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【試し読み】認められない「病」を生きる人々を描く。『診断の社会学』

痛みや苦しみを患いながらも、医学的エビデンスを欠いているために医療者から「疾患」と診断してもらえない。あるいは診断を受けられても、他人から「病気」と認めてもらえない、そんな「論争中の病」とともに生きる人々を描く、『診断の社会学』(野島 那津子)を刊行しました。

本書は、3つの「論争中の病」(痙攣性発声障害、筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群、線維筋痛症)を取り上げ、50名弱の患者への聞き取り調査などから、当事者の方たちの困難や、「診断」というものが当事者に与える影響を明らかにします。

今回は、本書の問題意識やアプローチがわかりやすく説明されている「序章 患い・診断・論争」から一部抜粋したものをご紹介します。

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【序章】 患い・診断・論争

「笑わず、歎かず、呪詛もせず、ただ理解する。」
   ――スピノザ『国家論』(畠中尚志訳)

 今日の、あるいは将来の医療に対する人類の希望とは、どのようなものだろうか? この問いにはおそらく、回答者が置かれている立場によって、ばかげたものから真剣なものまで、幾通りもの答えが考えられるだろう。健康に自信のある者たちは、そもそも医療には関心がないかもしれない。ただ、それまで病気とは無縁であっても、今後病気にならないための予防法には興味があるかもしれない。自分がいつか病気になったときのために、先端医療がますます高度化することを期待しているかもしれない。あるいは、治療や健康維持といった目的を超えて人間の能力や性質を「改良」しようとするエンハンスメントや、不老不死の実現など、医療の進展に強い関心を示す者もいるかもしれない。もしくは、「自然」に逆らうような営為であるところの医療に対し、期待しすぎるのはよくないことと考えて、こうした問いそのものを不快に思う者もいるかもしれない。
 一部にはこのように予想されうる健康な者たちの回答に対して、いま何らかの病気を患っている者およびその家族の多くは、こう答えるのではないだろうか。自分たちが患っている病気の治療法が確立すること、すなわち「治癒」こそが、現在および未来の医療に対する希望であると――。もちろん、すべての病人やその家族がこうした希望を抱くわけではないだろう。しかし、現に多くの治療法があり、現にさまざまなテクノロジーが開発され、現にさまざまな病気の治療法の確立に向けた研究が行われているなかで、現在の、そして未来の医療に対して、「治癒」への期待や希望を一切抱かないでいることは難しいだろう。ましてや、患っているにもかかわらず、診断されにくく、治療法もなく、さらには「病気」の実在性に疑義が呈されている者たちにとっては、医療は「治癒」をもたらすものとしてだけでなく、彼らの生そのものをかたちづくるものとしても立ち現れ、希望されているかもしれない。
 本書は、こうした人びと、すなわち本書で「論争中の病」と呼ぶところの病を患う人びとが直面している困難を明るみに出し、彼らの医療に対する希望を理解するための一つの試みである。それは、彼らの困難を解決したり理解したりするための唯一の解を求めて行われるのではない。本書が行うのは、患いに名前を与えられず、また名前を与えられるだけでは必ずしも苦しみを緩和されない病を患う人びとが、この社会で直面する困難ならびに医療に対する希望を、私たちがどのようにして理解することができるかを考えるためのパースペクティヴを提示することにある。それによって、患いに病名が与えられることや、適切な社会的処遇を受けられるということが実際にはどういうことであるのか、また、病気や病者に対するこの社会のまなざしや扱いがいかなるものであるのかを捉えることにも寄与できると考える。
 以下では、本書の具体的な問題設定ならびに目的を述べ、本書の視座を提示したうえで、構成を明らかにしておこう。

