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【寄稿】『クジラの海をゆく探究者たち』刊行によせて

世界十大小説と名高いハーマン・メルヴィルの『白鯨』。白い伝説のマッコウクジラ「モービィ・ディック」に片足を食いちぎられた過去を持つ強権的な船長・エイハブが、報復に執念を燃やし、他の船員を巻き込んで「モービィ・ディック」を仕留めるべく、世界の海を冒険する…という19世紀に書かれた物語です。海洋文学研究者のリチャード・J・キング氏は、海を題材とした当時の米文学の中でも圧倒的に奥深い作品であった、と評価しています。
2022年10月に刊行された『クジラの海をゆく探究者たち――『白鯨』でひもとく海の自然史』は、この『白鯨』に登場するクジラやカモメ、ダイオウイカといった海の生き物たちの生態を現代の科学の水準で検証し、読み解きながら、人間とクジラの長い営みから得た知恵を現代に蘇らせるものです。

このnoteでは『クジラの海をゆく探究者たち』の刊行を記念し、著者のキング氏に本書執筆の経緯や背景についてご寄稿頂きました。ぜひご一読ください。

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『クジラの海をゆく探究者たち——『白鯨』でひもとく海の自然史』
日本の読者の皆さんへ

リチャード・J・キング

慶應義塾大学出版会から『クジラの海をゆく探究者たち——『白鯨』でひもとく海の自然史』が刊行されることを光栄に、そして嬉しく思います。本書は米国のシカゴ大学出版(Chicago University Press)から刊行された原書『Ahab’s Rolling Sea: A Natural History of Moby-Dick(エイハブの荒海——『白鯨』の自然史)』の日本語版です。

本書の基本方針は、次の問いに答えようと試みるものです。

・1850年代、当時の捕鯨業界および学究界の一員として一般的な知識を持っていたハーマン・メルヴィルは、海の生き物たちについてどんなことを知っていたのか

・その知識を、メルヴィルはフィクションである『白鯨』を執筆する上でどのように転化したのか

・当時から今に到るまでに、特定の動物や海の現象に対する私たちの知識・認識はどれほど変わったのか

私たち人間が海と結んできた豊かな関係性は、波乱に満ちた過去二世紀の間にいかに変化してきたのか——それを検証するのに『白鯨』は驚くほど有用なツールとなっています。例えば、19世紀に生きたハーマン・メルヴィルがプラスチック製品をただの一度も手に取ったことがなかった、生分解性があるといえない物質には何一つ触れたことがなかったというのは明白で重要な事実です。また、『白鯨』の作者であるメルヴィルにとって、私たちの排出するガスなどが極地圏の氷を融解させており、そのせいで人間が海の水位そのものに影響を与えている可能性があるなどという話は、滑稽で異端論的に聞こえることでしょう。

著者と日本

私はこれまでに日本を二度訪れています。

最初の訪日は海路でした。1992年、私が船上で指導に当たっていた航海練習船が横浜に寄港した時のことです。ここで私たちは、帆船日本丸(にっぽんまる)の船上に迎えられ、クルーの方々から他にないほどの歓待を受けました。美しい船ときびきびとしたオペレーションに一同で深く感銘を受けたものです。当時若かった私は、東京・渋谷周辺での夜遊びも気に入ってしまいました。楊枝に刺した美味しいたこ焼きの屋台もそうですし、新しくできた友人にあちこち案内してもらい、劇場でゴジラの映画を見たことも決して忘れないでしょう。その後、日本丸(にっぽんまる)のクルーのうち四名は、ハワイまで私たちの航海に同行されたのですが、このうち一名は目の見えない方でした。彼女がいかに勇気や着想を与えてくれる存在であったか、今でも思いを巡らせます。

さて、何年もの後、今度は鵜(う)と鵜飼についての研究を進める中で、私は岐阜市を訪ねる幸運に恵まれました。この時もまた、現地の方々はどなたもとても親切で、私を歓迎し、学術調査に積極的に協力してくださいました。この時の長良川への旅が、私の著書『The Devil’s Cormorant(悪魔の鵜)』〔未邦訳〕の第一章を成しています。

ちなみに、日本の小説で私が気に入っているのは、吉村昭の『破船』(注1)です。頭に取り憑いて離れないこの苦しくも美しい物語は、マーク・イーリーによって英語にも翻訳されています。2001年8月に京都で買い求めたその一冊を、私は今も手元に置いています。

(注1)『破船』のあらすじ
貧しい漁村が舞台。難破船(「お船様」)を海の恵みとして招き寄せ、船員を皆殺しにして積荷を奪う人々のもとに異様な船が流れ着く。

日本語への翻訳について

本書『クジラの海をゆく探究者たち』は、それ自体が独自の研究書でありながら、自然や環境問題に関心の高い一般読者のために知見を総合的にまとめ上げた読み物ともなっています。それは、ここ一世紀近くを通じて、作家ハーマン・メルヴィルの業績、わけても彼の傑作『白鯨(Moby-Dick, or The Whale)』に関する意識や思想が着実に高まり、学識もまた深まっているからです。

