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【試し読み】君たちはウクライナの夜を知っているか?『ウクライナの夜——革命と侵攻の現代史』

いまだに先行きが見通せない、ロシアによるウクライナ侵攻。ここに至るまでも、ウクライナはマイダン革命、クリミア併合、ドンバス紛争へと続く事態に揺れ続けてきました。

ウクライナの夜——革命と侵攻の現代史』(2022年6月中旬発売予定)では、ウクライナの市民、証言者の声を織り交ぜながら、一連の情勢を立体的に描き出します。プーチンの思惑や、西欧(EU, NATO)とロシアの狭間に位置するウクライナの地政学上の位置、国際情勢など、侵攻の背景を知るうえで広い知見を得られる一冊です。

このnoteでは、池田年穂さんによる訳者あとがきの一部を公開します。ぜひご一読ください。

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本書はMarci Shore, The Ukrainian Night: An Intimate History of Revolution, Yale University Press, 2017の全訳です。

翻訳をしていて、これほど不気味な感じを味わったのは初めてです。

 「この戦争は完全に不必要なものだ」。ユーリ・フォメーンコは私に言った。「彼らが何を証明したがっているのか僕にはわからない」。
 『ロサンゼルス・タイムズ』紙から派遣された60代前半のロシア人ジャーナリスト、セルゲイ・ロイコはドネツィク空港で4日間を過ごした。ベテランの戦争特派員である彼は、ドネツィク空港での日々を人生のなかで最も異常な体験の一つに数えている。「この戦争は変わった戦争だな」と彼は言った。「なぜならこの戦争には何の理由もないからだ。あげられる理由の数々はまったく架空のものだし、すべてがロシアのテレビが流した噓の上に成り立っている。人びとが殺し合う理由などどこにもない。まるで不条理劇だ」

本書209頁より引用

ここに描かれているのは2014年の話なのです。

 レオニード・フィンベルグは、3月4日にプーチン大統領に送る公開書簡に署名したウクライナ・ユダヤ人コミュニティの指導者たちの一人であった。
 「ウラジーミル・ウラジミロヴィチ」と彼らは記した。「われわれは、ウクライナの民族的マイノリティの安全と権利に対するあなたの配慮は高く評価する。だがわれわれはウクライナを2つに分けてその領土を併合することによって「守られる」ことなど望んでいない」。〈中略〉「残念ながら」とプーチンへの公開書簡は続いていた。「最近では、わが祖国の安定は脅かされていると認めざるをえない。そしてこの脅威はロシア政府から、すなわち……あなた個人から来ているのだ」

本書119、120頁より引用

これもまた2014年の話です。

あるいは、

ドイツ国防軍、SS、ゲシュタポが、あらゆる民族のソヴィエト市民を何百万人も虐殺したにもかかわらず、歴史的な記憶は「ロシア」のみを「ソヴィエト」の後継者とした。そのためか、ドイツ人たちは、ドイツ占領下で殺されたはるかに多くのウクライナ人の方はせいぜい忘れないという程度だったが、占領に協力したはるかに少ないウクライナ人のことはよく覚えていた

本書131、132頁より引用

など示唆的な表現はあまりに多く、引用をし出したらきりがありませんから、ここらで止めておきましょう。

2017年1月にティモシー・スナイダーさんが初来日しました。無理を言って慶應でも講演をしてもらいました。雑談の折り、ちょうど出版されるところだからと言って夫人のやはり高名な東欧史学者のマーシ・ショアさんの本書の翻訳を依頼されました。ただ、そのあと訳者は7冊の他の訳書の刊行を優先しました。コロナ禍による緊急事態宣言にあたってしまったスナイダーさんの『自由なき世界』や、ロシア社会を描いて荒唐無稽と思われていたポマランツェフさんの『プーチンのユートピア』が今ではしばしば品切れを起こしているのは、それぞれ現実のウクライナ情勢の、またプーチンと彼の治めるロシア社会の実相の説明となっているからでしょう。加えて前者などしばしば「予見的」だったとさえ評されています。

本書171頁の、アナスタシア・テプリャコーワという若い歴史家の言葉にこうしたくだりがあります。

「誰もが歴史家たちに、今日明日来年に何が起きるかを聞きたがるの。あたりまえのことだけど、歴史家たちにはその答えがわからないわ。過去に基づいて未来を予想できる、などと思うのは幻想なのよ」

そのとおりだと思います。歴史家は予言者ではありません。ただ、History doesn’t repeat itself, but it often rhymes. という表現もあります。どのカテゴリーの研究者が今回のロシアによるウクライナ侵攻をありえないとしていたか、どのカテゴリーの研究者が逆のことを言っていたかを検証することは、研究者の対象へのアプローチやバイアスについて検証することに繋がるかもしれないとふと考えたりします。

訳者はこの1年半というもの、いくつもの雑事に追われる身となりました。そうしたなか1月の半ばに原著者サイドから慫慂がありました。「侵攻はほぼ100%ありうる。2014年のマイダン革命やクリミア併合、ドンバスでの今に続く戦いを描いた本書は恰好な道標【みちしるべ】になるだろう」というものでした。2014年に初めてウクライナで「国民国家」が成立したという見解は以前から共有していました。また、有権者は有事の際には status quo を支持するから、各国の選挙では、現政権が有利になるだろうという観測も、今回お互い同意できるものでした。また、

