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本当の大学の研究とは 喜嶋先生の静かな世界

軽い気持ちで読んだら、ものすごい引き込まれるし、面白し、色々考えさせられる本に出会ったので、感想とか紹介をします。「喜嶋先生の静かな世界」という本です。著者は森博嗣先生。「すべてがFになる」で有名になった作家の方。

もともとは大学でバリバリの研究者だったということで、この本は、そのときの経験が多分に含まれているであろうなーというのがわかる内容となっています。研究者はこういうものなのか、というのがおぼろげながらに理解できる本です。

勉強と研究の違い

僕は現在早稲田の理工学部の学生なんですが、大学に入ってからというもの、学問の奥深さに圧倒される毎日を送っています。大学生協に並ぶ数々の専門書、僕に理解できるのは、そのうちの、ほんのわずかわずか数冊。

少年老い易く学成り難し、とはこういうことなんだろうな、というのを実感しました。大学生、特に理系に進んだ人ならわかることですが、勉強と研究は、呆れるほどに違います。違いすぎて絶望してしまうほど。

勉強と研究の違いを端的にまとめるならば、

- 勉強とは、既存の学問の知識をまなぶこと
- 研究とは、既存の学問の知識を創出すること。または、新たな分野を発見すること

僕はまだ研究室にも入っていない身なので、そこまで込み入ったことはわかりませんが、勉強と研究の違いとは何か、と問われたら「喜嶋先生の静かな世界」から引用してこう答えるでしょう。

図書館にある本を調べ、世界中に存在する文献を検索して、関連する情報をすべて得ても、また、それを把握し、整理しても、それは研究ではない。

 

喜嶋先生はこう言われた。「そうやって調べることで、何を研究すれば良いのか、ということがわかるだけだ。本や資料に書かれていることは、誰かが考えたことで、それを知ることで、人間の知恵が及んだ限界点が見える。そこが、つまり研究のスタートラインだ。文献を調べ尽くすことで、やっとスタートラインに立てる。問題は、そこから自分の力で、どこへ進むのかだ」

研究とは地味である

もし、本物の研究者の方が本記事を読んでいたらごめんなさい。ここで書くことは僕の予想、というか、数年間大学に籍を置いて色々見てきたからなんとなく想像できることです。普通に勘違いしている可能性もあります。とはいえ、大体の的は射てるはずです。

例えば、ノーベル〇〇賞を受賞しました!!!みたいなニュースがあるじゃないですか。それで、じゃあ例えば生理学の分野で日本の教授が賞をとったとします。メディアに取り上げられて、その先生は一躍大スターになるわけです。

しかし、その先生のやってきたことをみてみると、本当に地道なことの繰り返しなんですよね。おそらく。毎日毎日数式とにらめっこ、実験がうまくいかないときもあるし、うまくいくときもある。数百、いや数千種類ぐらいのサンプルを分析することだってある。その地道さといったら、おそらく研究者以外には到底想像の追いつかない領域にあるのだと思います。

フェルマーの最終定理

話が若干脱線します。

「フェルマーの最終定理」という、僕的に最高にアツイ定理があります。この定理、証明されるのに400年ぐらいかかったんですよ。その間に、何人もの天才と呼ばれた数学者たちが挑戦し、挫折して、キャリアを不意にして。ほんのたまに、超一流の数学者が証明の特殊解を見つけたり、と爪痕を残しますが、それでも解決の目処が立たない。

ゲームでいったらラスボスですよね。そもそも、数学者になる人は、人類の中で死ぬほど頭がいいわけじゃないですか。選りすぐりの天才たちがこぞって立ち向かっても、木っ端微塵にされたのが、このフェルマーの最終定理。

そしてあるとき、フェルマーの最終定理を証明する者が現れるんですね。

それがアンドリューワイルズ。

詳しくはwikipediaを見て欲しいですが、彼は、フェルマーの最終定理を証明するために何十年もの歳月を費やすことに。そしてあるとき、全てが繋がるわけですね。俗に言うeureka momentってやつです。

