完・チューリッヒ闘病の記録
10/10
午前中は昨日撮影した映像を確認した。ルーシーは仕事に行っていて、ユエは撮影した映像を見る気があまりない様子だった。40分近くある映像になってしまったから仕方ない。私はひとり映像を全部見て、可能性を感じる部分を選び、そのどれを使うかによって映画の方向性が変わるだろうということをユエに話した。夏のひかるとの撮影を思い出して、個人的にとても楽しかった。でもこの作り方について、私が信じているのと同じ温度を、まだユエたちに共有できている気がしない。
午後ユエが編集の仕事をしている間、2時間ほどひとりでチューリッヒの街を散歩した。私は外でインターネットがなかったのでマップが使えず、目的地もなくとりあえず中心地の方に向かっていた。途中入った教会を改装したホールのような場所で、瞑想のクラスをやっていたようだった。けれど私が入った頃にはもう終わってしまっていたので参加できず。観光地の中心といった様子の街並みを歩き続けると、旧市街を見下ろせるリンデンホフの丘に辿り着いていた。有名な場所らしいが私は来るまで全く知らず、いざ来てみても標識を見ないとその場所だと分からないくらい人もまばらだった。しばらく景色を見てから丘を降り、川の対岸にある大聖堂の中に入った。ミラノのドゥオモを見て以来、どこの教会に行ってもそれほど衝撃を受けなくなってしまった。そもそもインパクトを求めるような場所でもないのかもしれないけれど。このチューリッヒの大聖堂の中を見学していると、パイプオルガンの音が聴こえてきて、何か曲が始まるのかと期待した。しかし演奏は何度も同じ場所で止まり、最初からやり直される。どうやら練習が始まったようだった。練習にたまたま居合わせたのは初めてだったので、ラッキーだと思った。しばらくオルガンを聴き、疲れていたので塔には登らずに大聖堂を後にした。
コロナの後遺症だろうか、やっぱりまだかなりの倦怠感がある。スーパーでビタミン補給のスポーツドリンクのようなものを買い、飲みながらまた40分くらいかけて歩いて帰った。
夜はルーシーがペロッタ家で受け継がれてきたレシピ、スモークサーモンのパスタを作ってくれた。とても美味しかったものの、やはり匂いが奥まで感じられないというか、ぼやけたような感覚なのが残念だった。日本で材料が完璧に揃うかどうかは微妙だけれど、作り方をざっくりと教えてもらったので今度挑戦してみようと思った。ルーシーが料理をしているところを、ユエと一緒に撮影した。
10/11
ガエルがアムステルダムからチューリッヒに来るので、駅までユエと迎えに行った。最初は朝8時に到着予定で、早起きができるか心配だった。でも結局彼女が乗る夜行電車が遅れて9時着になり、全然問題なく迎えに行くことができた。
ガエルと会うのは約2年ぶり。短編映画の撮影を手伝ってもらった2021年8月のミラノが最後だった。でも実際に話し始めると会っていなかった時間が吹き飛んだように、まるで先月も会ったような、不思議な感覚だった。久しぶりに再開したリズムの難しさ、特有の気まずさが全くなかった。
ルーシーも合流して4人でカフェで朝ごはん。普通のチェーンのカフェだけれど、比較的チューリッヒの中では安めだし、クロワッサンがとても美味しい。コーヒーはイタリアのエスプレッソのほうが美味しい。朝食後は家に戻ってまたたくさん話す。お昼ご飯に昨日残ったクリームでマッシュルームとハムのパスタを作り、食べながらもっと話す。久しぶりの4人で会話が本当に止まらない。
午後はルーシーが仕事に行き、ガエルとユエと3人で映画について議論。ユエのナレーションを録音し、今日撮影するシーンを話し合って決めた。外に出て相変わらず近所の川沿いで撮影。ガエルがカメラの前で驚くほど自然だった。ユエは少し身体がこわばっていたと思う。でも良いシーンがふたつも撮れた。
上機嫌でスーパーに行き、食料品の買い物をした。家に着いてデータの転送をしている間にルーシーが仕事から帰ってきた。晩御飯はここにきて初めてのスイス料理で、フォンデュ・パーティをした。前回チーズ・フォンデュを食べたのは、2021年7月にルーシーのお母さんの家でだったので、こちらも2年ぶりの再会だった。
元々フォンデュ・パーティの中でも撮影を予定していたけれど、結局話が盛り上がってワインを飲み、撮影をする前にフォンデュを食べ切ってしまった。でもこういう撮影をしていない時間が、実は映画のためにも、そして私たち自身のためにも一番大事だと思う。ミラノでいつものように一緒にいたメンバーが揃って嬉しい。とても良い時間だったけれど、1日中話していたので少し疲れも感じている。
