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連載第8回:『結婚の哲学史』第2章フーリエ第2節フーリエ思想の基本的構図

 結婚に賛成か反対か、性急に結論を下す前に、愛・ 性・家族の可能なさまざまなかたちを考える必要があるのではないか。昨今、結婚をめぐってさまざまな問題が生じ、多様な議論が展開されている現状について、哲学は何を語りうるのか――

九州産業大学で哲学を教える藤田先生による論考。今回は前回の補足から、フーリエ思想の基本構造を探ります。

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 前回の流れが分かりにくかったかもしれないので、ここでまとめ直しておこう。
 シャルル・フーリエには或る意味でヘーゲルの裏面と言えるような側面がある。革命とナポレオン的英雄に陶酔したヘーゲルの弁証法は、対立・否定・葛藤・矛盾とできるかぎり向き合い、正・反・合の論理的ワルツの三拍子を通して世界のありとあらゆる要素を包含しようとする側面をもっていた。これに対して、フランス革命とその動乱によって全財産を失い、産業革命の負の側面を憎みつつ猫と花を愛で続けたフーリエの弁証法は、あらゆる手段を尽くして対立・否定・葛藤・矛盾の種となる要素をできるかぎり排除し、セリー的行進(マーチ)の二拍子の(ただし微妙な重みづけを伴った)組み合わせを通じて、世界のありとあらゆる要素を取り込んでいく。私たちはこのような両者の関係をヘーゲルの「フーリエ変換」と呼べるかもしれない。
 フーリエとヘーゲルの関係は、マシュレが「準ヘーゲル主義」(quasi-hégélianisme)と形容する(Macherey 2013, chap. XV)プルードンの思考を両者の間に置いて考えると、より正確に理解できるように思われる。これまたごく図式的に言い切ってしまえば、ヘーゲル弁証法が対立・葛藤・否定・矛盾を真っ向から受け止めようとするものであり、プルードンのセリー的弁証法がそれら(彼がカントから借りた言葉で言えば「アンチノミー」)をセリーの組み合わせで解消しようとするのに対し(Tobgui 2011;金山 2016)、フーリエ的弁証法とは、セリーの組み合わせで先回りをしてそもそも対立自体を生まないシステムを構築しようとする弁証法なのである。

第二節 フーリエ思想の基本的構図

 シャルル・フーリエは、一般には“空想的社会主義”ないし“ユートピア社会主義”の代表者として有名だが、私の考えでは、フーリエの思想は、労働と余暇の境界、やりがいと搾取の境界が限りなく曖昧になった現代社会の重要問題に対して先駆的洞察を展開した異形の思想である。先に「四つの林檎」の逸話で軽く触れたが、フーリエはその主著『四運動の理論』(1808年)において、万有引力の法則があらゆる物理的運動を解明したように、「情念引力」の法則を解明すれば、あらゆる社会的運動のメカニズムが理解されると考えた。社会が個人を規制するのではなく、個人の情動が限りなく満たされる社会を構想しようとしたのである。ごく図式的に言えば、今の社会=文明社会=理性によって感情を抑制し制御する社会はベストではなく、未来社会=調和社会=感性のメカニズムを解明し、それに従って制御された社会のほうが無限に豊かであるということだ。

四運動

 フーリエの代表作は、彼が1808年に匿名で出した処女作『四運動の理論および一般的運命の理論』である。「四運動」とは、宇宙を支配する社会的、動物的、有機的、物理的運動である。第四の物質的運動が「万有引力の法則」によって説明されるように、彼自らが発見したとする社会的運動の法則を、「情念引力」(attraction passionée)に基づいて、宇宙論的スケールで説明している。ここで「情念」とは、人間固有のさまざまな衝動や欲求、「引力」とは、自然の法則を意味する。したがって、「情念引力」とは、人間の行動を支配する法則のことである。フーリエが自分をニュートンに比したのは、彼がニュートンの「万有引力」に匹敵する「情念引力」を発見したと自負しているからである。

情念の理論(ルソー vs フーリエ)

 伝統的なキリスト教は情念を蔑視し、その力を正しく認識できなかった。18世紀には情念擁護が一般的となったが、自由な社会をつくるには理性が情念に何らかの制約を加える必要があると考える点では変わりがなかった。ルソーをはじめとする啓蒙思想家たちは、スパルタ的・ストア派的(禁欲的)な節制・克己・自己鍛錬による情念の抑制・抑圧を唱える学説を提唱してきた。けれどもそのような抑圧的学説こそが文明人の困窮の主要原因の一つなのだ。情念は充足されるのを求めており、どれほど「合理的」抑圧を行なおうが、その結果はいつも有害で破壊的である。衝動は永遠に変えたり抑圧したりできず、幸福で調和的な社会とは唯一、情念を解放し利用する社会だ、とフーリエは言う。情念が惹き起こすかに見える悪はほとんどすべて、その抑圧の結果なのだ。ルソー同様にフーリエは、人間の本性上善良な情念は、人間自身の産物である諸制度と諸観念によって堕落させられたと考える。だが、ルソーとは異なり、この堕落を不可逆的とは見なさないのである。

