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高良大社〜福岡県久留米市

高良(こうら)大社



【所在地】

福岡県久留米市


【御祭神】

[正殿]

高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)

*武内宿禰(たけのうちのすくね)

神使:烏(からす)


[左殿]

八幡大神(はちまんおおかみ)

*第15代・応神(おうじん)天皇

神使:鳩


[右殿]

住吉大神(すみよしおおかみ)

神使:鶴


[合祀]

豊比咩大神(とよひめおおかみ)

中門の中に本殿がある
本殿
筑後川を一望できる
展望台からの風景



【由緒と歴史】

高良大社は、筑後国一の宮。
古くは、高良玉垂神社と呼ばれていた。
高良玉垂命、八幡大神、住吉大神の三座を高良三所大神と呼ぶ。
高良大社は標高312メートルの耳納(みのう)連山の最西端にあり、筑後川を眺めることができる。
高良大社のある高良山は、古くは、高牟礼(たかむれ)山、不濡(ふぬれ)山と呼ばれ、神宿る山として崇められてきた。
社伝によると、元々、高良山には、*高牟礼の神が住んでいた。
そこへ、高良の神がやってきて、一夜の宿を借りたところ、結界を張って、そのまま住むようになってしまった。
高牟礼の神は、山上に戻ることができなくなり、山麓にある高樹(たかぎ)神社に鎮座した。
鎮座は、367年(仁徳天皇55年)、または390年(仁徳天皇78年)。
創建は、400年(履中元年)。
82年、第12代・景行天皇は、九州*行幸(ぎょうこう)の際、*行宮(あんぐう)を作り、*国見(くにみ)を行ったといわれている。
200年、神功皇后、第14代・仲哀天皇と共に筑紫に行幸し、高良山に滞在。
三韓征伐〔新羅遠征〕の際、神功皇后は高良玉垂命から加護を受ける。
1268年、蒙古襲来の時、*夷狄調伏(いてきちょうふく)の祈祷が行われた。

*高牟礼の神:高皇産霊神(たかみむすびのかみ)

*行幸:天皇が各地へ出かけること。

*行宮:天皇が行幸した際の仮の御殿。

*国見:王が山などの高所に登り、執り行う予祝行事。

*夷狄調伏:武力を使わず、呪術を使い追い払うこと。

樹齢400年の御神木



【武内宿禰】

武内宿禰は、第12代・景行天皇〜代16代・仁徳天皇の5代の天皇に仕えた。
360歳まで生きたとされている。
133年、第13代・成務天皇は、同日生まれで幼少期から慣れ親しんでいた、武内宿禰を大臣(おおみな)に任命。
武内宿禰は初の大臣であり、日本で初めて行政区分制度を定めた人。
千、百を単位にして、国・県(あがた)・郡(こおり)・邑(むら)に分け、国造(くにのみやつこ)・県主(あがたのぬし)・稲置(いなぎ)を置いたとされる。
神功皇后の活躍は武内宿禰なしには語れない。
神功皇后が行う神事のサポート、ため池の築造など、国家の為に尽くし、多くの功績を残した。


【高良玉垂命の鎮座地探し】

高良玉垂宮神秘書〔高良記〕に次のような話が記されている。

高良玉垂命は、鎮座地を探して、筑後地方のあちこちを回っていた。
*大川の港から上陸し、*瀬高のイチガウラという村に辿り着いた。
遥か北の方角を眺めると、遠くの丘の上に敵らしき人影がたくさん見えた。
高良玉垂命は、これから自分が進んで行こうとするのを、邪魔しようとしているのではないかと驚いた。
見張のカラスを飛ばして調べさせた。
カラスは丘に飛んで行き、その人物をくちばしでつついてみた。
するとそれは、人ではなく、*石の人形だった。
戻ってきたカラスは「あれは敵ではなく、人形です」と告げた、
高良玉垂命は、安心して北へ向かい、*八女丘陵を越えて久留米の高良山に着き、この地を鎮座地に決めた。

広川町教育委員会
『石人山古墳』
P6 武装石人と人形原 


*大川:福岡県大川市

*瀬高:福岡県山門郡瀬高町

*石の人形:福岡県の八女古墳群、岩戸山古墳や石人山古墳にある武装石人。 
詳しくはこちら⇩


*八女:福岡県八女市と八女郡広川町



【高良大社は軍事的拠点】

神功皇后がこの地に布陣したともいわれている。
528年、*磐井(いわい)の乱の最終決戦は、高良山付近で行われた。
南北朝時代、懐良親王(かねよししんのう)は、高良山を拠点としていた。
戦国時代、大友氏や豊臣秀吉などが高良山に布陣した。
古代から軍事的拠点ということに着目すると、高良山は、邪馬台国北部九州説の候補地。
高良大社と邪馬台国北部九州説について、次の本に詳しく書いてある。