10/12
午前中はユエとルーシーが銀行に賃貸の契約関連で手続きに行っていたので、ガエルと家でコーヒーを飲みながら話していた。前日に大きめのドキュメンタリー映画の仕事の紹介を受け、そのメールを夜中に読んでしまい、受けるかどうか悩んで眠れなかった。気持ち的には受けてみたいけれど、去年福島のドキュメンタリー制作でかなり苦労したことや、内容的な重さ、スケジュール的にも躊躇している。このことをガエルに相談したら、どれだけ大きな仕事でも、自分自身のメンタルヘルスを一番に優先してねと言われた。彼女は私のミラノでの様子を見ているし、今年の前半少し精神的なバランスを崩していたことも知っている。普段物理的には離れていても、なんだか私のことをちゃんと見つめてくれている、そんな視線を感じた。その視線の存在は、それだけで私に少しだけ踏ん張る力をくれる気がする。
昼ごろにユエとルーシーが帰ってきたので、皆で家で昼食を取り、ルーシーはまたオフィスへ。残った3人で今日何をするかを話し合う。ガエルが明日までしかいられないので、中心地に散歩に行きたいかどうか聞いたが、どちらでも良いとのことだった。結局そのまま話し続け、ガエルが計画している短編映画のアイデアを聞くなど、午後の半分以上を3人で家から出ずに過ごした。私としても彼女たちと過ごせれば、どこに行こうが行かなかろうが何でも良かった。16時ごろになり、今回私たちが作っている映画のなかで今日撮るシーンを決め、家で1シーン、外で1シーンをそれぞれ撮った。
夜にルーシーが帰ってきて家でご飯を食べた後、4人で歩いてバーへ行った。同じ場所に数日前にユエとルーシーと3人で来たが、その時よりもかなり混んでいた。なんとなくイタリア時代の懐かしさから4人ともアペロル・スプリッツを頼んだ。ミラノにいた頃はアペリティーボ(食前のちょっとしたお酒とつまみ)でよく飲んでいたカクテルだけれど、スイスでは値段が2倍以上した。4人が揃ってまだ1日と少ししか経っていないけれど、もうたくさんの身内ジョークができていて、それらをひたすら言って大笑いしていた。
それでも割と真剣にみんなで話していたのが、いつか制作会社を4人でヨーロッパを拠点に持つべきではないかということ。私は日本で先に会社を持つと思うので、どれくらい現実的かどうかは正直分からなかった。それでも話しているうちに、私自身がヨーロッパでの制作も続けたいと強く感じていることもまた実感した。これらのことを皆にしっかりと伝え、今すぐにではないけれど、真剣に考えていけることのような気がした。映画をこれからも長期的に作っていきたい。
10/13
午前中に4人でのシーンをひとつ撮影した。映像を確認すると、ちょうど午前中の光の移り変わりが映っていて、見逃したくない大切なことを受け取った気持ちになった。
昼ごろに皆で家を出て、チューリッヒ中央駅まで向かった。今日はルーシーのお母さんのシャンタルが、スイスのフランス語圏の街から電車で私たちに会いに来てくれた。彼女と会うのは2年ぶりだった。シャンタルは英語がそれほど流暢ではない。私はフランス語が全く話せないので、どうやってコミュニケーションを取っているのか謎だけれど、何故か好いてもらっていてありがたい。
昼は皆でマクドナルド。スイスでドリンクとフライドポテトMのセットを頼むと日本円で2000円以上する。でもメニューの種類がとても多く、グルテンフリーメニューがあるのは良いなあと思った。
午後は中心地で少し撮影をし、その後はチューリッヒ内をシャンタルと私たち4人で歩き回った。機材を背負っていたので大変だった。レバノンではアラビア語に加えて、フランス語も第二言語として多く話されているらしく、ガエルも流暢に話せるので、初対面のシャンタルともすぐに仲良くなっていた。ユエもパリに2年間住んだからか、ルーシーの母語だからか、少し理解できるようになっていた。全くぽかんとしているのは私だけだった。カフェなどで座るとしばらく会話がフランス語になる時間帯があり、私はおとなしく皆の喋り方やジェスチャー、目線などを観察していた。
夜は私たち5人に加え、ルーシーの妹のアリスとその恋人のマックス、アリスの友達のメリッサの合計8人でディナーを食べた。チューリッヒでしっかりとレストランに入るのは初めてで、スイス料理を食べられたのは嬉しかった。値段もしっかり高かった。
