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運が悪けりゃ死ぬだけさ

昔あったドラマの主題歌の一節。
それを地で行っていたのが俺の祖父。そして俺。


祖母の話を書いた時に一度紹介しているけど改めて簡単に紹介しておく。
明治生まれの頑固者で尚且ちゃらんぽらんで無謀。
サラリーマンにはなったことがなく生涯自営で稼いでいた。

とは言っても社員を雇って社長として切り盛りしてたわけでもなく、名刺を作ったりカレンダーを作ったり(無地のカレンダーを仕入れて会社名を印刷して渡す等)しながら、本当にこれで商売成り立つの??と不思議に思うような仕事をしていた。

遊びに関しては誰よりも一生懸命であり、麻雀にパチンコ、そしていつもすすきのをウロウロ。
そしてたまにとんでもない大怪我をしたりする。

新しい物好きで面白そうなものにはポンポンと飛びつき散財し、すぐに飽きる。
カラーテレビやポラロイドカメラなんかも発売されてすぐに買っていた。

やること成すことがあまりにも無茶苦茶で、子供らや孫たちからも呆れられる始末。
だが俺はそんな自由人の祖父に憧れていた。


ある日の午後。3時のおやつを食べていた時。
「ふきでも採ってくるか」と車に乗せられ山奥に向かった。まだ小学校に上がったばかりの俺と5歳離れた従兄と祖父の三人。

山を何度か上って下ってを繰り返し坂道の頂上付近に車を停め、鎌を片手にちょっとした土手に向かう祖父。
俺と従兄は車の中で待機していた。

どでかいふきをガサゴソとかき分け鎌を入れる祖父。
するとそんな祖父がスーッと脚も動かさずに移動していく。
まるでゆっくり宙に浮いているよう。よくよく見ると祖父は地面ごと移動している。

そんな様子がおかしくて「おじいちゃんと周りが全部動いてる!」と俺は笑っていた。
その声を聞いて従兄が大慌てで車から飛び降りた。

動いていたのは祖父と地面ではなく、車だったのだ。

サイドブレーキをかけ忘れた車はゆっくりと、そして徐々にスピードを上げて坂を後ろ向きに下り始めていた。
「おじいちゃん!!車が!!」と従兄が叫ぶと同時に、振り向いた祖父が血相を変えて全速力で駆け寄ってくる。

どんどん加速する車。レールのないジェットコースターのよう。
「ブレーキかけろ!!」と叫んではいるが、俺にはなんのことかよくわからない。
あまりに必死に走っている祖父を見て笑う俺(笑)

もう追いつかないだろうなぁと思ったところで祖父が再度猛ダッシュ。
窓を全開にしていたドアに手を引っ掛け、身体を引きずられながらなんとか身を乗り出し、窓に頭から突っ込むような形で車の中に飛び込んでサイドブレーキを引いた。

この時祖父の手がもし引っかかっていなければ、俺がこうしてこの話をここに書いていることになっていなかったかもしれない。
孫を殺しかけた祖父と死にかけた孫。思わず目を合わせ大爆笑。

ちなみに従兄は未だに「なんでサイドブレーキ引かなかったんだろ・・わかってたのに焦ってしまった」と悔やみ続けている(笑)


俺と祖父はこういった命をすり減らすスリルが大好きだった。だから爆笑していたのだ。


これから数年後。
北海道石狩地方がとんでもない豪雨に見舞われた。
後に札幌市内を走る豊平川で、豊平川史上最大の「56水害(昭和56年水害)」と呼ばれる大洪水を引き起こした大豪雨である。

この川の普段の様子はこんな感じだ。

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大きな川の横にはサイクリングロードがあり、河川敷には野球場やかつては車の教習場なんかがあった。のどかな風景。

この川が氾濫した。

最近も一度増水し、やや氾濫したした時の写真を撮影した方がいたので引用させていただく。

画像2

(引用元 http://blog.livedoor.jp/masahitovolvo/archives/52208293.html

これが二年ほど前らしい。
サイクリングロードの辺りまで川が溢れ出ている。

更にこちらは6年前。

画像3

完全にサイクリングロードは消えてしまっている。野球場なんかも水の底か?
が、札幌市を守るための土手はまだまだ高い。
水位が更に数倍以上膨らまない限り大丈夫。

・・・のはずだった。

昭和56年。その時がきた。
サイクリングロードはもとより、自動車教習所も完全に水没。
水位はぐんぐんと増え、ついには土手の上部まで到達。

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市内に水が溢れ出してしまったのだ。
その濁流の凄まじさといや筆舌に尽くし難い。