情念の解剖学

 さて、社会の基礎が「情念引力」にあるなら、必要なのはその厳密な再分類である。フーリエによれば、文明社会では知られていないが、根本的な情念は12ある。
5つの感覚的情念(①味覚~⑤嗅覚)、4つの感情的情念(⑥友情、⑦恋愛、⑧野心、⑨家族愛)、そして3つの機制的情念(⑩密謀情念、⑪蝶々情念、⑫複合情念)だ。それぞれ簡単に解説を加えておこう。
 (1)五つの感覚的情念(①味覚、②触覚、③視覚、④聴覚、⑤嗅覚):これは、モノへ向かう衝動である。普通の哲学者は視覚に優位を置くか、触覚に優位を置くかのいずれかだが、フーリエは「味覚」こそが最重要の感覚であり、「人が享受する最初にして最後の愉しみ」だとまで言う。
 (2)四つの感情的情念(⑥友情、⑦恋愛、⑧野心、⑨家族愛):これはモノではなく、他の人へと向かい、人々を集団へと結びつける衝動である。それぞれ、幼年期・青年期・壮年期・老年期の基調となる。後でも強調するが、私たちの「結婚の哲学史」にとって重要なフーリエの問題提起は、⑥⑧⑨は「人数が多ければ多いほど良い」とされるのに、なぜ⑦だけは例外とされるのかということであった。
 (3)三つの機制的情念(⑩密謀、⑪蝶々的情念、⑫複合情念):これもフーリエの特色をなす分類で、現在の文明社会では有害で破壊的でしかありえないが、未来の調和社会では社会機構を制御する(機制的)創造的な役割を果たす衝動となるという。
「密謀情念」は、競争と企みの精神で、仕事への刺激となる。「密謀」などというとおどろおどろしいが、私たちの社会でも「サプライズ好きな人間」といった類型を考えてみれば、十分に成り立つ話である。
「蝶々的情念」は、蝶のように一定時間ごとに変化を望む衝動である。これも長らく最も反発を呼んだ概念だが、ますます切り替えを早め「気に入らない人間関係はミュート、ブロック、フォロー解除」を基本的な精神状態とする人間が増えている現状とかなりマッチしている情念分類ではないだろうか。
 「複合情念」は「最も理性に敵対的」で「盲目的」な衝動であり、物質的快と精神的快の混合の内にのみ見出せる幸福への欲望である。「複合情念は十二情念中、最も美しい情念であり、他の全情念の価値を高めるものだ。恋愛情念は、それが複合情念である場合のみ、つまり感官の魅力と魂の魅力を結びつけるときにのみ美しい。二つのばねのうち一方に限られていれば、下品か欺瞞になってしまう。野心は栄光と利益という二つのばねを作動させているときにのみ輝きを放つ」。

情念による社会の再編成

 先に見たように、フーリエは、情念による社会の再編成を企図した。現在の文明社会とそれを構成する「壊乱的集団」の退廃の原因は、情念そのものではなく、情念の非合理的な抑圧なのであって、未来の調和社会は、年齢・財産・知性を異にするが同じ情念を共有する人々の集団の組み合わせ、「ファランジュ」と呼ばれる生産・消費共同体を軸に再編成されるべきだというのだ。要するに、彼の文明社会批判も、ユートピア建設計画も、ともに彼の理論体系全体の核にあるこの「情念引力の理論」に依拠しているのである。

美食学のフーリエ弁証法

 このように言っても、なかなか具体的なイメージが湧かないかもしれない。そこで、〈食〉を例にとって、私が冒頭で述べたフーリエ的弁証法の実相を見てみよう。〈あらゆる手段を尽くして対立・否定・葛藤・矛盾の種となる要素をできるかぎり排除し、セリー的行進(マーチ)の二拍子の(ただし微妙な重みづけを伴った)組み合わせを通じて、世界のありとあらゆる要素を取り込んでいく〉弁証法とはどのようなものか。フーリエの狂気が冴えわたる。

 ご馳走とは、要するに量なのか質なのか。疑う余地もなく、質である。であるなら、次の食事の邪魔になるようなものはすべて、量的過剰になり、健康法における悪習になる。よい料理を食べ、よいワインを飲む目的とは、消化を速めるということであるべきであり、次の食事をとりたいという欲望を遅らせるのではなく、それを促進するということであるべきである。(…)調和世界では、そういう考え方が美食学の叡智の何よりの基礎になる。真の賢者ならいつでも食欲があって当然である。そして、それにもかかわらず、真の賢者は一日9回、5回の食事と4回の間食をしっかりとるのだ。

