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「無理しなくていいよ」の意味

 世はまさに「無理はしない」時代。
 さながら「根性でどうにかするという時代は終わった」ともいわんばかりの世論だ。
 最近は他人に「がんばってね」と無理強いせずに「無理しないでね」と言う方が、堅実的らしい。

 私も人とLINEしているときに「これから仕事です」とか「家事します」とかメッセージで言われたら、大抵は「がんばってね」ではなく「気をつけてね」とか「無理しないでね」とか、言うようになった。

 「がんばってね」と言われると、緊張するとか疲れるとか、そういう主張を散々聞いてきたから、こういう形になったのだが、何だか未だに慣れない。
 私が古い人間だからだろうか。

 今日お話しするのはいわゆる「無理をする」とか「がんばる」という言葉に否定的になった世間で、よく言われる「無理しない方がいいよ」とかいう言葉の真意についてだ。


「無理」の定義について

 まず考えるのがこれ。
 「無理」とは、どのくらいの状態をいうのか。
 まず私自身ここの定義から、他人との差異があることに気づいたので、これについて書きたい。

 私の考える「無理」とは「体調や精神に支障をきたし、続けると体調不良になりそうなこと」である。
 かなり心と体に負担がかかることについては「無理」だと言っていい。
 これが私の「無理」だ。

 ところが、そうでない意見もある。それがこれだ。
 「ちょっと嫌だとか面倒だとか思ったらすぐやめる」ことを「無理」だという人もいる。
 こう考える人が結構な割合でいる。

 昨今の風潮では、前者の私の意見ではなく後者の意見を尊重するかもしれない。
 あるいは場合によって、前者の私の意見のようになることもあれば、後者のように振る舞うこともあり得るだろう。

 私はあまり、ちょっと嫌だと思ったぐらいでは拒否したりやめたりしないので、初めて「少し嫌だと思っただけでやめる」という人の考え方を知ったとき、新鮮に感じたことを今でも覚えている。


通所が続かない人を多数見て思ったこと

 私は生活介護を受けに、多機能事業所に通っているのだが、利用者で障害や病気のある人たちの中には、些細なことで来なくなってしまったり、来ても半日で帰ってしまう人が、かなりの数いることに気づいた。

 理由は様々だが、半日しか体力が持たないとか、人と接すると精神のバランスが崩れてしまうからとか、嫌いな人がいるとか、そのようなことが多い。

 元々生活介護は、人にも寄るが、一時的に通う場所として利用する人も多いから、B型事業所やA型事業所にステップアップしたりするような、前向きな理由で卒業していく人もいる。
 そのため、人の入れ替りが激しい。

 なので来なくなった人の中には、前向きな理由で卒業したけど個人情報だから、詳細を私が知らない人もいたかもしれない。
 それも踏まえて話をするが、元々障害のある人同士の集まりなので、癖のある人が多いから、わかり合ったり理解し合うのが、結構難しい場合も多い。
 だから、人間関係の揉め事が多い。

 だが、それでも私が生活介護を受けている事業所は、スタッフもよくしてくれるし、雰囲気も良かった。
 なのに来なくなる人が続出している。

 なにか理由があるんだと思うが、それを察するのに時間がかかった。
 最近やっとわかってきた。
 我慢ができない人が多いのが原因だと。
 通所が続いている意思の疎通ができる人は、寛容で穏やかである人が多いのも特徴だった。


「仕方ないよね、障害だもん」という当事者

 人間できることとできないことがある。
 障害は治らないから障害と診断名が下る。
 それは百も承知だが、そして私自身が当事者でもあるから、気持ちはわかる。

 例話として、副題のように「仕方ないよね、障害だもん」と言い、自分は無理をしないと言っていた生活介護の利用者がいたことについてだ。
 努力ややる気次第で、どうにかなりそうなことに対してまで、その人はそのスタンスだったので、私は疑問を感じた。
 その人の「無理」の定義は、私とは違うのだと、はっきりわかった。

 くやしくないのかと喉元まで出かかった。
 世間の健常者はいろいろなことをやり遂げているし、何ならパラリンピックなど見てみれば障害のある人だって、輝かしい実績を残している。

 障害のある人だって努力次第で能力は伸ばせるのに、その人は最初から「無理はしない」のスタンスでいた。
 そして、こうも言われた。
 「同じ障害を持っているから、私たち同じだね」と。

 そうなんだろうか。少なくとも「無理」の定義だけは違うなと、私は思った。
 そもそも「無理しない」という、昨今の世間に蔓延している流行りの思想は、努力しなくていいという意味ではない。

 その人のできないことは本当に障害のせいなんだろうか。障害を言い訳に問題から目を反らし、解決策を自ら潰しているんではないだろうか。
 もったいないなと思った。
 根性論めいた主張を押し付けたくなかったので、私は考えを胸中に留めることにした。


「無理」の定義の違いは大きい 

 些細なことでやめてしまうと、まず評価には繋がらない。達成感や自信も湧かない。
 まず実績を作るには、始めること。次に、続けることが大切だと思う。

 体を壊しては元も子もないので無論、私のいう「無理」は越えてはならないデッドラインだが、まずはやってみなければわからないこともたくさんある。
 ちなみに私はパワハラや過労で身を持ち崩し、回復に十年ほどを要したが、それでも私はそう思うのだ。
 場合によりけりではある、という前提に基づいている話だ。

 経験を積む機会を逃してはいないか、というのも、行動を始める判断基準の一つにならないだろうか。
 真面目に考えてみたが、なると思う。
 「無理」かどうかをよく考えてから行動しようと、私は思っている。

 ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
 また良かったら次回もお会いしましょう。

 

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