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【試し読み】『グローバルインフレーションの深層』

「大いなる過熱」の後に何が起きるか――
コロナを機に世界を襲った高インフレと超円安。同時に財政インフレリスクも忍び寄るなか、局面打開に何が必要なのでしょうか。
『グローバルインフレーションの深層』では、前作『成長の臨界』に続き、著名エコノミスト、河野龍太郎氏が理論・歴史・政治・国際的視点から
金融経済の行方を読み解きます。

☟『成長の臨界』試し読みはこちらから

このnoteでは、本書の「はじめに」を特別に公開いたします。ぜひご一読ください。

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はじめに


「しつこく高いインフレは、いつでもどこでも財政的現象。中央銀行はその
共犯者だ。(“Persistent high inflation is always and everywhere a fiscal
phenomenon, in which the central bank is a monetary accomplice.”(1))」
                        トマス・サージェント

専門家こそが間違うというのが欧米の教訓

 2020年にパンデミック危機が世界を襲った。その後、2021年には、グローバルインフレーションが到来した。ゼロインフレが続いていた日本でも3-4%まで物価上昇率が高まっている。
 欧米では、2023年までの2年間で、グローバルインフレの原因究明がかなり進んだ。すべてが解明されたとは到底言えないが、現在もその分析に多大な労力が投入されているのは、物価の番人たる中央銀行が物価のコントロールにことごとく失敗したからにほかならない。
 日本では、海外からの情報が限られていることもあり、グローバルインフレの原因として、世界的なサプライチェーン(生産網)の寸断や、労働供給の減少、ウクライナ戦争による資源高の影響など、供給制約にばかり注目が集まった。
 だが、欧米の研究が示すのは、経済再開によるペントアップ需要(繰越し需要)に、先進各国の大規模な財政政策が加わり、おまけに金融引締めが遅れたということだ。一言でいえば、パンデミック危機対応の財政政策が過大だったということであり、需要ショックが原因である。
 興味深いのは、政府が大規模な財政政策を行う一方で、各国の中央銀行が同じような失敗を犯したことだ。分析を行うと、それがシステマティックなエラー(構造的な共通の原因を持つ失敗)であることが見えてくる。もし、そうした仮説が正しいのなら、欧米の金融政策の失敗をよほど注意深く学ばなければ、日銀も同様の失敗を犯す恐れがあるということだ。
 そんな考えから、筆者は、日頃の日本の金融経済のトレンド分析の仕事に加えて、パンデミック危機以降の欧米の財政金融政策について、改めて詳細に分析したのだが、欧米の文献を読み進める過程で、ある論文に釘づけになった、論文の著者は、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスのリカルド・ライス教授で、内容は第2章で詳しく紹介するが、そこでは歴史的に大きな物価変動が生じた際、中央銀行や民間エコノミストなど専門家ほど先行きを見誤ってきたことが論じられていた。
 通常、中央銀行や民間エコノミストは、専門知識や経済モデルを使って、家計より正確に物価の先行きを見通すことができる。物価に一時的なショックが訪れても、人々の物価感(インフレ期待)が簡単に変わらないこともよく知っている。
 しかし、専門家ほど間違ったという例外が過去に3度あったという。まず1960年代末に始まった「大インフレ時代(グレートインフレーション)」、次に1980年代半ばに始まったインフレの安定期を意味する「大いなる安定(グレートモデレーション)」、そして三つ目が今回のパンデミック危機をきっかけに始まったグローバルインフレーションだ。過去のデータに囚われ、かつ人々のインフレ期待も安定していると考える私たち専門家ほど、大きな変化が訪れた際、物価見通しを見誤るのだ。
 2021年に高いインフレが観測され始めた際、欧米の中央銀行は、それは一時的だと繰り返し、同時に、金融引締めを急ぐ必要がない理由を敢えて並べ立てていた。一方で、家計へのアンケート調査結果を、後になって丁寧に分析してみると、欧米では早い段階から、高インフレが続くと予想し始める家計の割合が徐々に増えていた。統計の分布に歪みが発生していたが、専門家は平均値や中央値が落ち着いていることから、こうしたデータを軽視していたのである。
 実は日本でも、2022年以降、日本銀行が、高インフレは一時的と繰り返す一方で、毎回、インフレ見通しの上方修正を余儀なくされている。同時に、2021年当時の欧米の中央銀行と同じように、積極的な金融緩和を継続する必要性を繰り返している。インフレ亢進を許した欧米の中央銀行は、2022年以降、大幅な利上げを余儀なくされているから、超金融緩和を続ける日本との
金利差が大きく拡大し、それが超円安を招いて、さらなる物価高を誘発するありさまだ。
 一方で、日本政府は物価高の国民生活への悪影響を吸収することを理由に、拡張的な財政政策を繰り返しているが、これがマクロ経済の需給逼迫をもたらし、さらなるインフレにつながっている恐れがある。
 日銀は欧米の教訓を生かしていないように見えるが、私たち民間エコノミストには批判する資格はないだろう。過去四半世紀のゼロインフレにすっかり思考パターンが慣れ切ってしまい、インフレ率が上がっても、それは一時的であって、早晩、低下していくという予想が繰り返されてきたのである。2022年4月にCPIコア(生鮮食料品を除く総合消費者物価)の前年比が2%を超えた際、それが2023年末まで続くと誰が予想していただろうか。それが4%台、いや3%台に達するという見方すら、当時は皆無だった。