「まあ、ときどきね、蜃気楼みたいにさ、奇跡的に見えることがあるわけだ。夢かもしれんけどな。ま、それがすべてだよな」

これは「喜嶋先生の静かな世界」からの引用ですが、アンドリューワイルズの心境を如実に表しているのではないでしょうか。

箱根駅伝では「その一秒を紡ぎ出せ」という言葉を聞きますが、研究の世界はそんな生温いものじゃないです。

その一瞬を紡ぎ出す

それに一生をかけて挑むのが研究者という生き方なのです。

ちなみに、↑の本を読むとフェルマーの最終定理について、よくわかります。むっっっっちゃ面白いです。これぞ男の浪漫だな、という思いで、痺れます。

現代の研究分野は細分化し過ぎてしまった

ニュートン、ガウス、アインシュタイン、ライプニッツ、ガリレオ、などなど、名だたる歴史に名を残した学者たちがいます。彼らは天才だと、皆がいいます。しかし、彼らが立ち上げた理論は、今では大学の学部レベルで学ぶ内容にすぎません。

微分・積分、なんて、当時の教育レベルからしたら意味不明レベルの学問の超最先端だったはずですが、基礎レベルなら、高校生だってできる。

学問が発展に発展を重ねてきた結果、現代では、研究をするために必要な基礎の勉強ですら、ドラゴンボール並みの勢いでインフレしていっているわけですね。

研究者としてスタートラインに立つための、必要最低限の内容ですら、大学に入ってからも何年も研鑽を続けなければたどり着けない高みに至ってしまった実情があります。

この大学では、僕の研究をすっかり理解できるのは喜嶋先生しかいない。森本教授でも、たぶん無理だと思う。研究というのは、今ではそれくらい細分化されているのだ。尖っている先端へ近づくほど、他との距離が遠くなる。しかし、だからといって、マイナな領域へ突き進むことに、一般的な価値がないわけではない。
とても不思議なことに、高く登るほど、他の峰が見えるようになるのだ。これは、高い位置に立った人にしかわからないことだろう。ああ、あの人は、あの山を登っているのか、その向こうにも山があるのだな、というように、広く見通しが利くようになる。この見通しこそが、人間にとって重要なことではないだろうか。他人を認め、お互いに尊重し合う、そういった気持ちがきっと芽生える。

必然的に研究者はキャリアの開始が遅くなり、それは生活の困窮を生み、出生率に影響をあたえ、優秀な頭脳は次世代に託されぬまま、朽ちてゆく、というのが現代の研究者事情なのではないでしょうか。

もちろん、僕は研究者どころか、大学の普通の授業ですら、けっこうギリギリの状況なので、僕の推察はてんで的外れ、の可能性もありますが、まあ当たらずとも遠からずなのではないかなーと思っております。

そして、研究分野の細分化はすなわち、「研究分野ガチャ」を生みます。将来性のない研究分野を選んだ結果、20代後半で露頭に迷う可能性だって、全然あるわけですよね。それってしんどいなと。

現代はTwitterなどのソーシャルメディアが発達しているので、情報は筒抜けです。「ポスドク」とかで検索すると、地獄絵図ですよね。アメリカだと科学者とかエンジニアがヒーローの国で、研究分野次第では超高待遇もわんちゃんあるらしいので、日本とは違って博士号が報われるようです

しかし、日本の研究者の地位とか待遇、大学教育にメスをいれるのは超大変です。多分、一回全部ぶっ壊れないと変わらないのかなと

僕は研究者とか学者の方を超リスペクトしているので、なんとかこの現状を変えられないかなと思ってはいますが。まあ、僕の将来の目標のひとつですね

最後に、「喜嶋先生の静かな世界」から、刺さった文章を引用し、本記事の締めくくりとします!

街の明かりがぼんやりと周辺を霞ませていて、星はか弱く高いところにしか見えない。ずっと、空なんか見なかった。自分のこと、研究のことで頭がいっぱいだった。今は、いろいろなことを考える。それは、大人になったとか、一人前になったとか、バランスの取れた社会人になったとか、家庭を持ち、人間として成熟したとか……、そういった言い訳の言葉でカバーしなければならない寂しい状態のこと。僕はもう純粋な研究者ではない。僕はもう……。一日中、たった一つの微分方程式を睨んでいたんだ。


 僕は、どうだろう?最近、研究をしているだろうか?勉強しているだろうか?そんな時間が、どこにあるだろう?子供も大きくなり、日曜日は家族サービスで潰れてしまう。大学にいたって、つまらない雑事ばかりが押し寄せる。人事のこと、報告書のこと、カリキュラムのこと、入学試験のこと、大学改革のこと、選挙、委員会、会議、会議、そして、書類、書類、書類……。いつから、僕は研究者を辞めたのだろう?帰宅する途中、坂道を上りながら、僕は夜空を見上げるようになった。
「紙と鉛筆さえあれば、どこでも研究はできるよ」と喜嶋先生はよくおっしゃっていた。

Fin.



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