われるかもしれませんが、じつは施設利用料としてではなく、大学の運営に必要な施設の取得・維持費および物件費の支出に充てられています
とはいえ、使用を禁止している施設のために施設費を負担していただいていることに変わりはありません。そのことを私たちも心苦しく思います。皆さんがキャンパスに戻ったときに、これまでと同じように、皆さんの知的な、身体的な、社会的な活動を支えられるように諸施設の機能を維持すべく、ご負担をお願いしているとご理解いただければ幸いです

このやり取りは、「払ったお金に見合う教育を要求する学生」と「受け取ったお金の使い道とそれに見合った教育を提供し続ける意向を説明する大学」という構図になっている。その説明は誠実かつ説得力があり、納得させられる学生も多いのかもしれない。しかしこの構図の裏には、「教育は商品(サービス)であり、学生は大学にお金を払って教育を買っている」との意識が双方に見て取れる。

果たしてこの意識は適切だろうか?
大学教育は学生と大学の間に交わされる売買契約だろうか?

僕は「そうではない」、と考える。
そう考える根拠と「教育の等価交換」意識を乗り越える方法は、僕が資本主義について研究する中で出会った経済学者・宇沢弘文の「社会的共通資本論」にある。この理論に則れば、教育は商品でもサービスでもない。

宇沢弘文の社会的共通資本論

宇沢弘文によると、社会的共通資本は次のように定義される。

社会的共通資本は、一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する[宇沢弘文.社会的共通資本(岩波新書)]

宇沢弘文は、この社会的共通資本に教育や医療などが含まれるとし、それらについては特別な管理が必要であると述べている。

社会的共通資本は決して国家の統治機構の一部として官僚的に管理されたり、また利潤追求の対象として市場的な条件によって左右されてはならない[宇沢弘文.社会的共通資本(岩波新書)](太字強調は筆者)

つまり、医療や教育をビジネスとして利潤追求の対象としてはならない、としている。

冒頭のnoteでも見られたように、現在多くの人が医療や教育を、サービス(商品)としてお金を払って購入するもの、と考えている(かつての僕もそうだった)。つまり、医療サービス・教育サービスと貨幣を等価交換している、という認識だ。等価交換なのだから、サービスが不十分であれば差額は返金されるべき、という理屈になる。

経済学的にはこの等価交換が行われる場は「市場」であり、この「市場」を通じた取引によって利潤が追求される。すなわち、ビジネスが行われる。しかし宇沢弘文は、医療や教育などの社会的共通資本は市場のルールに任せてはいけない、ビジネスにしてはいけない、と指摘している。

医療の社会的共通資本モデル

しかし、医療や教育がサービスの購入や等価交換でないのならば、これらはどのようなモデルで考えればよいのだろうか。経済学者の間宮陽介氏による、医療についての解説が分かりやすい。

医療の市場モデルに対して、医療の社会的共通資本モデルは医者と患者の関係を経済主体間のサービスの売買関係と見るのでなく、組織的・共同的な関係と捉える。このような関係は一方の患者が健康を回復しようとする意志をもち、他方の医師は患者が健康を回復することを最大の関心事とし、さらに医療当事者だけでなく社会一般が、人々が健康な生活を維持することを価値とするのでなければ成立しえない。医師が金銭的利益を優先させると不急不用の医療行為がなされるばかりか、患者の利益に相反する医療行為がなされることもあろう。
(中略)
医療の社会的共通資本モデルにおいては、患者の負担は医療サービスに対する対価とは性格を異にする。それは共同の事業に対する寄与であり、その額をどうするかは市場とは別の基準によって決められるべきものである。
[間宮陽介.『社会的共通資本の思想』(現代思想2015年3月臨時増刊号)(青土社)](太字強調は筆者)

医療に対して僕たちが支払っているお金は「医療サービスに対する対価」ではなく、共に自らの健康および社会全体の健康を目指す患者と医療関係者が取り組む「共同の事業」に対する財政的貢献である、との考えだ。「市場(患者と医者の間の売買取引)」に任せていては、この「共同の事業」は失敗してしまう。「儲からない」という理由で病院が地域から無くなってしまっては、社会の存立自体が危ぶまれることになる。

教育は「商品」か?

この考え方はそのまま教育にも当てはまる。

教育に対して僕たちが支払っているお金は「教育サービスに対する対価」ではなく、共に自らの人間的成長および社会全体の(知的・社会的)成長を目指す学生と教育関係者が取り組む「共同の事業」に対する財政的貢献である

このように考えることが適切なのではないか。

病院や大学は、患者への医療行為と学生への教育だけを行っているわけではない。医学や各種学問の研究を通じて、(社会的共通資本の定義にあるように)「ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような」取り組みを行っている。僕たちが支払っているお金は、そういった活動への財政的貢献でもある。

十分な授業ができないならお金を返して欲しい、キャンパスを使えないなら施設費を減額して欲しいという主張は一見、理にかなっているように見えて、実は現代資本主義における市場モデルというひとつのフレームワークでものを考えているに過ぎない。宇沢弘文が指摘したように、他のフレームワークでものを考え、システムを再構築していくことは可能なのである。

前述の論文の中で、間宮陽介氏は社会学者のタルコット・パーソンズの言葉を紹介している。

患者の役割はもっぱら「働きかけられる」受動的なものではなく、医者との「協力」を通じて回復に向かって能動的に努力するもの

学生は現状の困難な状況に際して受動的に大学側の取り組みを待つのではなく、大学と協力して優れた教育を維持するために能動的に取り組んで欲しい、と僕は思う。また、大学側も教育を学生に「買い物」されているとの意識ではなく、学生と協力してひとりひとりの成長と社会全体の成長を目指してほしい、と願う。

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中村 佳太|エッセイスト,コーヒー焙煎家
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