国際的に見て、メルヴィルとアメリカ海洋文学を扱う学者たちの中でも最も意欲的であり続けてきたのが日本のグループです(私にはその理由を突き止めるに足る知識がないのですが)。日本メルヴィル学会〔の前身であるメルヴィル研究センター〕の発足は1985年に遡りますし、2015年には同学会の主催で国際学会も開催されています。私は米国でのメルヴィル関連学会に何度か参加する機会に恵まれてきましたが、会場にはいつも、日本から訪れている先生方や学生の皆さんが周囲に刺激を与える姿がありました。

そのようなわけで、本書が日本の学術界にとっても、また、海の様子や西洋における海洋観が1850年代から変化してきた様子を純粋に知りたいという一般読者の皆さんにとっても有用なものとなることを心から願っています。原書の読者からは、本の随所で予想外のおかしみや親しみを感じたという感想を頂いてきました。そうしたユーモアの中には、翻訳を経てもなお伝わるものもあるのではないかと思います。

この日本語版『クジラの海をゆく探究者たち』に関しては、翻訳者である坪子理美博士にとりわけ深く感謝しています。本の翻訳を担う人々は、その過程を通じてまさに共著者の一人となるものです。今回の翻訳は相当の難題だったことと思います。というのも、本書は分野をまたぎ、『白鯨』という小説を環境史と海洋生物学(双方に独自の専門用語があります)の観点から精査するものであるからです。坪子氏とやりとりをする中で、日本語が縦書きの言語であることについて言及する彼女のコメントに心惹かれました。私は本書で、メルヴィルが海上生活や海そのものについて語る際の隠喩には上から下へと流れるもの——檣頭(マスト・ヘッド)での眺めから、深い海の奥底へと巡らせる想像まで——がいかにたっぷりと含まれているか綴っています。その垂直方向の思考が、今回の縦書きで出版される日本語版の体裁とつながっているという魅力的な関連について、坪子氏は指摘したのです。

文筆と絵筆——本書の背景

私は文章の執筆もイラストを描くことも好きなのですが、私の画風はカートゥーン(一コマ漫画や風刺画)のようなスタイルで、自分自身の文章にはなじまないことも多々あります。

今回の『クジラの海をゆく探究者たち』のカバー〔画:中尾悠、装丁:Malpu Design(清水良洋)〕をこのような形に仕上げていただいてとても嬉しいです。大変気が利いていて、上下二巻にまたがっているカバーデザインも気に入っています。私自身〔下巻カバー右端〕はメルヴィル〔上巻カバー左端〕と対等な立場に置かれるには及びませんが、白い靴を履き、青緑のスウェットパンツに黄色の上着を羽織った私の姿を見て家族は大喜びです! また、この日本語版には、きっちりと専門的に仕上げていただいた捕鯨船と捕鯨ボートの模式図など、原書の英語版にはない図もいくつか追加されています。

慶應義塾大学出版会の編集者、永田透さんからは、このnote記事に私自身の筆によるイラストを添えてみませんかとのご提案をいただきました。

『クジラの海をゆく探究者たち』のカバー見返しにも使われているのは、黒ラブラドールの愛犬ローラと一緒の自画像です。背景にあるのは、私がよく乗り込む船であり、米国マサチューセッツ州ウッズホールの海洋教育協会が運航する実習船のロバート・C・シーマンズ号です。

また、下のイラストは、私が『Sea History』誌に四半期ごとに寄稿しているコラム「Animals in Sea History(海洋史の中の動物たち)」のために描いたものです。このコラムでは特定の海棲動物に焦点を当て、その動物と人間の関係の一側面について書いています。ある号ではマッコウクジラを取り上げ、彼らが〔『白鯨』やその他の小説・絵画に描かれているように〕捕鯨ボートを歯で噛み砕くようなことが本当にあったのかについて書き、その次の号では、マッコウクジラが大型の木造船を丸ごと沈没させたという過去の報告の真偽を検証するという具合です。こうしてコラムのために挿絵を描き、調査を行ってきたことが『クジラの海をゆく探究者(ハンター)たち』の原書『Ahab’s Rolling Sea』につながりました。アホウドリ、ウミツバメ、サメ、カジキ類についても、他の文学作品や歴史上の報告にまつわるコラムとイラストを寄稿してきましたが、これらの動物たちもまた、『白鯨』作中で役割を果たしています。

(左上より)アホウドリ、ウミツバメ、サメ、カジキ類のイラスト

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ここまでお読みくださってありがとうございました。日本語版として新たに刊行される『クジラの海をゆく探究者たち』を読者の皆さんが気に入ってくださることを切に願います。慶應義塾大学出版会の編集クルーの皆さんのおかげで、私は再び日本に寄港したいとの思いに駆られています。

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