食後はユエとルーシーと、ガエルを中央駅のホームまで送った。4人で過ごす時間はあっという間だった。全員で長くハグをしてお別れをした。次に会えるのはいつだろうか。1年に1回くらいは世界のどこかで会いたいねという話をしている。
シャンタルは22時の電車で帰り、アリスたちはクラブに出かけて行った。私はユエとルーシーと歩いて家に帰った。一緒に過ごせる最後の夜だという意識を私たちも感じ始め、各々別の作業をしながらもひとつのソファに集まって、喋りながら過ごした。ふたりは0時前にはベッドに入った。私はパッキングを大体0時半頃終え、その後は明け方の4時まで撮影した映画の編集作業をしていた。睡眠時間が少ないけれど、どうせロングフライトと時差ボケで大変なことになるだろうから、今日の夜更かしくらい平気だろうと思っている。むしろ疲れた状態でロングフライトに臨めば、きっとよく眠れるのではないか。
10/14
朝かなり眠かったけれど、出発まで時間がないことも分かっていたので8時半には起きた。ユエとルーシーはまだ寝ていたので、ひとりでスーパーにお土産を買いに行った。
外に出ると小雨が降っていた。チューリッヒ最終日にして初めての雨。滞在中天気に恵まれたことはとてもラッキーだったし、ちゃんと雨も体験できてそれもまた嬉しい。
買い物を済ませて家に帰ると、ちょうどふたりが起き始めたところだった。最後に撮りたいシーンがふたつほどあったので、部屋の中で撮影をした。撮ってみた実感、これがラストシーンだと思った。もうひとつ予定していた川でのシーンを撮りにユエと出かけたけれど、部屋で撮ったシーンほどしっくりはこなかった。
家に戻り、私は数日前のご飯の残りを食べながら、最後のパッキングをした。丸々2週間過ごしたこの部屋は、ガエルも含めて4人で住むには狭すぎた。無駄におしゃれで使いにくいデザインもツッコミどころ満載だったけれど、荷物をまとめて部屋を去るとき、生活感たっぷりで汚いこの場所がなんだか愛おしく思えた。
ユエとルーシーが中央駅まで送ってくれた。ふたりは私がコロナになって熱を出している間も、ずっと看病してくれていた。ふたりに感染しなくて本当に良かった。そして彼女たちがいなければ、私は言語も分からない初めての街で病気になり、本当に途方に暮れていたと思う。
中央駅に向かう地下鉄の車内でユエが、なんで私たちは皆別々の場所に散り散りにならなければいけないのかとぼんやり言っていた。そしてルーシーが「What's preventing us?」と質問を投げかけた。そう、私たちはどうして一緒に居られないのか。何がそれを妨げているのか。ユエとルーシーは、ルーシーの仕事の都合でチューリッヒに引っ越した。ガエルは夫がオランダで働いているため、そこで暮らしている。ユエとガエルは生まれた国、母語を話す国を離れてしばらく経つ。私はこれから日本に帰る。みんなそれぞれ別の場所に帰るべきところ、英語で言う「home」を築いている。しかしその home も場所や人、帰属意識などさまざまな姿をもっていて、変化する可能性があり、抽象的だ。
ふたりとの別れ際、いよいよ本当に寂しくなってしまい私は涙目だった。でも笑って解散したかったので、ふたりには気づかれないようにしていた。
チューリッヒ空港でスムーズに手続きを済ませ、余ったフランの小銭で水を買い、アムステルダム行きの飛行機に乗った。わずか1時間半ほどのフライトでは音楽を聴いて外を眺めていた。眠気は全くなかった。
アムステルダムに到着。びっくりするくらい何の手続きもなく入国できて、簡単に外に出られた。次の北京行きのフライトまで、乗り換えの時間が3時間半ほどあった。もし可能であれば、私はアムステルダム市内にあるアンネ・フランクの家に訪れたいと思っていた。乗り換え時間的に少し諦めていたけれど、いざ到着してみると行けるような気がして、急遽行ってみることにした。『アンネの日記』を今回ヨーロッパに来る前に読みきったばかりで、アンネが隠れていた家を、少しだけ見てみたいと思っていた。
電車と路面電車を乗り継いで50分ほど、アンネの隠れ家に到着すると、ちょうど観光地の運河の真横にあることもあってすごい人だった。入口の人に聞いてみると、直接チケットは買えず、2週間前からネットで予約しないといけないということだった。乗り換えのわずかな時間で勇気を出して結構な挑戦として来たので、入ることができず悲しかった。私は2017年にイングランドのノリッジに留学していた頃も、週末にアムステルダムに来てこのアンネの隠れ家を訪れている。その時も修繕工事中で中に入ることができなかった。縁がないのだろうか。いつか三度目の正直でまた挑戦したい。
