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 こんにちは。ドウデュースの強さにドン引きしております、2年森内です。エフフォーリアは心配ですね。好きな馬なので元気になってほしいと思います。

 さて、今回のブログですが書きたいことも特にないので、最近考えたことをつらつらと書いていこうと思います。今が充実しているとか、毎日が楽しいという人には水を差すようなことを書くかもしれません。そういう人は、ブラウザバックをして、引き続き楽しい毎日を送ってください。人生楽しくないとか、生き辛さを感じている人がいれば、もしかしたら影響を与えられるかもしれません。暇があれば読んでください。それでは、本文にいきましょう。


ビビってる


 「考えすぎ」とよく言われます。自分の中では、これが当たり前のつもりなのですが、周りからは考えすぎているように見えるようです。

 「本当にそうなのかな?じゃあ、周りの人はどのくらい考えているのかな?」

 気付いたら考えていました。多分、こういうところなんでしょうね。“考えすぎ”を自覚したので、この際、“考えすぎ”について、とことん考えてみました。

 ぼくはSNSをやってないのですが、その理由も“考えすぎ”です。例えば、自分が作った料理をSNSにアップすると仮定すると、
「イキってんじゃないよって思われないかな?料理下手だなって思われないかな?」という思考が駆け巡ります。

 誰かと遊んだことをアップすると仮定したら、
「楽しいアピールするなよって思われないかな?その場にいなかった友人は嫌な気持ちになるのかな?」といった思考が駆け巡ります。

 そういったことを考えていると気持ち悪くなっちゃうのでSNSをやりたいとは一切思いません。

 このブログに関してもそうです。冒頭で書きたいことがないと書きましたが、正確にはネタはあるけど、書くのは憚られるという表現が正しいです。「これ書いたら、こういう風に思われるかな?」とか「これ書いたら、まずいかな?」と考えてしまい、何も書きたいとは思わなくなります。

 多分、SNSをやる人はこんなことは考えないのでしょう。きっと、

「こんなものを作ったから、見てほしい」

「遊びが楽しかったから、アピールしたい」

「こんなことを考えているから、知ってもらいたい」

 という風に考えるのでしょう。別にこの価値観を否定するつもりはないし、立派だと思います。理解はできないけど。
 
 ここであげた自分の思考に共通するのは、「~したら嫌だな」「~したらどうしよう」といった具合に、リスクに焦点が当たっていることです。これは日常生活でもそうで、ぼくは常にリスクに目を向けて生活しています。
 じゃんけんだって、ジュースが得られるリターンや、やっている際のスリルより、お金が減るリスクの方に目を向いてしまっているからやりません。還元率が45%の宝くじなんて言語道断です。

 “考えすぎ”の正体はどうやらネガティブ思考のようです。ここまで考えて自分が何かに怯えているように感じました。他人の目?自分自身?色々考えてみましたが、どうもしっくりきません。それは、もっと大きくて、もっと恐ろしいような気がしました。

ぼくは雲丹でした


 『オードリーのオールナイトニッポン』が好きで毎週聴いています。ラジオでの、お2人の雰囲気が完全に男子校の休み時間なので、「懐かしい~」という気持ちになって、たまりません。毎エピソードトーク面白くて、毎回ケタケタ笑わせてもらっていますが、最近だと、やはり“ディズニーシー”は傑作でしたね。(語り始めたら止まれないのでここら辺にして、、、)

 こんなことを言うのもおこがましいですが、ラジオを聴いていて自分は若林さんと考え方が似ているなと感じることが多々ありました。そこで、若林さんのエッセイ集を買って、読んでみました。
 「そう!そう!そう!そう!!」と共感してしまうような話や、袖を濡らしてしまうような感動する話など、とても勉強になって、かつ面白く読ませていただきましたが、その中で特に印象に残った言葉がありました。

 それは、若林さんが「牡蠣がなぜ逃げないのか?」という問いを投げかけた際に、とあるおじいちゃんから言われた言葉なのですが、

 この世に存在する理由には2つあって、1つは何かをしているから存在していいということ。2つ目は生まれてきたら、なんの理由もなく存在していいということ。
 リストラされたりして自殺しちゃったりする人は1つ目の理由が全てだと勘違いしている。

若林正恭『社会人大学人見知り学部 卒業見込み』より

というものです。

 この言葉を読んだときにハッとして、

「ああ、自分が怯えていた正体は、これだったんだな」

 そう、確信しました。

 
 現代社会において、我々は常に競争させられています。受験、成績、スポーツ、年収…。
 いわゆる“ステータス”と呼ばれる、可視化された価値が与えられ、常に他人と比べられます。そして、我々は競争に負けないように、価値を高め、時には実際の価値より大きく見せることが求められます。