いま学ぶべきは欧米の経験からの教訓

 日本銀行は、2023年4月に就任した植田和男総裁の下、その第一回目となる4月末の金融政策決定会合において、1年から1年半の期間をかけ、過去四半世紀の金融政策について多角的な視点から分析することを決めた。いわゆる「多角的レビュー」である。あれほど大規模な金融緩和が果たして必要だったのかどうかを含め、日銀自身によって、詳細な分析・検討が行われることは極めて有用であると筆者も考える。今後、日銀がバランスシートを元の水準に戻すとしても、数十年の月日を要し、金融政策運営に後遺症を残すだろう。
 ただ、日銀が振り返る過去四半世紀はゼロインフレの時代であって、そこから教訓を得ようとすると、むしろ緩和的な金融政策のさらなる継続を正当化することになりかねないのではないか。欧米と同じように、政策転換の遅れをもたらすのではないか。実は、欧米の中央銀行は、それまでの低いインフレの時代を振り返り、金融政策運営の枠組みを見直した。その直後にグローバルインフレが到来し、枠組みの見直しそのものが、政策転換の大きな遅れを招いたように見える。それが、今回の高インフレの原因の一つになっているのである。
 むしろ、いま私たちが学ぶべきは、2020年から現在に至るまでの欧米の金融政策運営からの教訓ではなかろうか。そんな思いから執筆を始めたわけだが、お察しの通り、本書は筆者自身のエコノミストとしての「反省の書」でもある。

『成長の臨界』で物価問題を取り上げなかった理由

 さて、筆者は、2022年7月に『成長の臨界』を上梓したばかりである。そこでの主たるテーマは「日本の長期停滞」であり、金融政策を含め過去四半世紀の経済政策を詳しくレビューしている。また、今回のグローバルインフレについても、2022年3月時点までの分析は行っており、その段階で、表面的には、供給ショックに見えるが、需要ショックがグローバルインフレの主因であると的確に分析したと自負している。
 しかし、日本の物価問題そのものについては、詳しくは取り上げていない。それは、日本の長期停滞の原因は、デフレやゼロインフレにあるわけではない、と考えてきたからである。
 インフレが上がれば、経済に好循環が訪れるという見方は今でも少なくないのだが、筆者自身は、ゼロインフレが続こうが、あるいはインフレが訪れようが、そのこと自体が潜在成長率や実質賃金のトレンドに影響を与えるものではない、と考えてきたし、その考えは今も変わらない。
 実際、グローバルインフレの到来後、日本で起こったことは、経済全体のパイが拡大しない中で、物価上昇に賃上げが追いつかず、実質賃金が下落していることだ。企業業績が改善し、税収も拡大しているが、それは家計から企業や政府への所得移転によるものである。円安インフレが始まれば、インフレタックスや金融抑圧が強化されるであろうことは、『成長の臨界』でも明確に予見していたことである。

