楽しむ為に必要なこと

楽しいことでも毎日続いたら、それと気付かずに退屈と変わらないし、受け身でいると面白さが半減するという話。楽しむことはある種の暴力である。

今回は個人レベルの話なので、若干不誠実なことを言うが、物事を楽しむために、それそのものをしっかり理解する必要は無い。何故なら、自分が楽しいと思うことと、その対象物が持っている魅力は別ものだからだ。

例えば、この車はエンジンがこれで、デザインがああで、走りが最高なんですよ、という評価は、好きな子とドライブに行った思い出の車に勝つことはできない。緻密なイラストや、綿密なトリックは、心動かされたモブの一言のセリフに勝つ事は出来ない。人が何かを好きになるというのは、とてつもないエゴだ。客観的に面白くも無いものを面白がり、製作者が楽しいと思っていないものを楽しむ可能性は十分以上にある。確かにそれは批評や、評価としては不誠実だろう、しかし、それは個人の楽しみの中であれば不誠実では無い。
地獄の存在によって救われる人だって世の中には居ても良い。

世の中で、自分が何かを楽しむ事に対して否定的な人は、主にここの使い分けができていない。物事は正しく評価すべきだし、客観的によろしくないものは楽しむべきではないという自制が働き、うまく感情を扱い切れていないというのは、さぞやモヤモヤすることだろう。
もちろん、それを外に出して良いかというと別の話ではある。人の不幸を人の前で笑ってはいけないし、エログロ趣味を子供に見える様な形で出すのは倫理的にアウトだ。創作物に対して、製作者が褒められても嬉しく無い部分を褒め称えても、おそらく苦笑いのありがとうしか出ないだろう。
しかし、だからといって、そんな自分を恥じる必要は無いし、そう感じる心を封印するというのは自分に対して、不誠実極まりないと私は考える。

大切なのは分別である。分別が無い為に、人生の中で怒られっぱなしの人間が言うのだから間違いない。ダイバーシティという言葉は、様々な価値観を許容するが、その許容したものを全て出しても良いという意味では無い。この世に有っても良いが、人前でわざわざ出されても困るというものは一定数あるのだ。詰まるところ、分別さえあれば、人間は何を面白がっても良い。良いことをする事に喜びを覚えても良いし、悪魔の様な悦びを噛み締めて味わう趣味であっても決して罪ではない。
残念な事に、そのバランス感覚が欠如している人間としては、周りの反応を見て、痛みとともにしか学べていない。今後もきっと、ちょっとづつアウトを踏みながら、ちょっとづつ改善しつつ生きていくのだろう。人生は学びの日々である。

話を冒頭に戻す。
上記の通り、世の中に発表するのでは無く、個人が「何かを楽しむ」という行為は、時間や社会にとらわれず、幸福で、自分勝手で、「自由」である必要がある(孤独のグルメは良いことを言っている)わけだが、その時に必要になるのが、能動的であるということだ。
物の性質を知らなければ、相手の特徴を捉えなければ、話の構造を理解しなければ、自分の好みの部分があるか、好きになれそうかはわからない。
好きだと思えそうな部分を見つけたら、好きになろうとし、好きであろうとしなければ、自分にとっての面白みとして、楽しみ続けることは出来ない。
何もしなくても好きでい続けられるなら、それはもう愛など別の言葉だろう。

世の中の物事を正しく分解し続けると、人生は楽しいことばかりでは無いだろう。その中で、自分の楽しみを見つけていくには、自分のエゴを理解して、育て、分別をつけて社会と折り合いをつけていく他ない。
何もしなくても自然と湧いてくる「楽しい」というものは残念ながら、あまり多くは無い。見える範囲に何かキラリと光るものがあったなら、自ら拾いに行くことで「楽しい」の幅は広がるかもしれない。


#エッセイ #人生の楽しみかた #エゴ #分別 #趣味  

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