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ファンで居続けるという事

「推し」はいますか

「推し活」や「推しの子」がブームになる何十年も前
私には今でいう「推しがいた」

そして正確に言えば現在も「推し」である。
もうみんなでは活動していないけれど。

「推し活」とはファン自身も活動している事になるんだろうか。
そうだとしたら私は「推し活」にはあてはまらない。


暗黒の時代を支える神アイテム

私の「推し」を言葉で例えるならこうかな。
でも、一言ではとても表すことは出来ない。

中学生の時、いつも下を向いて歩いていた。
毎日がつまらなかった。
田舎の学校には気の合う人は少ない。
別に友達がいなかったわけではない。
でも授業も楽しくないし、先生という存在も基本的に嫌いだった。(例外はもちろんいる)
見ず知らずの生徒に身体のコンプレックスを揶揄され、馬鹿にされたことも沢山あった。
あぁ、なんてくだらない人達なんだこいつらは。と
思いながら、不登校になるまでには至らない。
部活は好きだったし、学校に行かないという選択肢をあまり選ぼうという気にならない。
今思えばもったいないけど、早く時間が過ぎて欲しいと思っていた。
ここから早く抜け出したいと思っていた。

何より、自分はつまらない人間なのでは?という疑問ばかりがついていた。
だって人と話したい事がない。
だから話題もないし、会話というものが苦手だった。
この人と何を話そう?そればかり考えて空回り。
いい大人になった今も苦手意識は消えない。

そんな時、彗星の如く現れたのが私の「推し」だ。

ツナギ姿でマイクを持って早口の言葉を歌うグループ。
「ミュージックステーション」で初めて歌を聴いた。

ミレニアムで多様な音楽が流行する時代。
テレビとドラマと音楽に傾倒し、現実よりも信頼していた私は衝撃を受けた。

こんなに明るい音楽があるのか、と。
何を言ってるのかよくわからないけど、何かいい。
最初はそこから始まり、次の大ヒット曲で私の人生の伴侶となる事が決定した。

当時のCDもMD(ミニディスク)も何度聴いたかわからない。
とにかく毎日、イヤフォンで音楽を聴く日々。

高校生になってもその生活は続く。
登下校で音楽を聴く「ミュージック・タイム」が何よりも楽しみだった。
当時はCDのフラゲ日にTSUTAYAに買いに行き、家に帰って歌詞を見ながら始めの1曲目から聴く。
アルバムの順番には意味があるからだ。

登下校で聴いて、お気に入りの曲は歌詞カードを見返す。
その内、歌詞をみなくても全部歌えるようになっていた。
そういう楽しみ方をして、現実を生きていた。

「Today」という曲がある。
中学~高校の暗黒期に特に聴いていた歌だ。
シングルのカップリング曲なのであまり知られてはいないが
私はこの曲が好きで支えられていた。

毎日つまらないけど、明日こそは生まれ変わるのを期待すると同時にそのままでいいじゃんと受け止められる歌だった。

思春期の時期に関わる物や人の影響は本当に大きい。
学校で楽しい学生生活を送れたら何もいう事はないのだけれど
別にそうじゃなくてもいいのだ。
生きている事、毎日に少し楽しい事や希望が持てれば
何とか毎日やり過ごす事が出来る。

田舎の学生が聴く都会の音楽の世界は広く感じた。
ここではないどこかにはもっと違う広い世界があるんだ。

でも別世界に生きる人の音楽は、私の事を歌っているみたいだ。
とてつもない希望になっていたのだと思う。
この経験があるから、私は「推し」を嫌いになる事はない。
だって、きっと、救われていた。

ライブがあれば、一人でも見に行った。
音楽フェスがあれば一番大きいステージで観客を沸かす推し目当てに駆けつける。
HPのファンクラブにも何年も加入していた。

人間のタイプでいえば、私は陰で、「推し」は陽だ。
でも音楽はすべてを薙ぎ払い、その世界に連れてってくれる。
音楽にほれ込み、憧れ、楽しみ。
私はファンであり続けた。

月日は経って、相変わらず社会人になっても曲は聴いていたしライブにも行っていた。

活動休止は「推し活休止」であるのか

そんな時、突然「活動休止」の報道を目にした。
正直、あまり驚きは無かった。
でも、もしかしたらこれはマズイのではという思いがすこし頭をかすめた。

メンバーのスキャンダルで世間がざわつき
当該メンバーを抜かして活動を続けていた矢先だったからだ。

「活動休止」なのか「解散」なのかもわからなかった。
情報があるのは報道のみ。
公式サイトにもメンバーのSNSにも何も発表はない。
その内、ファンクラブが閉鎖するという文章が公式サイトに掲載された。

あぁ、これはもしかしたら・・・と恐れていた事態が現実味を帯びてくる。
ファンはとにかく「迷子」になった。
今どうなっていて、今後どうなるのかわからない。
今までのように定期的に彼らの新しい音楽を聴くのが難しくなった
という事だけはわかった。

でも、今まで活動中でも1年近くリリースの動きがない時などあったし
待つしかないのかもしれないと思った。

アーティストも一人の人間で、それぞれの生活があって
それぞれの人間関係がある。
何があったかはその当人にしかわからないし、感じ方もそれぞれなのだ。
私は、音楽が好き。
ライブのパフォーマンスが好き。
人間性を否定する資格は、ファンにも誰にも無い。
人は皆欠落した部分を持っているんだから。
欠落した自分を救ってくれた存在なのだから。