本書で扱うテーマ

 本書は、グローバルインフレとその日本の経済社会へのインプリケーション、そして国際通貨としての「円」の賞味期限について論じたものである。各章で扱うテーマは、以下の通りである。
 第1章では、1ドル150円台の超円安が進んだ為替レートについて論じる。超円安の背景は、2022年以降、先進各国が急激な利上げを続ける中で、日本銀行が長期金利をゼロ近傍に抑え込んだため、内外金利差が大きく拡大したことだった。しかし、原因はそれだけではない。2018年から21年にかけて、均衡実質為替レートが円安方向に大きくジャンプしており、今後も超円安が繰り返される可能性がある。また、世界一物価の高い国と言われていたはずの日本が、物価の低い国(「安い日本」)に転じたメカニズムについて、長期的な視点で分析する。なぜ私たちは貧しくなったのか。
 第2章では、欧米の高インフレの原因とその行方について、前述したリカルド・ライス教授の研究を詳しく紹介し、日本の金融政策運営へのインプリケーションを探る。後述する通り、2023年の植田和男日銀総裁の発言は、2021年のパウエルFRB(米連邦準備制度理事会)議長やラガルドECB(欧州中央銀行)総裁と瓜二つであることに読者は驚くはずだ。植田総裁は、金融緩和を継続することで、インフレが2%を上回るリスクより、拙速な利上げで2%のインフレが定着する芽を失うリスクのほうが高いと論じる。もしそうだとしても、リスクマネジメント(リスク管理)アプローチの要諦は、可能性が小さくても、生じた場合にダメージの大きい政策を回避するというものではないだろうか。日本経済の損失関数と、日銀の組織としての損失関数の混同が起こっている可能性がある。
 第3章では、財政インフレを扱う。財政インフレとは、政府の財政信認の低下を原因とするインフレで、理論的には中央銀行の利上げだけでは抑えることができない。先進各国では、パンデミック危機対応で大規模な財政政策を繰り返した後、今度は、高いインフレが訪れると、物価高の国民生活への痛みを取り除くことを目的に、拡張財政を続けている。もし、今回のグローバルインフレが財政インフレだとすれば、中央銀行の利上げは、金融システムや経済に悪影響を及ぼすことがあっても、インフレ鎮静の決定打にはならない。現在の先進国が採用するポリシーミックス(政策の組合わせ)は、高いインフレと景気低迷が共存するスタグフレーションをもたらすリスクがある点を論じる。