 しかし、ぼくは昔から競争させられることが理解できませんでした。

「どうして、テストの点数が良いと褒められて、悪いと怒られるのだろうか?」

「どうして、サッカーの試合に負けたら怒鳴られないといけないだろうか?」

「 “良い”大学に行って何の意味があるの?」

 多分、物分かりのいい人なら、「そういうものだから」で済ませることなのでしょう。しかし、物分かりの悪いぼくは納得できませんでした。(若林さんのエッセイ本で、新自由主義(資本主義)と競争は相性が良かったからという説明があって、むちゃくちゃ納得できました)

 そのため、競争の中に放り込まれて、自らの価値を高めるよう仕向けられても、「どうして、こんなことしなきゃいけないのだろう?」と、そんなことばかり考えて、それに没入できませんでした。昔から「気持ちで負けるな」とか「君なら出来る」と言われても、なぜか全然しっくりこなかったのですが、こういう理由があったようです。

 そして、競争の意味は分からないけど、いや競争に没入できてないからこそ、価値というものに固執していました。なんで、競争しなきゃいけないのか、意味が理解できないからこそ、自分がその競争に負けたらどんな仕打ちをされるか分からない。だから、常に何かをして価値を生み出して、存在を承認してもらわないといけない。そう無意識下で考えて行動していました。

 振り返ってみると、自分の行動基準は金、効率、生産性でしかありません。人の顔が¥に見えていることすらあります。そんなことを考え続けた結果、内向的で協調性もない完璧主義の残念な人間が出来上がっていました。

 ぼくが怯えていたのは、他人の目でも自分自身でもなく、無価値になることだったのです。

“幸せな人生”


 高校生の時の倫理の授業で“成功した人生”と“幸せな人生”ということについて学びました。内容は全然覚えてないですが、この2つの単語だけは、はっきりと覚えています。(授業してくれた神父様は“魂の授業”みたいなことを言っていた気がするけど、、、ごめんね。それと、今から多分伝えたかったこととは違うことを書いていくけど、、、ごめんね)

 この2つの単語について、当時の自分は、「はい、はい、愛はお金では買えないとか、いつものやつね。」と斜に構えながら聞いていたと記憶していますが、それは半分正解で半分不正解だと思います。
 “幸せな人生”には、もちろん競争に勝ち抜くといった“成功”とは次元の違う、“愛”といった価値には変えられない充足感は必要です。しかし、それだけではなく、競争も幸せに感じることも必要なのです。

 知ったような口を利くんじゃないよと言われるかもしれないですけど、春日さんは“幸せな人生”を歩んでいる人の代表例だと思います。これもエッセイ本に書いてあったことですが、オードリーさんが、売れてなかった20代の頃、全然努力をしていなかった春日さんに対して、若林さんが「28にもなって風呂無しアパートで恥ずかしくないの?」と努力をするよう促したところ、3日後に「どうしても幸せなんですけど、不幸じゃないと努力ってできないんですかね?」と電話をしてきたそうです。ゲームが出来たり、仲間と遊べたりすることが楽しくて、それで十分幸せだったらしいです。これは、“成功”という枠組みを超えた充足感が得られている証拠です。

 そして、競争の中に放り込まれても、ネタ作り以外は何の疑問も持たずに頑張ることができます。K-1、潜水、フィンスイミング、東大受験、エアロビ…。
 ただ言われたことを全力で頑張る。さすがは、日本教育の最高傑作。競争させられるということが全く苦ではないのです。もはや、競争させられているという感覚すらないのかもしれません。ただただ、自分の価値を高めることを楽しんでいる、自分磨きをしているような感覚なのかもしれません。

 このように、春日さんは“成功”とは無縁の幸せを感じられる、そして競争そのものも幸せに感じられる、という競争を超越した存在なのです。

 だからこそ、競争に疲れている自分は、春日さんを見ていると癒される。自分と全く違う(全部話したくなっちゃう所とハカキンさんなところは一緒ですが)からこそ、憧れる。ぼくだけではなく、他の多くの人が同じような感情を抱いているからこそ、あのギャグの数でテレビに出続けているのでしょう。

 さて、競争をも楽しめる人が“幸せな人生”を送れるのはよく分かりました。では、ぼくのように競争に疑問を持ってしまう“考えすぎる”人は競争社会において“幸せな人生”を送ることはできないのでしょうか?

