連載第5回:『結婚の哲学史』第1章第3節―ヘーゲルによる近代的結婚観の完成 (とその不可能性)
結婚に賛成か反対か、性急に結論を下す前に、愛・ 性・家族の可能なさまざまなかたちを考える必要があるのではないか。昨今、結婚をめぐってさまざまな問題が生じ、多様な議論が展開されている現状について、哲学は何を語りうるのか――
九州産業大学で哲学を教える藤田先生による論考。今回は近代的結婚観を完成したと言えるヘーゲルの結婚論を説明します。
↓これまでの連載はこちらからご覧ください
***
では、ヘーゲルの結婚論を見ていこう。先ほども見たとおり、『法の哲学』(実際に刊行されたのは1820年末、奥付は1821年)の語彙に沿うならば、第三部「倫理」の第一章「家族」は総説的な部分(第158-160節)から「A.婚姻」(第161-169節)、「B.家族の資産」(第170-172節)、「C.子どもの教育と家族の解体」(第173-180節)へと進んでいく。ここには家族の誕生としての婚姻から出発して、家族という社会共同体の外的顕現としての財産と子どもが現れ、そして家族の解体としての子どもの自立や離婚で一つのサイクルが閉じ、また別のサイクルが始まるという、一見するとごく普通の近代的な結婚観が描かれている。封建的ないしローマ法的な旧来の結婚観と鋭く対立し、幾つかの点では今なお乗り越えられていない近代性を備えてすらいる。
だが同時に、仔細に見てみると現代の私たちが考える結婚観とはかなり異なったものであることもまた分かる。ジジェクの言う通り、ヘーゲルの結婚論の中には「標準的なブルジョア的結婚観の見かけの下に多くの動揺を引き起こす含意(many unsettling implications)が潜んでいる」のである(Zizek 2012:1)。序論でも述べたとおり、ここに体系からの逸脱だけを見るのではなく、むしろ体系の成立にとって構成的な遠心力をも同時に見るのでなければならない。
1.非ヘーゲル的な三つの結婚観
ヘーゲルによれば、結婚とは「直接的な倫理的関係」(161節)である。結婚は家族を成立させる出発点となるものであると同時に、後に市民社会や国家といった共同体へと展開していく準備段階であるという意味で、すでにして一つの小さな倫理的共同体でもあるということだ。ここにすでに現代の私たちとの共通点と差異が見られる。「結婚は倫理的な関係である」と聞いて、私たちが脳裏に思い浮かべる「倫理」とはあくまでも個人間の倫理であろう。現代において結婚を論じるときに最も重視されることは、個々人の願いを最大限尊重し実現しようとするアイデンティティ・ポリティクスであって、その際たとえアイデンティティの変容が問題になるとしても、それは依然として個人主義的なものであり、決して国家や社会、世界の歴史(加藤ならガイアと呼び変えるかもしれない)のパースペクティヴと最終的に合致するものではない。だが、ヘーゲルの結婚論の鍵は人格の止揚、契約の止揚にある。「結婚は直接的な倫理的関係」という表現において「直接的」かつ「倫理的」という語が指し示しているのは、まさにこの点である。この表現からヘーゲルが三つの結婚観を同時に批判していることが分かる。
第一の結婚観は「自然的生命活動という契機」、「人類の現実および過程としての生命活動」つまり性的関係に注目する自然法的結婚観である。「以前には婚姻は、特にたいていの自然法においては、ただ肉体的な面に焦点を合わせて、婚姻が自然的にそうであるところに従って見られたにすぎない。婚姻はこのようにただ性的関係としてのみ考察され、婚姻のその他の諸規定に到達する道はことごとく閉ざされたままであった」(161節追加)。男性も女性も、他者との合一によって人類に子孫という継続性をもたらそうとする傾向を備えているという意味で、結婚はある面ではこの衝動のうえに成り立っている。だがこの衝動性はたしかに結婚の一つの側面ではあるものの、それだけで結婚という倫理的共同体が成り立つわけではない。「自然な性的結合」は、それだけでは二者間の「純粋に内面的または暗黙の結合」にすぎず、「まさにその理由のために純粋に外的な結合」つまり十分に精神化されていない関係にとどまるからである。