何も予定がなくなって、せっかくなのでふらふらとアムステルダムを歩き回った。気温は13℃でチューリッヒよりもかなり風が冷たく、コートをスーツケースに入れて預けてしまっていたので、結構寒かった。しばらくして路面電車に乗り、空港へと戻った。見たかった場所は見られなかったけれど、それでも空港の外に出て冷たい風に当たるのは気持ちがよかった。
アムステルダムのスキポール空港はサイレント・エアポートと言って、空港内のアナウンスや呼び出しがない。各自掲示板等でフライトの詳細やゲートを確認するシステムになっている。慣れるまで変な感じがしたけれど、静かな空港は良いものだった。チューリッヒの家から持って来たサンドイッチで腹ごしらえをし、北京へ向かう飛行機に乗り込んだ。
睡眠不足でかつたくさん歩いて疲れているのに、どうしても眠りに落ちることができなかった。
10/15
どこからをこの日と捉えれば良いのか分からない。アムステルダムから北京まで約8時間のフライトだった。隣に座っていた女性がずっと眠っていて、一度もトイレに立たないし、一度も機内食を食べていなかった。私は通路側だったので自由に立つことができたので良かったけれど、残念ながら彼女のようには眠れなかった。結局映画を2本見たり、ダウンロードした音楽やラジオを聴くなどして、20分くらいは眠ったと思う。
北京では乗り換えにもかかわらず、行きの上海と同様かなりセキュリティチェックやパスポート審査が厳しかった。私のリュックにはカメラやパソコン、充電器などが入っていたので、それらの電化製品が反応している様子で、3回も荷物検査のレーンを通された。おまけにリュック内の袋をひとつひとつ開けて、機械が反応しているものを全部見せなくてはならず、自由になるまでかなり時間がかかった。乗り換え時間がたっぷりあると思っていたが、行きの上海ほど走ることはなかったけれど、結局そんなに北京の空港を堪能する時間はなかった。それでも空港のとてつもない大きさは感じて、まるでスタジアムにいるようだった。嬉しかったのは空港内にしっかりとしたウォーターサーバーがあったこと。そこで水を空いたボトルに汲んで、あとは中国の見たこともないような炭酸のジュースを好奇心で買って、飛行機に乗り込んだ。
機内では編集作業をしようとしたものの、チューリッヒでルーシーのパソコンで使っていたプロジェクトファイルが私のパソコンで開くことができず、何もできなかった。読書をしたり音楽を聴いたり、少しうとうとしていたと思う。
羽田に到着し、さくらが迎えに来てくれた。久しぶりの再会はとても嬉しかったし、なんとなく急にひとりになったような孤独感を感じていたので、日本についていきなり彼女がいてくれたことは心強かった。空港や駅の中でまず感じたのが、情報量の多さだった。チューリッヒやアムステルダム、中国では言語が分からないので、自分に必要な英語で書かれている案内だけを探して歩いていたような気がする。すれ違う人たちの会話や空港内のアナウンス、駅などの標識も、無意識のうちに分からないものとしてスルーする癖がついていたのだと思う。それが日本に帰ってきて急にスルーできなくなって、全部自分に入ってくることに気づいた。最初は疲れるけれど、また慣れたら何とも感じなくなるのだろう。
帰国した今も倦怠感が若干残っていて、時差ぼけもあってすぐに疲れてしまう。身体がとても重い。そして嗅覚が半分くらいは戻ったような気がするものの、まだいまいち匂いの輪郭がはっきりしていない。さくらが金木犀の匂いがするというが、私は一瞬分かったような気がするくらいで、確信がない。
ヨーロッパでの旅が終わった。今回は仕事でスペインに行ったことがきっかけだったけれど、大切な人たちに会いに羽を伸ばしてイタリアやスイス、オランダにも滞在した。私は場所に対する関心がまだあまり自分のなかで見つけられず、観光なども特にしていない。今の私がどこかに足を運ぶ理由は、一緒に時間を過ごしたい人たちがいるからだと改めて気づいた。その場所がどこであっても、あまりこだわりがないのだと思う。
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