 ぼくも認めたくはないですが、答えは「はい」なのでしょう。もちろん、時間や出会いによって競争への疑問が解消されることもあるかもしれません。しかし、ぼくらに染み付いた“考えすぎ”は、そんな簡単に落ちません。それは、これまで幾度となくかけられたポジティブな言葉という漂白剤でも、全く落ちなかった頑固なシミだから。

味方


 (だいぶ間が空いてしまいましたが)そんな、競争社会の中で“幸せな人生”を送れない人のために、存在していい理由の2つ目が大事なのだと思います。

 競争をさせられて、価値を高めることを求められても、その競争自体に疑問を持ってしまい、価値を高めるという行為に没入できない。恐らく、その疑問は正解なのでしょう。競争に意味なんて、初めからないのです。

 ただ、社会を発展させるために競争が有用で、人間が競争を好きだから、ぼくたちは競争させられているのです。だから、今までのぼくのように「自分に価値がなくなったら死んだ方がいいや。」と思っている人こそ、肩の力を抜くべきなのです。意味が理解できないからこそ失くなることが恐ろしい、その“ステータス”は、お飾りでしかないんだと、安心するべきなのです。

「生まれてきたら、なんの理由もなくこの世界に存在していい」

気付いたら頬を涙が伝っていました。

「自分が求めていたのは、価値を高めることを勧める言葉や、価値を認める言葉ではなく、存在そのものを認めてくれる言葉だったんだ。『君ならできる』『すごいね』といった気分を上げてくれる言葉を求めていたのではなく、『もともと特別なOnly one』と安らぎを与えてくれる言葉を求めていたんだ。若林さんの言葉を借りるなら、どんな時も味方でいてくれる“絶対的な味方”を求めていたんだ。」

 それに気付いてから、自分だけは自分の“絶対的な味方”でいようと決めました。価値を失うことに恐怖を感じた時、生き辛さを感じた時、散歩をしながら「君も存在していい」「もともと特別なOnly one」と呟くようにしました。そしたら、ネガティブな感情と引き換えに、いくらかの心の余裕を手に入れることができました。

 見方によっては「気合が足りない」「逃げてる」と言われるかもしれません。そして、その指摘は間違いなく正しいです。でも、全員が全員、そんな風に戦い続けることはできません。ぼくみたいにネガティブで、他人から言われて嫌だったことを10年以上覚えている(というより根に持ってる)ような奴は、傷つく度に、避難場所に避難して回復しないと戦えません。

 そういう弱い自分を受け入れることは劣等感や恐怖心を伴います。戦い続けられる人から、陰で馬鹿にされているかもしれません。だけど、誰が何と言おうと、自分が何と考えようと、ぼくが、そしてあなたがこの世に存在していいことには変わりありません。

 だから、どんな戦い方をしてもいい。競争社会を生き抜くために自分なりの戦い方で、自分なりの花を咲かせるために、一生懸命になればいいのです。

それでも奴はやってくる


 競争はどこに居ようとやってきます。「どうしてこうも比べたがる」とため息が出そうになりますが、やってきます。現在進行形で部活や大学の成績、今後は就活、出世、年収などなど死ぬまで付きまとってくることでしょう。

 そんな一生ぼくに片想いをするであろう競争に対して、他の人はどういう風に向き合っているのだろうか。自分なりの戦い方を確立しつつあるぼくは、とても気になりました。(教えてもいいよという人は、ぜひ教えてください!)
 浮かない顔をしているあのサラリーマンには、“絶対的な味方”は居るのだろうか?楽しそうにふざけているあの高校生たちは、競争も楽しめているのだろうか?気になって気になって仕方がありません。

 そんな風に、周りを見渡していたある日、朝練で中学受験に向かうであろう1組の母子とすれ違いました。顔には緊張の二文字が書かれています。そんな顔を見ながら、自分の中学受験の思い出を思い出しつつ、すれ違いざまにこんなことを心の中で呟いていました。

 「大丈夫。君ならできる。気持ちで負けるなよ!」

 寒く薄暗い明け方を照らす朝日が、やけに輝いて見えた、、、という話。


あとがき

 
 書きたいことがないというところから膨らませたら、意外と書けました。考えすぎていることの数少ない恩恵かもしれません。

 読み返してみると、誤解されそうだなと思ったので、一応書いておきますが、別に走りたくなくなった訳ではないので、そこはご安心を。

 それと、為になりそうなことを全然書いてないなと思ったので、1つ。考えすぎそうになったら、その事柄に対して客観的な事実と主観的な事実、そしてそれを引き起こした内的要因と外的要因を書き出します。すると、思考が整理されて、必要以上に自分を責めることがなくなります。考えすぎちゃう人は、ぜひ一度試して下さい。

 さて、次は上原くんです。膝の具合がとても心配です。では、よろしくお願いします。

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