第二の結婚観は恋愛結婚観、つまり「婚姻の本質を愛にしか置かない考え方」である。この結婚観は「うつろいやすい面、気まぐれな面、単に主観的な面」をとどめ、「あらゆる点で偶然性が入り込むのを許す」という意味で非倫理的である。性的関係における一体性が「即自的にあるだけの、そしてまさにそれゆえに顕現したあり方においては外面的であるだけの一体性」にすぎず、それを「精神的な愛、すなわち自己意識的な愛」という倫理的一体性にまで高めるものが結婚だとヘーゲルは言うが、先ほども(第二節で)確認したとおり、彼にとって社会関係から切り離された、あるいは法的に是認された社会関係に収まらない個人とその性的衝動は抽象的な存在にすぎない。一人の男性と一人の女性が合法的に、つまり結婚して子どもをもうけることで初めて「人類の現実および過程としての生命活動」が具現されるのだとすれば、彼が「精神的な愛、すなわち自己意識的な愛」と呼んでいるものは、私たちが通常考えるような「愛」とはかけ離れたものだ。
第三の結婚観は、結婚を性的関係だけで捉えず、恋愛関係としてだけ捉えるのでもない、市民契約的(カント的)結婚観である。自然で奔放な性的衝動や恋愛感情による一体性だけで結婚は成立しないという主張は実はすでにカントにあるのだが、カントとヘーゲルの対決のゆくえについては次節(第四節)で詳しく見ることにしよう。ここでは、ヘーゲルのカント批判の理由が「個人」と「契約」という概念に関わっていることだけおさえておけば十分である。
2-1.近代的結婚の根本特徴①両人格の自由な同意
自己制限か自己解放か
ヘーゲルは、結婚の主観的な出発点としての「両人格の特殊な愛着(besondere Neigung)」や「両親などによるあらかじめの配慮と計らい」と、結婚の客観的な出発点としての「両人格の自由な同意(freie Einwilligung)」を区別している。これまでに見たところからも、ヘーゲルがうつろいやすい愛情にだけ基礎を置いておらず、同意という個人の意志(Wille)を強調していることが分かるだろう。
各人の主体的自由の尊重と言えばわかりやすい話のようだが、ここでの「同意」の内実は「自分たちの自然的で個別的な人格性を放棄して一人格をなそうとすることの同意」である。「法人」とは、個人(「自然人」と呼ばれる)同様に、権利や義務の主体となる「法人格」を法によって認められた組織のことだが、いわば「夫婦人格」とでも言うべき新しい人格性がここで創設されたとヘーゲルは考えているのである。とりわけ重要なのは、個々人の人格性を放棄するという行為が決して「自己制限」つまり我慢や忍従としてのみ捉えられていないという点だ。
一体になろうと試みることを通じて実体的な自己意識を獲得するのだから、まさにその意味ではこれまでの狭い自分自身からの「解放」だとヘーゲルは考える。家族で過ごす中で個人の願望は制限されるかもしれないが、倫理的義務を履行することを通じて、一体性のなかで得られる自由もある。第149節でヘーゲルは「義務においてむしろおのれの解放を手に入れ」、「義務においてこそ個人は解放されて、実体的自由を得る」と述べていた。これはヘーゲルがカントから受け継いだ「自由とは欲望に振り回されることではなく、むしろ欲望を制御する自律こそ真の自由である」という考えに基づいている。言ってみればヘーゲルは、「夫婦人格」を形成しようという同意のうちに人間解放の始原的な形態を見出しているのである。
家族としての精神的一体感、家族をつなぐ「精神的な絆」こそが、結婚を倫理的なものにしている。ヘーゲルがカントの結婚契約説を否定した理由がまさにここにある。契約においては独立した人格の存在が前提されているが、ヘーゲルはこれを批判し、結婚において夫婦個々人の人格は「夫婦人格」のなかに止揚されることを強調していた。
したがってヘーゲル的観点からすれば、それぞれの経済的独立性(したがって精神的・物質的自由)を担保しつつ限定的な共同生活を営む、いわゆる「契約結婚」は倫理的でないということになる。「契約結婚であっても、精神的一体性はある。ただ物質的・経済的に一つにしないだけだ」という理屈はヘーゲルには通じない。家族としての倫理的一体性も、他のあらゆるヘーゲル的契機同様、家産(夫婦共有財産)という物質的基盤に外在化され顕現しなければ実体を伴っているとは言えないからだ。もちろん逆も然りで、たとえ物理的に一つ屋根の下で共同生活を送り、財産を共有していようが、家族としての精神的一体性が喪失している場合は「結婚」の実体もまた存在しない。
ただし、信田さよ子の描く「すきま風夫婦」は、ヘーゲル的な結婚でありうるだろう。信田は、「家族の間に多少すきま風が吹いているくらいがちょうどいい」ということで、「すきま風家族」という考え方を主張したり[1]、あるいは『家族収容所――愛がなくても妻を続けるために』という本で次のように述べている。
