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ニューヨークの医師である友達が新型コロナに感染して思うこと

昔からの友人の一人がアメリカのニューヨークで医師として働いている。日本で医師資格を取ったのち、こつこつと勉強をして、アメリカの医師資格も取り、渡米。現在はニューヨーク市内の病院で勤めている。

言葉の壁だってあるだろう。競争の激しく、よりストレートな文化の中では緊張感も苦労もあるだろう。その中でも意思と努力によってキャリアを切り拓いてきた。しっかりとした意思の下で前に進んでいける、頼もしい友人の一人である。

そんな友人が新型コロナに感染した

語弊を恐れずに言うと、驚きは、ない

ニューヨーク州はアメリカにおける新型コロナが最も強烈に猛威を振るっている場所である。現地4月9日時点で感染者数は約15万人人口1,000人当たりの感染者数は約7人人口が特に集中しているニューヨークシティに限って言えばこの倍以上と、全米で最も高い水準になっている(出典:アメリカ室病予防管理センター)。

世界的に有名な公園であるセントラルパークにはテントが建てられ、臨時の野戦病院と化している。また、アイススケートリンクは新型コロナで死亡した患者の安置所となっている。まさに戦時である。

こんな状況なのだから、当然、ニューヨークにある病院は大変な状況となる。百聞は一見にしかず。以下の動画をご覧頂きたい(日本語字幕付き)。

僕の友人はこのような環境の最前線で、日夜闘っていた。自分を新型コロナから守るために呼吸のしづらいマスクをつけてガウンも着て勤務するのでかなり疲労するらしい。モニターなどが足らないので、医師が自ら、酸素化が著しく悪化した不安定な数十人の患者を診ていたそうだ。

彼の身近な医療従事者も新型コロナに感染して亡くなった事例があったという。当然、自分自身も新型コロナに感染するリスクは百も承知であったはず。それでもなお、新型コロナの感染者を一人でも救うため、そして、新型コロナ以外の病気を抱える人が一人でもきちんと医療を受けられるように、医師として最前線で闘い続けてきたのだ。

そんな彼が、ある日、インドカレーを食べているときに全く味がしなくなったとのこと。激辛で有名なラーメン中本のカップラーメンもむせずに食べられるらしい。新型コロナの特徴的な症状の一つに、味やにおいが感じられなくなるというものがあるが、まさにそれが出てきたわけだ。その後、全身の痛み、発熱、悪寒、咳などの症状も出ている模様である。

ということで、彼は自身が新型コロナに感染したことで、病院でたくさんの新型コロナの患者を救う現場からの離脱を余儀なくされた。症状が深刻化する場合、発症から約一週間で変化が見られるケースが多いということで、まずは一週間の自宅療養をして様子を見るとのこと。スムーズの回復を心から祈るしかない。

さて、心の99%は友人の回復を祈っているのだが、残りの1%でこの事態をどのように捉えるべきか考えてみたい。

僕の友人は医師で、無数の新型コロナの患者の対応に当たっている中で、自身も新型コロナに感染したこの感染は「不可避」であったことに異論はないのではないか

だが、その病院にいて、僕の友人の治療を受けていて、結果的に僕の友人を新型コロナに感染させた患者はどうだっただろうか。また、その患者を新型コロナに感染させた人はどうだっただろうか

僕は友人と違って医師ではない。新型コロナに限らず医療的な知識はない。でも、それでも新型コロナの感染力が強いことくらいは分かる。気を付けていても感染することはある。「不可避」な感染はあるのだ

医師や看護師などの医療関係者の仕事に感染のリスクがあることは最も分かりやすいだろう。しかし、それだけではない。例えば、スーパーや薬局などの小売店の店員、物流を動かす人たち、電気・水・ガス・通信などのインフラに関わる人々、これらの仕事につく人たちの子どもたちを預かる保育所の人々など、挙げはじめるとキリがない。

これらの仕事についている人たちは、このような状況においても、感染のリスクを背負って仕事をしないといけないのだ。してくれないと、社会が回らなくなる。他の人たちが家にいられなくなる。Essential Worker(必要不可欠な仕事に就く人々)と呼ばれる所以である。

こうしたEssential Workerが仕事をする過程で、合理的な範囲での対策を講じていたにも関わらず、発生する感染は「不可避」である

また、これらの仕事に就いていない人でも、生活の中で「不可避」な感染をすることはある食料や日用品の買い物に行くとき、必要最低限の運動をするとき、など、手洗いうがい、マスクの着用などの対策を講じることで感染の可能性を低減することはできるだろうが、完全に排除することはできないだろう。こうした状況における感染もまた「不可避」である。

今、社会として必要とされているのは「不可避ではない」新型コロナの感染を限りなくゼロにすることだと思う

これはどこまでいっても主観なので公が線を引かない限り議論は尽きないのだろうが、僕の感覚で言わせてもらうと、繁華街で食事をしている際に感染するのは明らかに「不可避ではない」。外出禁止だから家で友達とご飯を食べた際に感染するのも「不可避ではない」。大事な会議があるからといって出社をした際に感染するのも「不可避ではない」。楽しみにしていた学校のイベントに参加した際に感染するのも、残念極まりないが、「不可避ではない」。

こうした「不可避ではない」感染が、「不可避」な感染を増やす

自分が「不可避ではない」感染をして、病院に担ぎこまれ、息が苦しくてたまらなくなる。そこには(今はまだ)助けてくれている僕の友人のような医師が、看護師がいてくれるこのような人々を自分が原因で新型コロナに感染させた場合、果たしてどんな顔をしたらいいのか。言い逃れなどできるだろうか。

こうした「不可避ではない」感染が増える結果として、多くの命が失われるだけでなく、活動制限が必要となる期間が延びることで経済の落ち込みも一層深刻化するという感覚がある

早く対応すると、痛みを感じ始めるのは早いが、結果として痛みの総量は減らせる。感染者数・死者数という痛みだけでなく、経済的な痛みも含む。

今、一人一人が出来ることは全部やらないといけないのだ。この世界的な苦境をみんなで乗り越えたい。

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