高良大社は、邪馬台国論争解決の切り札ではなかろうか。なにしろ高良山は、邪馬台国北部九州説の最有力候補地・山門(やまと)に接している。しかも高良山は、北部九州のヘソであり、天下の要衝、軍事の要なのである。魏志倭人伝には、邪馬台国は戦乱の時代だったと記されているのに、なぜこれまで、「戦略からみた邪馬台国論争」が巻き起こらなかったのだろう。高良大社の展望台に立てば、筑紫平野と筑後川を手に取るように見ることができる。だから、北部九州を支配するためには、ここしかないという立地であることが、実感できるはずなのだ。そして、邪馬台国北部九州説が、筑後川下流域から山門にかけてと考えられていることの重要性が、再確認される。邪馬台国が山門なら、この高良山に、難攻不落の軍事拠点を造ったに違いないのである。高良山は耳納(みのう)山系の西のはずれに位置し、敵兵に囲まれても、兵站(へいたん)が切られる心配がない。それでいて、筑後川という交易のための大動脈、筑後平野という穀倉地帯を押さえることができる。

関 裕二
『神社仏閣に隠された古代史の謎』
(徳間出版、2008年、P200〜205)


*磐井の乱についてはこちら⇩



【神籠石】

高良山には、国指定史跡の神籠石(こうごいし)という珍しい遺跡がある。
1300個の謎の巨石が、高良大社の背後から山裾まで約1500mにわたって、山をめぐるように並べられている。
神籠石は、6世紀後半〜7世紀前半に築造されたといわれている。
しかし、誰が何のためにこの巨大な建造物を造ったのか、いまだに解明されていない。
神域との境界を示した結界のような役割だとか、敵の侵入を防ぐための城壁ではないかと考えられている。
また、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗した大和朝廷が、唐と新羅からの来襲を迎え撃つ拠点として作った*山城(さんじょう)とも考えられている。

*山城:日本では北部九州や瀬戸内海地方に多い。



【摂末社】

[市恵比須社]

祭神:恵比須

夫婦の恵比須神像が祀られている。
もとは筑後で最古の歴史を持つ府中(高良山麓)の市の神として祀られていた。
九州経済圏全体の守護神とされている御神体。


[印鑰社(いんにゃくしゃ)]

御祭神:武内宿禰

印鑰とは官府の長官の印と諸司・城門・蔵などの鍵。



[高良御子社]

祭神:高良玉垂命の御子神王子9柱を祀る。

斯礼賀志(しれかし)命
渕志命
坂本命
朝日豊盛(あさひとよさかり)命
谿上(たにがみ)命
安志奇(あしき)命
暮日豊盛(くれひとよさかり)命
那男美命
安楽応宝秘(あらおほび)命


[真根子社]

御祭神:壱岐真根子命(いきまねこのみこと)

壱岐真根子は、武内宿禰の甥。
母は、武内宿禰の妹。
父は、中臣烏賊津(なかとみのいかつ)。別名は雷大臣。
壱岐真根子は、武内宿禰の忠臣。
日本書紀によると、「武内宿禰の身代わりとなり大臣を助けた」と記されている。



【鳥居型イルミネーション】

大祭の前日・当日・翌日、お盆とお正月は1ヶ月ほど、夜になると高良大社の境内へと続く131段の石段の両側にある灯籠に灯がともされる。
この灯りは、高良山から少し離れた場所から見ると鳥居型に見える。
暖かな優しい光でとても美しい。
下の写真は神代(くましろ)橋から撮影した高良山。
山の真ん中に光っているのが高良大社。
写真では鳥居型には見えないが、肉眼では鳥居型に見える。

神代橋から見る高良山



【おわりに】

高良山は城の要塞のような山だ。
高良山の麓から登山して高良大社へ行くと、城の中へと入ったような気分になる。
展望台からは、空気が澄んでいる日には長崎県の雲仙普賢岳が見える。
しかし、黄砂やPM2.5の影響で、雲仙普賢岳が綺麗に見える日はごく稀だ。
樹齢400年の御神木の楠木が好きだ。
生命に満ち溢れており、いつ来てもこの楠木に癒される。
高良玉垂命の鎮座地探しで登場する神使のカラスは、鬼滅の刃を思い出す。


このブログの詳細は⏬

豊比咩大神、高良玉垂命が謎の神とされる理由、三体の御祭神が祀られる理由、高良玉垂命・豊姫・武内宿禰・彦火火出見尊に共通する干珠満珠伝説、神籠石、不思議な体験などについて書いています。

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