もちろん愛があってもいいし、セックスがあってもいいわけだが、「なくてもいいのではないか」という視点を持つと、契約や所有に対する考え方も変わってくるのではないか。
2-2.近代的結婚の根本特徴②家族愛とその弁証法
ヘーゲル的家族とカント的家族
カントの実践哲学に対する批判がヘーゲルの『法の哲学』全体を組織している。とりわけ第二部の「道徳」(Moralität)から第三部の「倫理」(Sittlichkeit)への移行は明らかにカントを意識しており、ヘーゲルの目からすれば、カントは倫理の本質的契機である家族を捉え損なっているということになる。この点に関してデリダは次のように述べている。
「ヘーゲル的な意味での家族はカントにはない」、あるいは「愛・結婚・子どもはカントには考えもつかないものだ」とはどういう意味だろうか。また非嫡出子に向かってのヘーゲルの残酷な物言いもさることながら、その言葉をこの文脈で引くデリダの真意は何だろうか。
ヘーゲルにおける愛
まず「愛」から始めよう。すでに上で見たように、というのも、実際ヘーゲル自身が「家族」を、倫理的実体の最初のあらわれであり、自由な意志から生まれる「愛」によって結ばれた最小の社会共同体として規定することから始めているからだ。
家族はチームであり、「愛の統一」を目指すものであって、実際がどうであれ、家族の心がまえとしては、個人がリアルに存在しうるのは、もっぱら愛で結ばれ文字通り「一体」となったファミリーの一員としてであるということだ。家族愛があってはじめて自己の存在が確認される、ということである。「結婚の倫理的な点は、実体的目的としてのこの一体性の意識にある。したがって愛、信頼、個人的生活全体の共同にある」(163節)。家族あっての自分というこの自己意識は、家族がうまく機能しているあいだは意識されず、家族分解時に明瞭に表れることになる。ミネルヴァの梟は家族の夕暮れ時にも高く飛ぶ。
ロマンティック・ラブではない
では、家族の成員を一体とする「愛」とはいったい何か。『法の哲学』164節注釈では、「愛こそ実体的なものであり、そればかりか儀式を介したのでは愛は価値を失うという理由から、結婚締結の挙式を余計なもの、無用の虚礼であるとする意見」の代表格として、ロマン主義者フリードリッヒ・フォン・シュレーゲルの『ルチンデ』が挙げられ、「肉体的に身を捧げることが、愛の自由と真心とのしるしのために要求されると考えられるが、これは女たらしには珍しくもない論法である」として退けられている。したがってヘーゲルの言う「愛」はロマンティック・ラブではない。
ロマン主義的恋愛観にとっては情熱的な内なる愛こそが本質である。結婚そのものは愛の結びつきに対して外在的な登録にすぎず、単に形だけの契約にすぎない。しょせん形式にすぎないなら無いほうがよく、結婚は最悪の場合、真の愛にとって障害にすらなる。しかし、ヘーゲルにとって結婚式は単なる儀式ではなく、婚姻届は単なる紙切れではなく、結婚生活は同棲の延長線上にあるものではない。
愛の弁証法
結婚の本質を愛に見るという考えが間違っているわけではない。ただ、「婚姻の本質を愛にしか置かない考え方」は退けなくてはならない。というのは、「愛は感情であるから、あらゆる点で偶然性が入り込むのを許すが、偶然性は倫理的なものがとってはならない形態である」からだ。したがって「婚姻は、より正確には、法的に倫理的な愛である」(161節追加)というヘーゲルの言葉が意味しているのは、「うつろいやすい面、気まぐれな面、単に主観的な面」を消し去り、「情熱の偶然性や一時的な特殊的好みの偶然性を超えた、それ自体においては解消することのないもの」として家族という共同体の「精神」をなすものこそが、結婚における「愛」と呼ばれるべきだ、ということである。
では、そのような愛はどのような特徴を持つのか。ヘーゲルが愛における精神的一体性を単純に融合と捉える見方に与していないことだけは確実である。「精神的一体性の感情と意識さえもが、誤ってそう言われるところのいわゆるプラトニック・ラヴとして固定されてしまう」(163節)ことを「抽象」だと断じているからだ。結婚が各自の「無限に固有な人格性の自由な献身」から生じるというのは、逆から言えば「すでに自然的に同一の、よく知り合った、万事においてうちとけ合った間柄の内部で結ばれてはならない」(168節)ということである。家族とは愛であるが、ただしその愛とは弁証法的なものなのである。つまり否定・対立・葛藤・矛盾抜きに存在しえない。