 また、1980年代初頭、当時のFRB議長だったポール・ボルカーが抑え込んだとされる高インフレも、財政インフレだった可能性があるが、インフレ鎮静に真に貢献したのは「小さな政府」を追求したロナルド・レーガン大統領だった可能性を論じる。それにしても、欧米で政治分断が深刻化する現在、財政健全化は果たして可能なのだろうか。それが無理だとわかっているから、インフレ期待の一定程度の上昇を受け入れるのだろうか。2023年秋以降、米国の長期金利が水準を切り上げているが、財政信認の低下を含め、統治能力の劣化が影響している可能性があり、最悪のシナリオとして、米国の内戦リスクの分析にも踏み込む。
 第4章では、グローバル経済に構造的なインフレの時代が到来したのかどうかを問う。米中新冷戦の開始で、グローバルな最適生産が困難になる一方で、人件費の増大を吸収する目的で、グローバル企業がAIやロボティクスなどの新技術を積極的に導入するため、構造的なインフレ時代の到来とは必ずしも言えないことを論じる。また、日本では、人口動態の影響は、長く先行して総需要抑制効果として現れ、それがデフレ圧力をもたらしてきたが、ついにパンデミック危機が訪れる前の2010年代後半から労働力減少の総供給への影響が大きくなり、物価への影響に変化が見られることを論じる。
 しつこく高いインフレに先進各国が苦しむ中で、デフレが懸念される中国経済の行方についても取り上げる。1990年代の日本と同様、人口動態が不動産不況を深刻化させており、日本化(ジャパニフィケーション)は避けられないのだろうか。また、中国を含め、多くの新興国では、パンデミック危機において、家計への現金給付のような大規模な財政政策はほとんど発動されていない。それゆえ、資源高が終息すると、インフレの鎮静が早期に始まる国も意外に多く、今回の先進国の高インフレは貨幣的現象というより、財政的現象であることが、この点からも示される。また、欧米では、コストの増大以上に値上げが進んだという「強欲インフレ」論が話題だが、その論拠の妥当性について、理論モデルを含め、補論で詳しく解説する。
 第5章では、国際通貨としての円の賞味期限について論じる。『成長の臨界』でも紹介した最新の経済理論を使って、日本円が国際通貨である間は、日本の公的債務の持続可能性が何とか保たれる可能性があることを論じる。あまり気がつかれていないが、米国との通貨スワップ協定の存在で、日銀はFRBから無制限かつ無期限にドル資金を確保できるため、日本国債の格下げがあっても、少なくとも当面は邦銀へのドル資金の潤沢な供給が可能である。とはいえ、ゼロ成長が続く日本経済がグローバル経済の中で埋没を続ければ、早晩、円は国際通貨とは見なされなくなり、そうなれば通貨スワップ協定の有効性が失われることを示す。
 高めのインフレが続く中、岸田文雄政権は、恒久的な歳入を十分に固めないまま、少子化対策や防衛費などで年8兆円もの歳出を先行させる。米国との通貨スワップ協定に慢心し、日本の預金者がゼロ金利の円預金を見捨てる日が訪れることを警戒してはいないのだろうか。

