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福沢諭吉を支えたもう一人の知の巨人 小幡篤次郎

「慶応義塾あることを知るもの、必ず小幡篤次郎君あることを知り、福沢翁の名を知るもの、誰か君の名を記せざらん」

明治23年3月5日付『朝野新聞』

福沢諭吉から厚い信頼を置かれ、異心同体のコンビネーションで慶応義塾の草創期を導いた、小幡篤次郎(天保13〔1842〕~明治38〔1905〕年)という人物がいました。その評判は慶応義塾内に留まらず、同時代人から一級の知識人として一目置かれる秀才でした。

福沢諭吉にヘッドハンティングされた逸材

小幡は、豊前国中津(現大分県中津市)で、中津藩士の子として生まれました。幼少期から父に四書五経の教えを受け、16歳のとき藩校進脩館に進学し、漢学を修めていました。

福沢に見いだされたのは、進脩館教頭として教育に従事していた元治元(1864)年、当時23歳のとき。福沢は幕府使節団として随行したヨーロッパから戻り、協力者を求めて中津を訪れていたところでした。弟の仁三郎(のち甚三郎)ほか5名と共に出府し福沢の塾に入学しました。

2年後の慶応2(1866)年には早くも、当時学生代表のような存在であった塾長を務め、同年には幕府開成所の英学教授手伝となっていました。中津では漢学を修めていた小幡ですが、英学を学ぶのは入塾してから。にもかかわらず、わずかな間にそれを修得し、4年には弟甚三郎と共著で『英文熟語集』を著しています。

幕末から明治初年にかけて入塾した永田健助らの回想では、小幡は福沢の講義に学生として出席する一方で後進の指導にも当たっていました。慶応義塾で現在も掲げられる精神の一つ「半学半教(教員と学生は、半分教えて、半分学び続ける存在)」の中心的役割を果していたのです。

福沢が信頼する“右腕”に

ベストセラーとして名高い『学問のすゝめ』初編(明治5年刊行)は、「同著」として小幡の名が記されています。同書はもともと旧中津藩士に向け学問の重要性を説くために書かれたものであり、同藩上士の家柄であった小幡の名を借用したとするのが通説ではありますが、小幡の学識に対して福沢の信頼は厚かったとみられています。『文明論之概略』緒言には小幡の閲読を乞い、添削を受けて理論の「品価」が大いに増したと述べています。

「世務諮詢(せむしじゅん)」を目的とした結社「交詢社」の設立にも大きな役割を果たしました。小幡は幹事として実質的に交詢社の運営の中心にいました。教育者としても、義塾外の教育機関でも重要な役割を担いました。中津市学校の校長や東京師範学校中学師範科の創立に際しての校務などにあたり、福沢の死後も慶応義塾社頭として発展を支えました。

小幡篤次郎が残した著作

小幡は海外の最新の著作に触れ、自然科学、社会科学に関する書物を翻訳出版しました。『天変地異』は、地震や雷といった身近な天変地異に対する人々の迷信を正し、科学的知識や思考の普及を促した書で、学校の教科書としても推薦されました。また、フランシス・ウェーランドによる経済書『英氏経済論』や、J・S・ミルの著作を翻訳した『弥児氏宗教三論』などの翻訳書も手掛けています。開国後の日本に様々な海外の知見を持ち込むことで、近代化の促進を図りました。

2022年、小幡のこれまでの著作をまとめた初の著作集『小幡篤次郎著作集』(全5巻)の刊行が始まりました。(発行:慶應義塾・福澤諭吉協会、発売:慶應義塾大学出版会)

第1巻

第1巻~5巻の主な収録著作は以下の通り

第1巻:天変地異、博物新編補遺 など
第2巻:弥児氏宗教三論、上木自由之論 など
第3巻:英氏経済論
第4巻:小学歴史階梯、日本歴史、書簡集 など
第5巻:英式艦砲全書、舶用汽機新書、年譜 など

2022年5月現在、第1巻が発売されています。

↓詳しい情報はこちら

これまで著作集や伝記といった業績を伝える書籍がなかったことや、福沢の存在があまりに大きかったために、小幡について語られる機会が多くはありませんでした。慶応義塾内でさえ認知度が十分ではなく、当著作集の編纂が始まったことで初めて発見された著作もあります。この著作集の刊行をきっかけに、多くの人に小幡のことを知ってもらうこと、また近代日本における知の拡がり、教育活動の実態と小幡の業績がより深く研究されることが期待されます。

参考

慶應義塾福沢研究センター通信 第32号 2020年4月30日http://www.fmc.keio.ac.jp/news/tsushin32.pdf

近代日本の中の交詢社|慶應義塾大学出版会

近代日本研究 21号 2004年
「小幡篤次郎の思想像 : 同時代評価を手がかりに」住田孝太郎


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