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2023年9月6日(水)晴れ時々雨

めぐさんと鎌倉の燕カフェで話した。靴を脱いで上がる店内は畳で広く、席同士の間隔が空いているので開放感があった。また誰かとたくさん話をしたいときに来ようと思う場所が増えた。駅から少し離れているのも良い。今日は暑くてアイスミルクティーを飲んだけれど、めぐさんが飲んでいた薬膳のお茶が美味しそうだった。

日記を書くことについて。私は現在1ヶ月ほど毎日noteで日記を公開しているが、若干自分の中で何かを絞り出して書いている感が出てきた。この話をめぐさんにすると、彼女も毎日は書けないという。私はこの習慣から抜け出せなくなっているような感じがある。書くことは楽しいけれど、それが目的になり出したら、内容が疎かになって私の求めている日記のあり方とは違ってくるように思う。1日の出来事をひとつひとつ掘り下げて、その時の描写に主観を加えて書こうとすると、それはそれは骨の折れる作業になってしまう。でも楽して中途半端に書きたいというわけじゃない。いくら大変でも自分に必要だと思えば書く。それに毎日うつろっていく感情や思考の揺らぎ、美しいと思った出来事など、忘れてしまう前に記録として残しておきたいものもある。

でも本当は習慣でやめられないというより、書き続ける根気が自分にないと感じてしまうことの悔しさが強い。多分は私はまだ「自分はこうじゃなきゃいけない」という先入観から、心の奥深くでは自由になれていない。やっぱり本当は書きたいときに書くというのがいいと思う。力まずにそっと続けられるようになりたい。

めぐさんと「回復」についてもあれこれと考えを巡らせた。この実体のない響きはどこか嘘くさく、なにかひとつの形でこれだと表せることではないような気がしている。めぐさんと話しているうちに彼女の考えに揺さぶられ、私の中の「回復」に対する考えはまた少しだけ姿を変えた。それでもやっぱり変わらず私の中で信じられているのは、具体的な傷や怪我からの回復の他に、もっと日常と一緒に流れている大きな時間としての「回復」があること。誰もがそれぞれのあり方でそれを経験していること。この抽象的で捉えにくい「回復」の気配を感じるためには、具体的な日々を積み重ねる日記が媒体として適しているのではないかということもまた、どこか確信しているところがある。

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