フーリエ2013:166

お分かりいただけるだろう。食欲の妨げになりそうなものをできるかぎり排除し、その結果、美食がますます高められていく。疑う余地もなく「質」が重要であると断言した舌の根も乾かぬうちに、真の賢者は一日9回食事をとると言い出す。したがってもちろん質が常に重要ではあるが、そのうえで量も最大化していくのである。より美味なものを、より早く消化し、より頻繁に味わう。ここにはヘーゲルのものとはまるで異なる弁証法がある。
 ちなみに、こういった美食学の場面でも「セリー的行進(マーチ)の二拍子の(ただし微妙な重みづけを伴った)組み合わせ」は顔を覗かせる。こんな具合である。

 パリ人たちは卵の調理法を42認めている。調和人なら、その種類を104と諸中枢まで増大させ、卵から第四累乗の料理をつくりだすことができよう。第四累乗の料理とは、404の方法について長調と短調の区別を行ない、長調に415、短調に395の、合計810個の体質の各々に適用しうるものなのである。

フーリエ 2013:172

これでもまだ十分ではない。なぜなら食欲の妨げになるものを排除することは、未だ否定・対立・葛藤・矛盾ではないからである。では、本格的な対立はどのように描かれるのか。フーリエは、調和世界における「美食戦争」なるものについて熱弁をふるっている。

32カ国からやってきた32の軍隊が、ティグリス・ユーフラテス河に堤防を築くため、カルデア地方とメソポタミア地方に集まるとしよう。各軍隊は築堤と特別な工事という共通の作業に従事するかたわら、産業・美術・恋愛等について公開討論を行なう。(…)ある国が三つのものについて地球全土に向けて挑戦状をたたきつける。つまり小パイ、うまく取り合わせられたオムレツ、甘いホイップクリームの三つである。

フーリエ 2013:407

では、この「美食戦争」はどのように展開するのか。一方では、「公開討論の課題に選ばれた料理のそれぞれが、諸国が激論を戦わせ、栄冠を目指して相争う対象になる」。だが、他方で、「甘いクリーム菓子とか小さなパイの栄冠をめぐるこの会戦」は、「雨あられのごとき大量の血が流された」「われわれの宗教戦争」のような凄惨な結末には決して至らない。

 しかしながら、ホイップクリームの栄冠をめぐって相争うときには、諸国の軍隊はどんな荒廃を招くこともないし、それどころか本当に有益な目標にたどり着くのである。というのも、どうすれば健康法の掟に沿うようにそれぞれの料理をさまざまな体質に合わせて取り合わせることができるかを知らなくてはならないのだし、さまざまに段階づけられた体質にうまく合うような数々の変種を出品することに最も成功したのはどの国だったのかを明らかにすることが重要だからである。軍隊が行なう息抜きと競争心の課題として選ばれたこの手の討論には「益にして快」という教えにかなっているという利点がある。

フーリエ 2023:413-414

こうしてフーリエにおいては、より本格的な否定・対立・葛藤・矛盾さえも、やはり潤滑なシステムのうちに解消されていく。では、以上のような美食戦争はまったく非現実的なものなのか。今や世界のあらゆる国・地域に美食を採点するサイトがあり、人々は熱心にそれらのサイトに自らの評価を書き込み、他人の評価を参考にして現地に足を運ぶようになっている。フーリエの「予言」は或る意味で当たっているとは言えないだろうか。

旅行という忘却

 もう一つだけ、今度は短めに例を挙げておこう。飽和した私たちの物質社会では、すでにある程度達成されていると言える、上記の(1)感覚的情念の例である。これについてはバルトが指摘している。『サド・フーリエ・ロヨラ』の一節を引こう。

 フーリエの時代には、フーリエ主義のシステムは何一つ実現されていなかった。しかし、今日ではどうだろう。〔彼の思い描いた〕隊商宿(キャラバンサライ)、群衆、こぞって快適な気候を求める姿勢、レジャー旅行は〔今や〕存在している。軽蔑的な、そしてむしろ非道な形で。それはすべて手配済みのパック旅行である。

Barthes 1971

「ある程度」と留保したのは、もちろんそれがフーリエの望んだ理想からは程遠い皮肉な形で実現されているからである。「フーリエ主義のユートピアには、大衆社会によって茶番劇として実現された二重の現実がある」というバルトの言葉はその皮肉な現実を指し示している。観光は、政治を「忘れた」ことにする幻想的システムがその正当な代償として与えてくれる身代金であると同時に、政治は、われわれの快楽を「計算する」ことを組織的に「忘れる」ことによって、それに報いるのだとバルトは言う。この2つの「忘却」の間で私たちが楽しむツアー旅行は、バルトに反論できるほど「完全な無益さ、耐え難い空虚さ」から抜け出せているだろうか。