ウクライナ東部では、若さと教育の有無が、どのような言語的な変数にもまして、親ウクライナ・親ヨーロッパ志向と高い相関があった

本書174頁より引用

ユーリは、分離主義者をけしかけてウクライナ国家に反乱を起こさせたことでクレムリンは計算違いをした、と信じていた。ロシア国旗を掲げるだろうとプーチンが判断したウクライナ東部のロシア語地域が、よりにもよって分離主義者と戦う志願兵大隊を最も多く生み出したのだ

本書159頁より引用

それにもかかわらず、ロシア語話者イコール「親露派」という認識がメディアで声高に語られていたからこそ翻訳を急がねばと思いました。

訳者は2月半ばから3月半ばの、それも夜のみを使って翻訳を進めることに決めました。ところが翻訳を始めて10日後に、ロシアのウクライナ侵攻です。侵攻があるとは思っていましたが、まさか「ジョン・ウエイン・スタイル」で攻め入るとは考えていませんでした。

「……プーチンは何を考えているのだろう?」 それは、ヨーロッパの運命がまたしても一人の男の手に握られていることを、みなが暗黙のうちに了承しているかのようだった

本書130頁より引用

そして第2次世界大戦時のままの戦争と、「ポスト・モダン」、あるいは「ポスト・ポスト・モダン」な戦いが同時に繰りひろげられています。加えて3月4日でしたか、ザポリージャ原発への攻撃にも肝を冷やしました。本書第Ⅱ部の「キーウの東での戦い」では、現在進行形のウクライナの戦況と翻訳の内容が頭の中で重なってしまうことが、あまりにも頻繁に起きました。

明治維新からいくつもの戦争を経て敗戦まで77年。敗戦から現在までも77年です。たぶん訳者らの世代は「平和惚け」と呼ばれても仕方ないのでしょう。2015年2月の「ミンスク合意2」を、「ミュンヘン会談」におけるヒトラーへの宥和政策の失敗の再現だと評する声もよく聞かれますが、その2つの会談のあいだも不思議なことに77年でした。ドニプロペトローウシクの高校の中年の歴史の先生は生徒たちにこう語ります。

私は20世紀の歴史について話すのが好きじゃないの。自分が女だからです。そして20世紀のウクライナにあったのは死と虐殺ばかりでした。私は女としてそれを語りたくなかったのです。

本書144頁より引用

(そう言えば、「ホロドモール」はミュンヘン会談のほんの数年前のことでした)。

まさにマイダン革命と平行して翻訳を進めて、スナイダーさんの『赤い大公――ハプスブルク家と東欧の20世紀』を世に問うたのでした。それ以来ウクライナのファンになり、知己もできた訳者です。そのうえ本書の翻訳を通じて、実際には会ったことのないたくさんの登場人物にも感情移入するようになってしまいましたが、はたして彼ら彼女らは8年後の現在どうしているだろうかと思うこと頻りです。「解説」でも言及されている世界的ロックスターで政界にも進出したことのあるスラヴァ・ヴァカルチュクは、『ローリングストーン』誌やツイッター、ユーチューブを使って発信を続けていますので、Sviatoslav Vakarchukで検索してくださればと思います。

ポーランド人は、ウクライナ人と他のものも分かち合っていた。歴史的経験からして、ロシアから救ってくれるよう西側を頼みの綱としないという教訓である。2月19日にキーウが炎上しているときにキーウに行くことを決めたのがポーランドの外相ラドスワフ・シコールスキーだったのは、偶然ではなかったのだ

本書98頁より引用

まことに含蓄のある表現ですが、今回は西側も支援をしています。155、156頁にあるように、多くのウクライナ人にとって、2014年の段階から「ウクライナ東部での戦争は、ヨーロッパの境目をめぐる問題」だったのでしょうし、西側もそう捉えているのでしょうから。

ショアさんは、「優しく親切で、敬虔なキリスト教徒だった。小説を翻訳していて、いつも素寒貧【すかんぴん】だったが、不満を言うことはなかった」という誠に好ましいロシア人の友人ポリーナのプーチン擁護の言説を本書30章で何頁にもまたがって紹介しています。あるいは、本書50章に出てくる素朴なロシア兵サーシャ。彼らを憎むことは難しいでしょう。ただ、今回の侵略においてはロシア側にコーズなどなく、民間人殺傷や拉致・強制移住などの非人道的なやり方や、略奪やロシアへの持ち帰りなどは、時計が80年も戻った気がします。このあとがきを記している4月23日現在で今後のゆくえはまるで予測できず、露宇両国だけでなく、世界中がその影響を被っているという情報があるのみです。「絶望の虚妄なること、希望と相同じい」というフレーズが思い浮かびます。「健全な継承原理」や国際法を踏みにじる「権威主義体制」には、洋の東西を問わず注意をしてゆかねばと思っています。

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