だからどうしようも出来ない。
でもモヤモヤはする。

モヤモヤが一層大きくなるとはその時の私は思っていなかった。

報道やネットニュースで語られる「推し」

ある日、メンバー間の不仲が取り沙汰される事態になった。
メンバーのSNS上の投稿が取り上げられ、大げさな見出しがついたネットニュースになる。

ネットニュースのコメント欄には好き放題に書かれていた。
今までその音楽を聴いた事もないような人が、勝手に人格否定を繰り返していた。
SNS、他のメディアの投稿にも「想像力豊かな人」がたくさんいた。

「このアーティスト知らないけど、こんな感じでしょどうせ」みたいなお気持ち表明。

やめればいいのに、気になって検索の毎日だ。
中にはファンが「悲しいです」とか「失望しました」とか書いている投稿もあった。

私は、気持ちの整理がつかないでいた。
見ず知らずの「お気持ち表明」が多数派のようになって世間の総評になっていく。
私達ファンは置き去りだ。

「物言わぬファン」であり、でも心から音楽のファンだ。
そんな人の気持ちなんてどうでもいいですか。
そりゃあ、どうでもいいよね。

例えば、スキャンダルでも活動していれば支えると表明する事は出来る。
CDを買うなり、ライブに行けばいい。

でもそれも出来ない。
だからといってメンバーのSNSに何かを言うのも憚られる。
何もわからないのに、一体何を言うんだ。

でも私なりに今までファンを続けてきて信じたい気持ちがあった。

だって昔ラジオを聴いていた時はあんな感じだったじゃない。
アーティストブックではこう語っていた。
音楽雑誌でもこんな風に言っていた。

関係性は目まぐるしく変わる。
それでも、人って、人間性って変わらない。

現実の「推し」を何も知らないファンのくせに誰よりも
その「人間性」を信じていた。
それは人がやってしまった事やその事実の部分ではない。

長年見て来たからこそ感じ取れる部分。
だから間違っているかもしれない。

でも私は、今までの「推し活」の実績経験で感じた事を信じるしかなかった。
そして、それが私にとっての真実だったのだ。

「思い」は人それぞれだ。
私はずっと音楽を楽しませてくれた「推し」が
真剣に活動してくれていたと思っている。
それは音楽が証明してくれている。

それぞれの「思い」は重さも、考え方もその時々で違ったりする。
だからすれ違う。

みんな不完全だ。
だから、言葉ひとつで傷ついたり思い込んだり
でもその言葉の真意を聞くのは家族だって難しい。

いつだってボタンを掛け違える事は出来る。
でも一度掛け違えたボタンを直す事は中々難しいのだ。

掛け違えたことにすら気づかない事だってある。

そう思いながらも、しばらく「推し」の音楽を聴けなくなってしまった。

ポジティブな事はネットニュースにならないのか

騒動からしばらくたった頃、SNSである写真を見た。

仲違いしていたとされるメンバー同士が穏やかに写る写真。

これはそれぞれのメンバーがアップした紛れもない事実だ。

その投稿には今までの経緯や、ボタンの掛け違いがあった事が書かれていた。

やっぱりそうじゃん。そうだと思ったんだよ。
一人で納得して、私は泣いた。
何の涙かわからない。
色々な感情が渦巻いていた。

こんなに嬉しい事はなかった。
メンバー同士が絶対仲良しな方がいいとかそういう夢を見ていたわけではない。(仲良い方がいいですよそりゃあ)
ただの仕事仲間で、ビジネスライクでもいい。
でも、炎上したような関係性には全然見えなかったから。

お互いをリスペクトして活動していると思っていたから。

人は度々すれ違う。
「そんなつもりじゃなかった」の積み重ねの日々だ。
だから、ボタンを掛け違えても再び理解し合う事は
かなり難しい。
「そんなつもりじゃなかった」の修正にはそれ相応の労力を伴う。
労力を費やす気力や、相手への気持ちが無ければ簡単に諦めてしまう。
その方が楽だから。

修正したい気持ちと理解し合いたい気持ちとリスペクトがあった。
だからあの写真が撮れたし、私が目にすることが出来た。

その事実に救われた。

「和解」と言ってもいい写真はヤフートピックで「目立つように」掲載はされなかった。

もちろん記事になってはいるし、ファンは喜んだ。

では、仲違いが疑われた時、意気揚々とネットにコメントしていた人達は
和解のニュースを見ただろうか。
見たとしたら、自分の書いたコメントを振り返ったりしただろうか。

「何とも思わない」だろうな。
ネガティブなニュースならば、当事者の曲を一曲も聴いた事がなくても食いつき、貪り、飽きたらポイだ。
ただただ、消費するために通り過ぎただけ。

匿名の炎上騒動は繰り返し起きているけれど
自分の「推し」が巻き込まれた事でその醜悪さを深く知った。

形は変わっても

「推し」の活動形態は変わった。

それぞれが活動している事は知っている。

私自身も生活スタイルが大きく変わったし、マインドも変わった。
以前のように活動を追いかける事はなくなった。

それでも私は「ファン」である事に変わりはない。

かつて活動中止したバンドやグループが、時を経て再結成する事がある。
そんな奇跡みたいな出来事が起こったファンは幸せだと思う。

何より幸せなのは、「推し」が、ずっと活動を続けてくれる事だ。
解散や活動休止にならないのは、ものすごい努力と相性とリスペクトと相互理解があるのだと思う。

そしてもし、自分の「推し」がかつてのメンバー全員で再結成するという事になったらどうだろう。

おばあさんになってもライブに駆けつけたい。

クラップして腕を振り、コール&レスポンスしたいと思う。

そんな淡い期待を胸に今日もファンで居続ける。

曲はたまに聴けるようになった。








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