3・11の津波の時の映像を見て、最初に俺が思ったのはこの洪水の時のことだった。
その時の実際の写真も残っている。

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実際はまだだ。
まだこんなもんじゃない。

津波の時とはまた違う勢いがあり、台風も重なって濁流が高く跳ね上がり高波となって襲いかかってくる。
見たことがないような速さで水が流れ、あらゆるものを巻き込んでいった。

この洪水のピーク時、一体この土手の上ではどうなっていたのか?
それを知る者は恐らく数人しかいないだろう。


俺と祖父だ(笑)


「洪水見に行こう」と祖父。
それ台風の時何故か水路見に行って死ぬ人じゃん!とツッコみながら車の助手席に乗り込む俺。
他の家族からの猛反対を受けながら俺と祖父は家を飛び出した。

高速でワイパーを動かしても前が見にくいほどの豪雨の中、国道230号線から市電が通る道を左折し豊平川へと向かっていった。

この時の様子は40年近く前だが今でもはっきりと覚えている。
橋に向かっていく道が完全に川のようになっていたのだ。
車は鯉の滝登りのように唸りを上げて坂を登る。

登りきった坂の先にかかる南22条大橋。
川から十数メートルの高さにあるこの橋がすでに水没していた。
それを見て慌ててUターンして引き返す他の車。
当たり前だ。このまま橋の上になんかを通れば車ごと氾濫した川へと一発で流されるだろう。そもそも橋自体大丈夫なのだろうか?


流石に橋は渡れない。
なので橋のすぐ横の側道に入った(扉画像の部分)。そして後悔した。
土手の上にあるこの道もすでに水没し、川の一部となって波飛沫をあげていたのだ。

引き返そうにも車が前へ前へと押し流されてもう戻れない。逃げる脇道もない。死への一方通行の一本道。

「こらぁ・・・死ぬな」と祖父。
「運が悪けりゃね」
「じゃあ・・行くか!運が悪けりゃそれまでよ!」
「ふふふ」

この時浮かんだのがあのドラマのあのメロディー。

運が悪けりゃ死ぬだけさ。
一世一代の大博打。こんなところを他に走っている車はもちろん一台もいない。

車は濁流の高波に飲まれる度に右へ左へと大暴れ。
左車線を走っていたはずなのに、視界が奪われたあと気がつけば右車線に、右車線を走っていたと思ったらぐらっと車が斜めに傾き左車線へ。

何度も片輪走行を繰り返しながら泳ぐように走る。
走るというかすでに流されていたようにも思える。

咥えタバコでハッハー!と笑う祖父と、車にしがみつきながら命のギャンブルを楽しみ爆笑する俺。

やがて車は南19条大橋に到達し、脱出経路への分岐点へと差し掛かる。
「行こうよ行こうよ!」
「よし行くかぁ!」
俺らはギャンブルの続行を決意し、そのままもう一度側道へと乗っかった。


ガードレールに何度かぶつけながら車は幌平橋へ。
まだ側道を降りない。そのまま南大橋まで。

大丈夫だ。俺たちは死なない。
ここまでの道のりで確信した。
確信して、そこでようやく左折して側道から降りた。
中島公園の横の9条通は流れるプールのように水が流れていた。初めて見た・・・こんな光景。


家に帰り、川の状況や自分たちのこの運の良さを伝えても、みんな怒るだけだった。
ただそれでも俺と祖父は「やり遂げた男たち」として満足していた。
今なら何をやっても成功する気がする。

俺は夏休みの工作で雨降り報知機を作り、学校で賞を貰った。
そのまま札幌市創意くふう作品展に出典され佳作を取った。
祖父はその勢いのまま新しい事業に乗り出した。


そして詐欺にあい、家も土地も財産も全て奪われた。
俺の自慢の雨降り報知機はバラバラに壊されて返ってきた。

運なんてあの時に、とっくに全て使い果たしていたのだ。



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