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書評:丸山雅祥『市場の世界』(経セミ2020年12月・2021年1月号より)


丸山雅祥[著]
市場の世界――新しい経済学を求めて
(有斐閣、2020年9月発売、四六判、330ページ、税別2500円)

評者:安達貴教(あだち・たかのり)
名古屋大学大学院経済学研究科准教授

経済学の歴史的発展を概観し
市場の来し方行く末を考える

中古品売買サイトで購入したお目当ての古着が昨日届いた。瞼は重いけれど、パジャマから着替えて急いで家を出ないといけない。「そう言えば、駅のプラットフォームは、どうしてフォームではなくホームと言うんだろう」などとぼんやり考えながら電車を待っている間に、スマフォならぬスマホで電子書籍のマンガを買って読み始める。並行してSNSのタイムラインの確認も怠らない。「やっぱり、ツ○ッターは匿名希望でやるに限るね」などとニヤニヤしていると、あっという間に待ち合わせのための駅に到着。それでも大幅に遅刻気味なことには変わらない。グルメ評価サイトを見て予約しておいたレストランには、徒歩では間に合いそうもなく、慌てながら、二人でスマホのタクシー配車アプリを覗き込む……。

今の学生の皆さんには当たり前の風景であるが、学生時代が遠い昔である評者(泣)にとってはどうか。中古品サイト、電子書籍、SNS、グルメ評価サイト、タクシー配車アプリ……。確かにこれらは評者の学生時代には存在していなかったものだが、行動パターンは今の学生さん達とそれほど違いはなかったはずであり、その点では目新しさはない。このように、私たちの生活や行動そのものではないが、それらの背後で、ITなど技術的基盤が活用されながら、社会的な仕組みとしてがっちりと私たちを支えているのが「市場」である。本書は、そうした現実の市場の変遷を見据えながら、「市場の科学」としての経済学の歴史を概観し、今後の進展の方向性を探ろうとすることで、「市場の理論としてまとまった本格的な書物」(p.ii)になることを目指している。

三部構成の始めの第I部「市場理論の先駆者たち」は、いわば、著者独自の「経済学史」の試みと言える。興味深い点は、アダム・スミスを「市場理論の始祖」とするのではなく、アントワーヌ・オーギュスタン・クールノーを持ってきているところであろう。その理由は、「需要関数、利潤極大化の条件、限界収入と限界費用、寡占市場」(p.2)など、現代のミクロ経済学を構成する基本概念が数学的なツールによって初めて明快に提示された点に求められる。そうして彼に続くのは、完全競争的一般均衡のパラダイムを提示した理想主義的なレオン・ワルラス、具体的な経済問題を分析するための諸概念の開発に関心を寄せたプラグマティックなアルフレッド・マーシャル、そして、「不完全競争の経済学」を1930年代にそれぞれ独立に打ち立てたエドワード・チェンバリンとジョーン・ロビンソンである。なお、著者は、両者の違いとして、チェンバリンが「製品差別化」を明示的に考慮した点に着目する。

続く第II部「市場理論の世界」では、経済学の歴史において1970年以降、新たな分析概念・手法として興隆・定着したゲーム理論(第6章)や情報の経済学(第7章)の応用として展開・発展した産業組織論(第8章)とビジネス・エコノミクス(第9章)の成果が紹介される(なお、両者共通の始祖としてマーシャルが配置されている)。まず、前者の産業組織論に関しては、「競争は、経済厚生を高めるための必要条件でも十分条件でも」なく(p.153)、従って、「市場における自由競争の放任ではなく、経済厚生を高めるような競争秩序を保持していくうえで、競争政策の果たす役割は大きい」(同)ことが知的コンセンサスとして形成されてきた点が大きい。他方で、後者のビジネス・エコノミクスは、経営の経済学という別称が示すように、従来、経営学のトピックスと考えられてきた製品戦略や物流・流通の組織といった諸問題が、経済理論の観点から整理・体系化が進められたことがその成果である。第II部最終の第9章では、近時、大きなウェイトを占めてきているプラットフォーム戦略にも言及がなされて、本書の残りの部分への橋渡しがされる。

そうして最終の第III部「市場経済の仕組み」においては、経済学の二つの市場観、即ち、「同種の商品に関する売り手と買い手の集合」(p.183)として市場を捉えようとする「集合としての市場観」と、売り手と買い手との間で商取引が行われる場」(p.184)として市場を捉えようとする「場としての市場観」が対置される。前者は、「ある程度同一の価格水準が行き届いているような売り手と買い手を集合体として考える」という抽象的な思考に基づいており、そこでは具体的な場が想定されることなくして、市場が観念されていることになる。やや驚くべきことに、ミクロ経済学の教科書に解説されているような「現代まで発展してきた経済学では」(p.185)、このような「「集合としての市場」の立場から研究が進められてきた」(同)のである。しかしながら、サプライチェーン・マネジメントやネット上でのプラットフォーム・ビジネスなど、市場経済の新たな側面の更なる理解のためには、「場としての市場観」も強調されなければならない。そうすることで、市場がどのように編成・変容していくのかについての運動法則が導き出せるのではないかという方向性を示唆することで、本書は締めくくられる(第13章「市場の編成原理」)。

本書は、狭い意味では、産業組織論や経営経済学(ビジネス・エコノミクス)に関わるものと言えるが、市場の来し方行く末に考えを巡らせることは、経済学のあらゆる分野に関わる基本的な論点と言え、その意味で、本書が対象とする読者層は幅広い。とりわけ、ミクロ経済学を勉強したばかりの初学者が、その歴史的発展や全体像を概観し、教科書を補完するためには格好の副読本と言えよう。


本記事は、『経済セミナー』2020年12月・2021年1月号掲載書評の拡充版です。



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