 各章で扱う内容をざっと紹介したが、グローバルインフレと、グローバルな視点から見た日本のインフレへの影響が本書の縦糸であるとするなら、横糸として、それぞれの問題に関して、歴史的な視点や政治的・文化的視点での分析を盛り込んでいる。本書の企画段階では、新書サイズ程度の小ぶりの書籍の出版を予定していたが、結局、ページが膨らんだのは、こうした論点を盛り込んだためでもある。

グローバルインフレーションを駆け足で振り返る

 早速、為替問題を扱った第1章に入っていくが、その前に、グローバル経済を日頃詳しく見てはいない読者のために、ここで2020年以降の動向について、ざっと振り返っておこう。本書を読み進めていく上で理解の助けになると思われるが、先を急ぐ読者は、第1章にそのまま進んでいただければ幸いである。
 2020年に未知のウィルスが世界を襲い、経済恐慌を避けるために、先進各国で大規模な財政・金融政策が発動された。当時、政策が大きすぎることの失敗より、小さすぎる失敗を避けるべきとされたのは仕方がなかったのだが、米国ではトランプ大統領の下、GDP比で10%超の大規模な財政政策が発動された。
 しかし、想定よりも早いタイミングでワクチン開発と接種の普及に成功し、2021年から米欧経済は急回復した。ペントアップ需要と前年の大規模財政の効果が合わさったのである。2021年春からインフレの上昇が始まったが、こともあろうに、トランプ大統領の後を襲ったバイデン大統領は、経済が活況を呈する中、GDP比で10%もの追加財政を決定し、経済はさらにオーバーヒート(過熱)した。
 本来、2021年半ばには金融引締めに転じるべきだったのだろう。しかし、米欧の中央銀行は、パンデミック危機が訪れた際に、むしろインフレが低すぎることを強く懸念していた。第2章で詳しく述べるように、平均インフレ目標など金融緩和の長期化を正当化する金融政策の枠組みを導入したばかりだった。米欧とも、それまでのインフレの低さを補うため、2%を超えるインフレが望ましいとさえ考え、パウエルFRB議長もECBのラガルド総裁も高インフレは一時的と繰り返したのである。
 2021年後半にインフレは大きく加速するが、米欧の中央銀行は、そこでも金融緩和の継続が望ましいと誤った判断を下した。たとえばパンデミック危機の影響で世界中の港湾がストップしたが、そうした供給ショックが企業や家計の支出に悪影響を及ぼすと心配したのである。
 実際には、ペントアップ需要と大規模な財政・金融緩和の効果で、総需要は強いままだったが、一方でそうしたショックは生産能力(潜在GDP)を低下させ、むしろ需給ギャップのタイト化がインフレを助長した。ECBは2022年2月にウクライナ戦争が始まり、エネルギー価格が高騰した際も、エネルギー制約がもたらす総需要への悪影響を懸念し、金融引締めが必要とは判断しなかった。
 第2章と第4章で詳しく述べるように、過去40年間近くにわたる「大いなる安定」と呼ばれた局面では、グローバリゼーションやITデジタル革命の影響などで、断続的にプラスの供給ショックが訪れていた。総需要が拡大しても、潜在GDPがより拡大したから、ディスインフレ(インフレ低下)傾向が続き、中央銀行は緩和的な金融環境を維持した。
 これが、パンデミック危機や米中対立をきっかけに逆転し、断続的に負の供給ショックが経済に訪れ、インフレが上昇したのなら、中央銀行は金融引締めを行う必要がある。そんな時に、金融緩和を続けても、インフレが嵩じるだけで、GDPの水準を維持することはできないはずである。
 ようやくそれが理解され、米欧の中央銀行は利上げを加速させた。しかし、米国では、わずか1年間で5%も政策金利を引き上げたため、2023年3月には一部の地方銀行が破綻するなど、金融システムに強いストレスを与えたことが明らかになった。2022年夏には、高インフレを抑えるために景気後退を厭わないと発言したパウエル議長は、すでに翌年には「景気後退を想定していない」と軌道修正している。
 これらの点は、第3章と第4章で詳しく取り上げるが、一気に目標の2%までインフレを抑え込もうとすると、金融システムに多大なストレスをかける。金融システムが動揺すれば、深刻な不況につながりかねない。インフレはいまだ鎮静していないが、一頃の二桁近いインフレからは低下しており、中央銀行にとっては、リスクバランスが大きく変わったということなのだろう。インフレ鎮静を長期戦と位置づけ、多少のインフレ期待の上昇は甘受するということではないだろうか。この問題は、米国よりも高いインフレになお苦しむ欧州にも当てはまる議論だと思われる。