 近年、社会学において、「論争中の病(contested illnesses)」あるいは「医学的に説明できない症状(medically unexplained symptoms)」と呼ばれる病を患う人びとの語りを用いた研究が蓄積されつつある。論争中の病をここで簡単に述べておくならば、それは、(生物)医学的に認められていない病のことを言う。具体的には、腰痛やストレスや軽い落ち込みなどの比較的曖昧な状態から、筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群、線維筋痛症、化学物質過敏症など比較的整理された概念で呼ばれるものがあり、いずれも生物医学的な病態や原因が不明であるとして、医学的には「疾患」ではなく「症候群」として扱われる傾向がある。多くの場合、病者の訴える症状以外に明白な「証拠」がないため、こうした病はつねに「論争を呼ぶ状態(contentious conditions)」にある。また、医学文献において、論争中の病を患う人びとは、頻繁に病院を訪れ、それゆえ医療財政を偪迫させ、医師が扱いにくい相手であるとして、しばしば「問題のある」患者集団だと記述される傾向にある(Nettleton et al. 2004)。
 こうした論争中の病は昔から存在していたし、研究されてはいたものの、病者の語りを用いた研究は、ここ二、三〇年のあいだでとみに蓄積されてきた(Conrad and Stults 2008; Nettleton 2006)。そうしたなかで提示されている重要なテーマの一つが「診断」である(Jutel 2009; 2011; Mik-Meyer and Obling 2012)。論争中の病は、(生物)医学的に説明されないため、患う人びとにとって、病名診断を受けることは困難を極める。実際に、痛みや感覚過敏だけで何らかの病名をもらうことは難しいし、上記の「整理された概念」を疾患として認めない医師は、精神疾患の病名を与えたり、診療拒否をしたりすることがまれではない。
 患っているにもかかわらず、その状態に対して適切な診断が下されなければ、病むこと――病人であろうとすること――をしばしば容易には許されない私たちの社会において、診断はきわめて重要な出来事でありプロセスである(Jutel 2009)。したがって、論争中の病を患う人びとの語りを用いた研究は、症状ゆえの困難もさることながら、診断をめぐるさまざまな問題を、病者の視点から記述することに注力してきた。しかし、日本では論争中の病を患う人びとの語りに照準した研究がほとんど存在しないため、この国ないし社会において彼らがどのような困難を抱えているか、また、診断をめぐる問題とは何であるか、その実態が十分に明らかにされているとは言えない。また、先行する欧米の研究においては、論争中の病を患う人びとの困難を描き出すこと、すなわち「病い」(詳細は次頁以降を参照)の語りを分析することに傾注する一方で、一部の文献を除いては、病気や病人をめぐる既存の社会学的議論との関連を検討しようという関心は、比較的希薄であるように思われる。さらに言えば、論争中の病は、第2章で述べる「診断の社会学」の分析視角で言うところの、診断の「帰結」というディメンション(次元・側面)に着目したものが多いが、診断以前や診断直後だけでなく、診断から時間を経た後の病名の影響や、当事者自身においてだけでなく他者とのあいだに生じる病名診断の影響について、つまり、診断の影響の時間的・対他的変動に関しては、十分に検討されているとは言い難い。
 論争中の病に関するこうした研究状況に対して、本書は、論争中の病の病名診断が当事者に与える影響を、病気や病人をめぐる既存の社会学的議論や時間的・対他的変動も考慮しながら分析することで、論争中の病を患う人びとの困難および診断の経験を、より多角的に描き出すことを目指すものである。

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【主要目次】
序章 患い・診断・論争
第1章 「論争中の病」をめぐる問題
第2章 診断を社会学的に研究するということ
第3章 「病名がないより病名をもらえた方が嬉しい」
――「痙攣性発声障害」の当事者の困難と診断
第4章 「何もできることはないけど愚痴なら聞きに来ます」
――「筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群」の当事者の困難と診断
第5章 「そんな病気はありません」
――「筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群」および「線維筋痛症」の当事者の   困難と診断
第6章 「論争中の病」と診断
終章 「論争」からシティズンシップへ

【著者略歴】
野島 那津子(のじま・なつこ)
大阪大学大学院人間科学研究科助教。京都府立大学、京都府立医科大学非常勤講師。大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(人間科学)。日本学術振興会特別研究員(PD)を経て、2018年より現職。著作に、「人はなぜ病者の物語に感動するのか」(山中浩司・石蔵文信編『シリーズ人間科学5 病む』大阪大学出版会、2020年)、主な論文に、「「探求の語り」再考――病気を「受け入れていない」線維筋痛症患者の語りを通して」『社会学評論』(第69巻第1号、2018年)等がある。

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