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超解釈。凸で凹で…。どこにも「はまらない私」

ぼくはふと、今までの42年の半生を振り返ってみると…。

どこにも人間社会のグループにぴたりと、はまらなかったなと自負している(笑)

グループに「ぴたりと、はまる」とはどういうことかと言うと…。

何処かの所属する組織やチームに溶け込んで、そこであたかもパズルのピースのその人の個が躍動し、その人であるかのように、そのものであったかのように、第三者からも見える場合がある。

例えば、野球の選手だけではなく、そのポジションで、その打席のそこには「その人」という感じにパズルのピースがピタっとはまる時がある。

「1番センターイチロー背番号51」

そういう人を見ると、以前は羨ましいなと思った頃もあった。

ぼくがTwitterの音声SNS「スペース」で知り合った中で、えりかな先生がいる。

元スーパー保育士、えりかな先生😁

話すと一瞬でわかるほどに保育の先生を以前やっていた素敵女子だ。

元がつく保育士さんだが、その在り方、存在そのものが保育士さんだなって思うので、あえて、えりかな先生とここでは呼ばせてもらう。

確か現役の頃は、えりかな先生は、まわりの人たちから頼られていたというふうに聞いている。それもわかるような気がする。

ぼくの場合は学生の頃から、所属するコミュニティ、団体に入ろうとしても馴染めなかったし、

社会人になってサラリーマンをやっていたこともあったが、そこの組織の中枢でスーパーサラリーマンになることはなかった。

その後、ボディセラピスト、占い師にもなったが、なんだか中心にはいなくて、外側に私はいる。そんな感覚がずっとしていた。

いつも円の外側、そんな感じだ。

例えるとすれば、ぼくって凸でも凹でもなく、より複雑化され、より「いびつな形」そんな感じなのかもしれない。

それと一時は仲良くなったが話が合わなくなり離れていった人が思い浮かんだ。

初めから、この人とは合わないなって相手は仕方がないと思って明きらめがつくんだけど、

仲良くなったのに何故?と思考がどうしても思いつく。

一つの考察として、わからないけど、その人は、これが佐藤啓太という像を無意識に勝手に当てはめていて、そのパズルのピースが合わなくなってきた当てはまらなくなってきたんじゃないのかな??って…。そんな仮説が立つ。

ぼくはその人と話をしていて、一番モヤっとする時って、ぼくの話を正確に理解をしてくれない理解を示してくれなくなったという失望感を感じる時だった。

けれど、もしかすると理解を示さなかったというより理解されなかった理解できなかっただけかもしれない。

だってその人が持っている佐藤啓太の像が違ってきていてパズルのピースに当てはめることが難しくなっていただけなのかも…。

そう思うと「ぼく」という人間を理解できない相手がいて、それを受け入れることも大事だと思えるし、

あまりにも、何処にもはまらなかった、いびつでゆがんだ形の「ぼく」も在りかなって、自分自身を愛するというか、そのままの自分を受け入れる許容が今はできるって、そう思えるんだ。

何処にも、はまらくていいんだ。
それはある意味自由を意味するのかもしれない。ふとそんなことを考えた朝なのだ。

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