「自己意識の点的性格」とは分かりやすく言えば私たちの不可避的な自己愛であろう。愛される自分の存在は、そのエゴイズムをより高次において「肯定的なものとして」受け入れることを可能にしてくれる。愛とは「とてつもない矛盾」であり、弁証法的なものであると見るのは間違っていないが、単に個人が互いに譲らないという意味での葛藤・対立・否定・矛盾をそこに見てはなるまい。むしろ私が他者から独立した人格であることこそが否定され、他者と一体になろうとする試みを通じて、私ははじめて私がどのような人間であるかを知るのである。
ただし、このヘーゲル的な家族愛はきわめて両義的なものである。なぜか。一方でヘーゲルは恋愛の「偶然性」を克服して「法的で倫理的な」つまり「必然的」な愛へと向かうように主張していた。先に近代的結婚の第一の特徴として挙げた両人の同意と、そこにおける自己解放は、あくまでも自分の愛した人物への愛情の純化であるように見えた。だが他方で、愛情の純化とは、それはプラトンの理想的な国家のように、精神的・身体的資質を慎重に検討したうえで将来のパートナーを選ぶといったことを推奨しているわけではなかった。むしろヘーゲルは、そもそも結婚相手とは偶然的なものであり、この偶然性(contingency)を必然として受け入れるべきだと言っているようにも読める。
親の決めた相手との見合い結婚をヘーゲルが「より倫理的」と評価するのは、若者が情熱に目をくらまされている中で、思慮深く経験豊富な年長者には若者よりも遠くが見えており、彼らの共同生活を幸せにするために必要な資質を若いカップルが持っているかどうかを判断するのに若者よりも有利な立場にあるからではない。見合い結婚は、むしろ気まぐれや偶然性に左右される特定の対象への恋愛感情や愛着、“パトローギッシュ”な執着からの解放と見なすこともできる。「ヘーゲルはここで最後まで、すなわち必然性を偶発性に転換する弁証法的な逆転にまで踏み込んでいる」(Zizek 2012:4)と指摘するジジェクは、この逆説から二つの結論、二つの放棄を導く。第一の結論は、結婚における抽象的な自由の放棄が二重の放棄だということである。私は家族の一体性に没入することで自身の抽象的な自由を放棄するという第一の放棄がある。だが、私が抽象的な自由を放棄する結婚相手が他者(親)によって選ばれたものである場合、この放棄それ自体も形式的に自由であるにすぎないという第二の放棄がある。したがって第二の結論は、抽象的な自由の放棄は結婚の行為に含意されている唯一の放棄ではないということだ。
結婚において私たちは何を放棄するのだろうか?それは私たちを振り回す個別性や偶然性への愛着である。そのような偶然的で不安定な結びつきが昇華され、パートナーの一種の脱昇華(de-sublimation)ないし置き換え可能性が生じるのでなければならない。ヘーゲルの倫理的な家族愛を果てまで辿りきると、見えてくるのはそのようなイメージである。私が遠心力と呼んだ要素は、例えばヘーゲルの結婚論で言えばこのような側面である。
2-3.近代的結婚の根本特徴③社会的承認とその儀式的・言語的側面
ヘーゲルは結婚における社会的承認の次元を重視している。結婚式という場で公然と(社会に対して)結婚を宣言することによって、家族という倫理的実体を形成したことへの社会的承認を得ることで結婚は実質的に完結する、というのである。「婚姻の締結そのものである儀式によって、この結合の本質が感情や特殊的な愛着といった偶然的なものを超えた倫理的なものであることが表明され確言されるのである」(164節注解)と述べ、結婚式が単なる「外面的な形式」であることを否定している。しかしヘーゲルは、結婚を契約という形式で考えるカントを批判していたのではなかったか。
ヘーゲル的観点からすれば、契約とは抽象的な法(『法の哲学』第一部)に属するものであり、事物とその所有・使用に関するものであった。そもそも契約に関する署名も、その締結自体もつまるところは事物にすぎない。それに対して、結婚とは二人の人間のあいだを結び、ただ一つの人格たらしめんとする倫理的な営為である。いささかも事物が介在する余地のないそのようなアンガージュマンに契約が介入する余地はない。財産など金銭的な事柄に関する「結婚契約」はありうるとしても、結婚という契約、結婚そのものに関する契約はありえない。
