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2023年8月27日(日)晴れ

相変わらず9時ごろ起床。午前中は引き続き『アンネの日記』を読み、昨日の日記を書いた。日記をnoteに公開し始めて3週間が経つが、これは結構労力がいることだと思う。誰かに読まれるかもしれないと思って書く文章は、ちゃんと読めるものにしたい。日記はたった一日分読んで世界が変わる類の文章ではないと思うけれど、公開するからにはある程度読んで面白く、豊かな時間が生まれてほしい。そのための推敲や、何を書いて書かないかの選択は大切だと思う。

俳優の方々とのワークショップでシーン稽古をするため、昨日今日ともう一度自分の書いた台本の整理をした。実はこのシーンはこういうことだったのかと、書いている段階では気づかなかったけれど読み込むうちに見えてくるものが多々ある。今回もまた、シーンが求めていることは何なのか、登場人物は何をしたいのか、少しずつ明確になっていくものがあった。これはいつも本当に不思議な経験で、書いている私自身が気づいていないシーンの真意が、勝手にちゃんと存在している。そしてそういう私の無自覚にもかかわらずおのずと生まれてくる登場人物やシーンの様子は、実際に見てみるとだいたい腑に落ちるものが多い。でもこれもまた私の理解でしかないので、俳優たちと一緒に確かめたい。

岡山に行っていたので、2週ぶりの稽古。まずは場所となる部屋の間取りを稽古場にある椅子や机で再現した。この作業は役の身体性に関わる部分なので、俳優と一緒に作りたいと思っていた。そしてシーンの準備をしてきてもらったふたりが、役を入れた状態でレペテーションをする。重苦しさを感じたが、それが役の苦しさのか、初回の難しさや不確定要素の多さによるものなのか、この時点では判別がつかなかった。その後は実際に動きをつけてシーンを演じてもらった。一度最後まで通した後は、ふたりがどのようなシーン・キャラクター解釈で作ってきたのかを聞き、設定に関する質問をいくつかした。私が用意してきた設定と、俳優自身の解釈や身体がどう感じていたかということを、混ぜ合わせたいという意図があった。正直曖昧な質問をしてしまったと思った。私が共通認識として俳優と一緒に確かめようとしていたことは、実はきっとみんな既に気づいている。自分だけがそうやって、当たり前のことを確かめようとあくせくしていたように感じる。

それでもどこかで、今日はこのゆっくりとした作業が必要だったのだと思っている部分もあった。思いつく限りのあらゆる設定や解釈の可能性を一旦、テーブルの上に全て並べる工程。これからはその並べたものたちから、俳優と私の解釈を基準に選び取ってシーンを作っていく。この作業は来週以降になりそう。

稽古の後、いつものように石原さんと話した。話しているうちに、キャラクターの人物像がより鮮明に浮かび上がる。同じ場所にいる相手に対しての欲求と、自分が背負っている状況に対してどうしたいという欲求があり、後者の方が強い人物がいる。それでも同じ空間にいる相手との間に生じる人間同士の交流は、演じる上ではなくてはならないように思う。矛盾する欲求をいくつも抱えた複雑な人物は人間的だが、一面的ではないその姿を表現するにはどうしたら良いのか。

石原さんが言っていたのが、複雑なものほどシンプルにしないと表現できないということ。これはまさにそういうことだと、言われて思い当たることがいくつもあった。相反する欲求の両方を同時に選ぼうとすると、結果どちらも選び取れない。目の前の人や空間とどう関わるかを基準にして、複雑に絡み合った欲求の中からひとつを選んで行動すればこそ、選ばなかったものたちの存在が醸し出される。こういうものが映画には映るのだと、ぐっと腹落ちした。

長年、何かをひとつを選ぶことは、選ばなかったものたちを切り捨てる行為だと思っていた。未だに分かれ道を目の前にすると、進まなかった道の先を想像して足がすくむ。それでも覚悟をもって選ぶことは、選ばなかった暗闇の世界にどうにか光を当てる行為だと思う。こうしてカメラのフレームは現実を切り取り、日記はその日に起きたことのいくつかを記録に残す。


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