【試し読み】『隠された芭蕉』
寂びることなく、未踏の旅へ
次代の新しい表現を切りひらく芭蕉論
芭蕉の俳句は、言葉で一つの世界を創り出そうとする強靭な意思に満ちあふれている。
子規・虚子らの近代以降の俳句観によって、実作者や研究者に注目されてこなかった「隠された芭蕉」の表現方法に注目し、次代の新しい表現を切りひらく芭蕉論『隠された芭蕉』。
このnoteでは、著者の髙柳克弘さんによる「あとがき」を特別に一部公開いたします。ぜひご一読ください。
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あとがき
本書は、大学時代の修士論文をもとにして、芭蕉の句の魅力に迫った評論である。私自身が俳句の実作者であるということから、一作者として、芭蕉の句から学べるところ、刺激を受けるところを掘り下げてみた。芭蕉に関心のある人はもちろん、俳句や詩歌の創作をしている人にも、手に取ってもらえたら幸いである。
俳句は短いために、その言葉の意図するところがわかりにくく、どうしても作者や成立状況に関心が向く。「古池や蛙飛びこむ水の音……ふーん、で、その心は?」というわけである。私はできるかぎり芭蕉の個人的な情報を入れることなく、作品そのものの面白さを抽出するよう心掛けた。
もともとドストエフスキーの小説が好きで、大学の学部生の頃はロシア文学専修に属していた。
ドストエフスキーの長編小説に匹敵する重みが、芭蕉の一句にはある――とは言いすぎであろうが、同じ地平に置くことに違和感はなかった。本著でも、海外の詩や散文がおりおり引用されている。
「俳句の特殊性に向き合っていない」「西洋の文学観に染まっている」という批判はあるかと思うが、文化や歴史背景を超えて、すぐれた文学には共通するエッセンスが含まれているという思いがあるからだ。
今の日本社会においては、詩歌というジャンルがあまり顧みられることがない。政治家の見当違いな発言が「ポエム」と称され、むしろ揶揄の対象になってしまってさえいる。だが、詩情を求める心は、けっして人々の胸から消えてはいないのではないか。たとえば映画や音楽、マンガやアニメやゲームといったサブカルチャーから、現代の日本人は詩的なものを摂取しているように見える。
「詩情とは何か」とは難しい問いかけであるが、社会の功利主義や合理主義に染まり切れない思いに寄り添うものだとすれば、それは今を生きる人間の胸中にも必ず存在するはずだ。芭蕉俳諧のキーワードである「不易流行」になぞらえていえば、詩がどういうかたちで流通するかは「流行」によるが、人々が詩を求める心は「不易」なのだ。芭蕉の句は、この「不易」に届いているからこそ、現代でも愛誦されている。人々の詩を求める心に俳句が応えていくために、芭蕉俳諧は大きな啓示を与えてくれるだろう。
芭蕉は禁欲的な求道者とみられる傾向があるが、しかし、その句は実際には感情豊かだ。自然や人間との交歓を喜び、離別のさいにはめいっぱい悲しむ――私たち庶民と変わらない感情を、たびたび詠んでいる。また、時間表現も実にヴァリエーション豊かで、従来言われているような瞬間的な映像の切り取りに加えて、動画的に対象の変化をいきいきと捉えたものも多数ある。さらに、宇宙的で壮大な時間を取り込むという試みも成しているのである。
近現代の俳句からは失われてしまった表現方法も確認できる。一句の主体をあえて明確にしない、あるいは、虚構的な主体を創出することで、自在な表現を展開しているというのがその一つだ。自分というものにこだわる現代人にとっては、これは異質なものと映るかもしれないが、新たな表現を模索する上で、参照されるべき方法ではないだろうか。また、その句が向き合っているものは、人間の理解の及ぶところのないナマの自然にも及んでいる。これまでの文学は、人間ドラマを中心に据えてきたが、地球規模の問題が浮上している今、自然について考える文学が見直されたり、新しく書かれはじめたりしている。俳句という極小の文学は、人間の関係性よりもむしろ季語を通して自然の神秘に向き合っており、今の時代にも参照されうる知見に満ちている。芭蕉句は、近年提唱されている「エコクリティシズム」のさきがけともいえるのだ。
ほかにも、誇張された苦痛の表現、俳句を通しての俳句観の表現といった、芭蕉ならではの表現も、俳句の可能性を示唆している。本書を「隠された芭蕉」というタイトルにしたのは、実作者や研究者に従来あまり注目されてこなかった表現方法から、次代の新しい表現を切りひらくアイデアを探ろうとしたからだ。いまさら芭蕉の句のマネをする必要はないが、その多彩な表現方法を、埋もれたままにしておくのはいかにも惜しい。
私が実作者として芭蕉の句に触れていちばん刺激を受けるのは、言葉で一つの世界を創り出そうとすることへの強靭な意思だ。季語の伝統や切れ字の約束事は、十七音を生かす有効な手立てであるが、それに拘泥することなく、のびのびと柔軟に言葉を使っている。これは稀有なことであり、私が芭蕉を革新者と位置づけるゆえんである。私たちは日頃、想像以上に他者の言葉に影響されて生きている。詩人とは、他者の言葉にたよることなく、自分の言葉を創り出そうとする者の別名であるが、その意味で芭蕉は詩人であった。
歴史学者のハンナ・アーレントが、収容所のユダヤ人大量虐殺にかかわったアドルフ・アイヒマンを凡庸な悪と名指したことはよく知られているが、その凡庸さが、彼の言葉遣いに表れていることを指摘している。アーレントによれば、アイヒマンは警察の取り調べの中で「紋切り型ではない文以外は全然口にすることができなかった」という(大久保和郎訳『エルサレムのアイヒマン』みすず書房、2017年)。自分の言葉を持たない者が、大きな声で叫ばれる言葉に取り込まれていく。このことは、戦時を遠く離れた、現代日本に生きる私たちにも突きつけられている。
いつの時代においても、「言葉の力」が人を生かし、社会を動かす。たとえ俳句に関心がない人にとっても、あるいは、俳句というジャンル自体が滅んでしまった未来の人にとっても、芭蕉の句や、その後の俳句の歴史が生み出した「短い言葉でいかに人の心に訴えかけるか」についての英知は、有益であるに違いない。本書が、その英知に少しでも届いていればと願ってやまない。
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