では、契約の署名ではないとして、何が結婚の客観的な実体性を担保してくれるのだろうか。ヘーゲルによれば、「精神的な愛」としての結婚がただ単に主観的なものでなく、客観的な倫理的実体性を備えるために必要なのは、個人間の同意を公的に宣言し、社会的承認を得るための儀式、つまり結婚式であり披露宴である。そこで重要なのは、デリダいわく「ある言語行為、ある記号の産出、一種の形式的事実確認の存在」(Derrida 1974:219)であり、ジジェクいわく「結婚式の“パフォーマティヴ”な機能」(Zizek 2012:3)である。
デリダのように社会的承認における言語的側面(結婚の誓い・愛の誓い・宣誓・誓約)を強調するにせよ、ジジェクのように挙式全体を強調するにせよ、ここで非常に興味深いのは、結婚が(精神化されていないという意味で「外的」な)性的結合を「心のレベルでの結合、自己意識的な愛」に変える際に、自然な結びつきを「精神化」してくれるのは単にその内面化ではなく、むしろその反対のもの、象徴的な儀式による外部化だという点である。たとえそのような儀式が愛し合う者たちにとっては単なる“形式”に見えるとしても、それは性的な結びつきを真に社会的な(そうであるがゆえに真に精神的な)結びつきへと変容させ、結婚へと向かう二人を根底から変容させるものなのである。
結婚の鍵となる特徴は、性的ないし恋愛的な衝動による結びつきではない。自然な結びつきから精神的な自己意識への移行は、内面の意識よりも、むしろ一見外面的で形式的な儀式と密接に関係している。だが、それは人格的変容を伴わない、冷静な計算による契約でもない。
2-4.近代的結婚の根本特徴④一夫一婦制と性別役割分業
ヘーゲルは両性の対等、平等な人格を前提として真にあるべき結婚は本質的に一夫一婦制であるべきだとしている。
ここまで確認してきたように、ヘーゲル的結婚においては夫婦の双方が自分を家族のために献げ(個別的な人格性を放棄して倫理的義務を尽くし)家族としての一体性を形成することで、はじめて自己の存在が確認される。このとき各人が自己の存在を十全なものとして意識しうるのは、夫婦が互いに尊厳を保ちつつ協力・扶助しあうという対等・平等な関係を保持しているかぎりにおいてである。したがってヘーゲルにとって一夫一婦制とは、対等かつ平等な相互献身を実現するために必要不可欠な装置である。
ここまではヘーゲルの結婚観のどちらかと言えば積極的な側面を見てきた。だが、もちろん彼の結婚観の中には現代ではもはや通じない点も多々存在する。例えば、「人間の客観的なつとめ、したがって倫理的義務は、婚姻状態に入ることである」(162節注解)と断定したり、両親の勧めによる結婚のほうが「いっそう倫理的な経路であるとさえ見なすことができる」と述べている個所などもそうだが、最大の限界は性別役割分業であろう。
ヘーゲルは、結婚が倫理的一体性をその本質とすると述べる一方で、その倫理的一体性を保つためには、両性がその自然的規定性に応じて必要な任務の分担を行なう必要があると言う。男性は「おのれを二つに割り」、「対自的に存在する人格的独立性と、自由な普遍性を知りかつ意志するはたらき」(166節)とを担う。つまり家長として家族という一個の独立した人格を代表すると同時に、家の外で国家や社会を相手に仕事をする。他方で女性は、「合一においておのれを保つところの精神的なもの」、「実体的なものを具体的個別性と感情との形式において知りかつ意志するはたらきとしての精神的なもの」(同)である。つまり家の内にいて家族を守ることが本分である。要するに、「男性は対外関係においてたくましく活躍するもの、女性は受動的で主観的なもの」(166節)だというのである。
岡﨑佑香によれば、ラーヘル・ファルンハーゲンという一人のユダヤ人女性の存在がヘーゲルに与えた影響が『法の哲学』(1820年)から第二版『エンチュクロペディ』(1827年)への変化の内に見られるという。後者においては、女性を公的領域から排除し、その活動領域を家族に限定するという規定、ならびに男性に家族を代表し、かつ家族の共有資産を管理・運用する権限を与えるという規定は削除されているからだ。ただし、ファルンハーゲンとは異なり、嫡出であることを条件に子どもが教育を受ける権利を支持し続けるヘーゲルは、性の二重規範から脱却するには至っていない。
※ 次週23(金)は祝日のため、連載はお休みします。次回は3月1日(金)に公開!お楽しみに!
↓これまでの連載はこちらからご覧ください
#結婚 #結婚の哲学史 #藤田尚志 #連載企画 #ニーチェ #ソクラテス #ヘーゲル #エリザベス・ブレイク #信田さよ子 #岡﨑佑香 #特別公開 #慶應義塾大学出版会 #Keioup
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?