ネットロアから学ぶ「誠実さ」・前編

今回は、何かしらの物を語る上で、それ自体にどう接すると誠実かというお話。
長いので分けます。

人の集まるところには、信仰と噂が生まれる。前者は神やアマビエなど、後者は鬼など怪生の類、近年ならば七不思議、都市伝説、チェーンメールなどがそうだろう。都市伝説は生活の裏に潜んでいる恐怖を、物語として伝聞、共有することで、世に広く楽しまれて来た。
そんな歴史ある人間の悪趣味の中でも、90年台から2000年代のネット、特に2ちゃんねるや草の根BBS等という匿名が高い掲示板文化は今思い返しても異質である。書き込んだ人間のリアルを、ほんの少しだけ感じるやりとりは、駅の掲示板とも、Twitterの様な全員コテハンの大きなテキストの波とも空気が違った、特有のリアルを築いていた。これが今となっては物凄く学びになっていると気付いた。

信仰にしろ噂にしろ、姿の見えない物に関する話を信用してもらい、受け入れてもらう為には、3つのファクターがある。文体等の表現力、情報の密度、そして「場」だ。
前者二つは絡み合っており、端的に言うと話そのもののリアリティを指す。話の内容と、文章力に乖離があると信憑性が薄まるし、逆にカチッとハマれば、どれだけ幼稚で支離滅裂な文章でも信用に値する。
「場」は少し特殊な概念で、同じ思想の偏りを共有している場の理解度であり、そのグループの人々が信じたい物への理解度を指す。つまり、同じノリで笑い、同じノリで怖がり「コイツは話が通じる奴だ」と思わせる事が場の掌握である。百物語をやる際に、人の怪談を聞いて「そんな事はありえない」等と言う奴は、場を読み間違っている。

ディオゲネスクラブという物がある。
あるというと語弊があるが、シャーロック・ホームズの一連の物語の中にチラっと存在が出てくる会員制の倶楽部である。どの様な集まりかというと、人と話したくは無いが人と集まりたい、直接やり取りしたくは無いが情報の共有はしたいという、わがままな男たちの総ロム専のような集いである。
この「場」の場合、人と話さずに居ることが「分かっている」に当たるわけだ。ルールとしてもわかりやすく、声を出すと退会処分となる。
「分かっていない」事はそのまま、そのグループ内で罪にあたるわけだ。

ネットの掲示板の場合、Twitterなどの雑多なものと比べ、板やスレッドごとに信じられている物、信じたい物があり、それを理解する事が比較的簡単であった。話題が限られると、世界が良い意味で狭くなる。そこでは自分の好きな物を共有する事そのものがメインであり、自分の思い付いた上手い事や、言いたい事を優先するのではなく、ディオゲネスクラブ同様、ルールの中で面白く遊ぶ、悪く言えば同調圧力にも近い、男の隠れ家的な構造であった。
そして、その空気があるからこそ、掲示板発祥のネットロアは、対象物を語る際に、話はこねくり回しても対象物そのものにはリスペクトを忘れていなかった。あくまで、呪いや祟り、または超常的な加護といった、人間の手には負えない物を、畏怖する事そのものは忘れていなかったということが、誠実であったと私は考えている。自分の考えた最高の話では無く、皆が納得する話をメインにする。その最低限のルールが守られる事で、どれだけ荒唐無稽で、突飛なストーリーであっても、出来が良ければ受け入れられていた。

後半はまた後日。

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