狂人か預言者か――選択的な拡大家族

 おおよそフーリエ思想の基本的構図が理解されたところで、少しずつ愛・性・家族の問題圏に迫っていくことにしよう。『愛の新世界』においてフーリエは、12情念の中でも最も問題となるのが「恋愛」であると指摘する。なぜなら、文明社会においては、〈友情〉や〈家族愛〉は言うに及ばず、〈野心〉さえも――「野心」や「上昇志向」と言えば聞こえが悪いが、「大志」や「夢」と言えばどうだろうか――その拡大路線を手放しで肯定されている。それなのに、〈恋愛〉だけが一夫一婦制と結びつき、排他的で限定的な、フーリエによれば「ひどく貧しい」制度であるからだ。社会編成のレベルで言えば、調和集団では、「基調的情念」(その人の本当の情念)が「主音的情念」(表面に現れる情念)と一致するのに対して、壊乱的集団では異なる。文明社会における家族は、名目上は「愛着と信用の絆」で結ばれているが、実際には物質的な必要と社会的な慣習によって一緒にいるにすぎない、というわけである。情念の分類に従って、もう少しだけ詳しく見ておこう。
 (2)感情的情念に関しては、文明社会では〈野心〉は邪悪な形をとり、〈友情〉と〈恋愛〉は、一夫一婦制と結びついた〈家族愛〉によって挫折させられている。ひどく貧しい(とフーリエが考える)結婚制度が調和社会において廃止されるにともない、〈家族愛〉は新しい非抑圧的な形態をとる。
 また、(3)機制的情念に関しては、快から快へ飛びまわろうとする〈蝶々情念〉の抑圧によって誰よりも苦しんでいるのは、文明社会の結婚制度において一人の相手と縛りつけられている人々である。
 以上の分析を踏まえて、フーリエは現在の文明社会で非難されている社会関係が調和社会においてまったく異なる評価を受けることになると予言する。

今やこのうえない非難の的になっている不貞属を論じるべき時である。つまり多婚すなわち複数の恋愛を同時に営むものだ。このいわゆる悪徳は調和世界では華々しい役割を帯びる。

フーリエ 2013 : 328

勘違いしてはならない重要なポイントだが、フーリエは、調和社会における一夫一婦制の廃止を唱えているのではなく、その「強制」の廃止、すなわち選択的な家族制度を唱えているのである。

調和世界の徳とは、あらゆる種類の絆をできるかぎりたくさん形成することにある。すなわち、排他的絆における恋愛が必要だとしても、隊商宿の恋愛のように、複数の絆における恋愛もまた必要なのである。したがって社会的完成とは、釣り合いを生み出すのに適した人数の公職者をそれぞれの恋愛属に配属することにあるのである。

フーリエ 2013 : 329

単婚を望む人もいれば、複婚を望む人もいる。その人にあった生き方が選べる社会を目指すべきではないかということだ。文明社会では、〈嫉妬〉が〈契約〉〈所有〉=〈一夫一婦制の強制〉によって強化され、その結果、蝶々情念が強い人々にとって苦しい社会となっている。これに対し、調和社会では、〈嫉妬〉が〈名誉〉〈共同・協働・共生主義〉によって乗り越えられ、一夫一婦制「強制」の廃止、選択的な家族の多様化が推進されるというわけだ。

 では、なぜ文明社会では一夫一婦制だけが唯一の選択肢とされるのか。もちろん、これには複数の要因が考えられるが、フーリエの「情念の政治学」の観点から考えればどうだろうか。よく知られているように、フーリエの最も独創的な理論的貢献の一つは、「蝶々情念」(papillonne)をはじめとする、「密謀情念」(cabale)や「複合情念」(composite)といった、集団形成や生活設計において一定の規則に基づいて行動しようとする情念、「系列」(série)への傾向あるいは「配分情念」(passions distributives)と呼ばれる情念の重視だが、これらの情念が文明社会において非難される最大の理由は、それらが〈個人〉は不変の同一性・個体性を持つはずであり、持つべきであるという文明人の信念に反するからである。

 最後に、次節の予告をして締めくくることにしよう。
 フーリエは、結婚の哲学史においていかなる位置を占めることになるのか。最初に概括的な見通しを与えておけば、『四運動の理論』や『愛の新世界』で描き出されたユートピア的な共同体「ファランジュ」において、契約・所有・個人の概念は完全に放棄されるのではなく脱構築され、結婚は大きく形を変える。すなわち結婚は、多夫多妻制である「多婚」あるいはその究極形態である「全婚」にまで拡大され、一夫一婦制はその中に吸収されていく。私たちが特に注視したいと考えているのは、そこに見られる人間観の変容である。

※ 次週3月22(金)の連載はお休みします。次回は3月29日(金)に公開予定!お楽しみに!

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