日銀は大丈夫か

 さて、グローバルインフレの影響で、日本のインフレは高止まりしている。日銀は2023年末にはCPIコアが2%を割り込むとしていたのだが、同年10月段階でも3%程度で推移し、新型CPIコア(エネルギーを除くCPIコア)に至っては、4%台の推移が続いている。政府がエネルギーに対し補助金を出しているため、CPIコアの伸びは新型CPIコアより低く抑えられているのである。
 しかし、前述したように、2023年4月に就任した植田和男総裁の発言は、インフレは一時的と繰り返した2021年のパウエル議長やラガルド総裁とまったく同じように見える。供給ショックがもたらす総需要への悪影響ばかりを懸念し、それが潜在GDPを抑制させ、インフレ圧力を醸成することを気にしていない点も共通する。もちろん、ゼロだった低いインフレを高めたい日本銀行からすれば、ある程度は嬉しい誤算ともいえるかもしれない。
 米欧では、過大な財政政策を大規模金融緩和でサポートしたことが高インフレの主因だった。日本でもコロナ禍で大規模財政を繰り返しただけでなく、欧米と同様、その後の物価高に対し、エネルギー補助金など追加財政で対応している(2)。さらに、岸田文雄政権は防衛費や少子化対策で年8兆
円、GX対策費(地球温暖化対策のためのグリーン・トランスフォーメーション)も加えれば、年10兆円にも上る巨額の恒久的歳出を、歳入に先行させるという決定を行い、これもインフレを助長する恐れがある。
 コロナ禍でも、高齢者の労働市場からの退出は続き、日本経済の供給の天井は徐々に低くなっていたが、2023年春の経済再開とともに、労働需給の逼迫が深刻化している。本来、一時的に終わるはずの輸入物価上昇の影響が長引いているのは、需給ギャップが想定以上にタイト化しているからなのだろう。そうした中でマイナス金利政策を長期化すれば、第1章で詳しく論じる通り、実質金利の低下で円安インフレが加速する。
 さらに、2023年9月13日にスタートした岸田改造内閣は、物価高への悪影響を吸収することなどがその使命だとし、「思い切った内容の経済対策」をまとめることを首相自身が表明している。さらなる財政政策は需給ギャップを一段とタイト化させ、インフレ圧力を生むのではないか。第3章で取り上げる財政インフレについて、最も懸念しなければならないのは、日本かもしれない。
 今後、仮にインフレが加速し、急激な利上げが必要になった際、四半世紀もゼロ金利が続いてきた日本では、米欧以上に金融経済への衝撃は大きいはずだ。一方で、インフレ加速にもかかわらず、利上げが困難だとすれば、実質金利は大幅に低下し、円安インフレのスパイラルをもたらすリスクがある。前述した通り、可能性が低くても生じた際にダメージが大きなリスクは回避するというのがリスクマネジメントの要諦である。植田和男総裁が「遅れてきたデフレファイター」とならぬことを祈りつつ、筆者とともに、これからグローバルインフレをめぐる分析を進めていこう。

はじめに 注
(1) Sargent, Thomas J. (20 13) “Letter to Another Brazilian Finance Minister,” Republished in Rational Expectations and Inflation, 3rd edition: Princeton University Press. 238ページより筆者抄訳
(2) 日本では、パンデミック危機対応で、2020年度に補正予算で79兆円、21年度も36兆円の巨額の予算を組んだが、感染が一服した22年度にも、第二次補正予算として29兆円を追加している

(続きは本書にて…。)

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河野龍太郎(こうの・りゅうたろう)
1964年愛媛県生まれ。87年、横浜国立大学経済学部卒業、住友銀行(現・三井住友銀行)入行。89年、大和投資顧問(現・三井住友DSアセットマネジメント)へ移籍。97年、第一生命経済研究所へ移籍、上席主任研究員。2000年、BNPパリバ証券に移籍。現在、経済調査本部長、チーフエコノミスト。
財務省財政制度等審議会、東日本大震災復興構想会議検討部会、資源エネルギー庁総合資源エネルギー調査会基本問題委員会、経済産業省産業構造審議会新産業構造部会、内閣府行政刷新会議ワーキンググループなど多くの審議会で委員を務める。日経ヴェリタスのエコノミスト人気調査で2023年までに10回、首位に選ばれる。2023年7月より東京大学先端科学技術研究センター客員上級研究員。
主な著訳書:
『成長の臨界』慶應義塾大学出版会、2022年/『円安再生』東洋経済新報社、2003年/『金融緩和の罠』共著、集英社、2013年/クルーグマン『通貨政策の経済学』共訳、東洋経済新報社、1998年/ブラインダー『金融政策の理論と実践』共訳、東洋経済新報社、1999年

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