エヴァンゲリオン一周忌に寄せて

執筆:籬桃

 シン・エヴァンゲリオン劇場版が上映されて1年以上が過ぎた。いささか時節外れの気がしないではないが、一周忌ということで、記念にエヴァンゲリオンを振り返ることにする。

旧エヴァについて

 シンエヴァを語る前に外せない話題である。旧エヴァ上映当時、庵野秀明氏はネット掲示板上で殺害予告を受けるなど散々な目に遭い、どうやらエヴァオタク共にひどく嫌悪感を覚えたようである。そういうわけで、Air/まごごろを、君に で庵野氏は、スクリーンを通して我々オタクの姿を見せつけ、最後のシーンで「気持ち悪い」と観客を突き放した。当時の観客は、恐らく目の前で繰り広げられる光景に呆然とし、なんとも言えない後味の悪さを感じたであろう。全人類はLCLに還元され、最終的に残されたものは、赤い海とヒロイン、惣流・アスカ・ラングレーからの、庵野氏からの拒絶であった。しかし、このような後味の悪さは、同時に可能性でもあった。エヴァを自分の中で咀嚼し、解釈する余地があったのである。そういうわけで、旧エヴァ上映後の新世紀エヴァンゲリオンは20年以上に渡って考察、二次創作の温床となった。あのような終わり方をしたことにより、新世紀エヴァンゲリオンは一種の神話となったのである。少なくとも、自分にとってはそうであった。

新劇場版について

 そして、2007年にヱヴァンゲリヲン新劇場版:序が上映されたことで、エヴァンゲリオンというコンテンツは再び息を吹き返した。同年にpixivが開設されたこともあるであろう。エヴァンゲリオンの二次創作が活発に行われていた。2009年に破が上映されたことで、今度こそエヴァンゲリオンというコンテンツはエンタメとして集結すると考えたファンも多かっただろう。しかし、そこからQに至り、再び観客は疑問符のプールにたたき落とされた。そこから2021年に至るまでの9年間は、擬似的に旧エヴァから序上映までの空白期間に近い現象が起こったのではないかと思われる。私がエヴァを初めて知ったのは、Q上映後1年を経た2013年である。やはりアニメ版からQを見たことで二次創作、考察に溺れた。以上を経てのシン・エヴァンゲリオン。渚カヲルが目の前で爆死し、精神崩壊直前のシンジをアスカやらトウジやらケンスケやらアヤナミレイやらが立ち直らせ、碇親子は和解した。そしてシンジは各キャラクターを補完し、最後は真希波・マリ・イラストリアスと手に手を取り合って新世界へ。ハッピーエンド。
 もしかしたら、これで満足できたファンもいるかもしれない。どうやら世間では高評価のようである。というわけで、エヴァを卒業し、現実で粛々と幸せを見つけよう・・・
などと、大人しく感動するには、私は余りにエヴァに浸かりすぎた。空白の年月を重ねたことで、旧エヴァで得た曖昧な気味の悪さと熱気、他者との関係性の中でもがくシンジに対する、祈るような気持ち、そこから思考を反復して満足感に浸る程度には、エヴァに浸かっていた。Qを見ることで、もしかしたらシンでも似たような体験が出来るのではないかと期待していたのだ。
 シン・エヴァンゲリオンで最も罪深いのは、エヴァンゲリオン・イマジナリーを出すことで、フィクションを肯定するポーズを見せておきながら、真にそれを必要とする人間の目の前からは、永遠に破壊し尽くした点である。旧エヴァでは、オタクを真正面から「気持ち悪い」と拒絶した。そこでは、観客と庵野氏、観客とエヴァが向き合い、考える余地があった。しかし、シンエヴァでは観客に向き合うフリをしながら、ただエヴァの撤収作業が行われたように思われる。特に、シンジによる各キャラクターの補完シーンが良い例だ。ベルトコンベアー式にキャラクターがシンジの前に現れてはわかりやすく心中を述べ、とりあえず救われ、その後はシャッターが下ろされる。閉店ガラガラというように。そこには旧エヴァから描かれ続けたキャラクター達の心をすくい取ろうとする意気は全く感じられない。更に質が悪いのは、シンエヴァが表面上綺麗な形に終わったことで、これに批判を加える人間は「二次元に執着するこどおじ、こどおば」の烙印を押されることである。SNSや口コミサイトでは高評価が付けられ、「シンジは成長した」だの、「レイやアスカは自分の幸せを見つけた」だの「健全な」評価が書込まれている。そこでシンエヴァを否定する連中は、現実に向き合えない、ということにされる。恐らく庵野氏は旧エヴァ以降の惨劇を見て学んだのであろう。画面の前に巣くうオタク共の妄想を破壊し、現実にたたき落とすのは、キャラクターを皆殺しにすることでも、主人公のオナニーシーンを見せることでも、ヒロインに罵られることでも無く、身も蓋もない日常的な、平凡な事実を示すことであると。具体的には、ヒロインが知らない間に男を作っているということである。もしくは、ヒロインが特に絡みのない男の子どもを妊娠し、幸せそうにしていることである。このように、スクリーンの向こう側にいる我々の関知しないところで世界は回っており、そこには我々の願望、思い込み、解釈の交わる余地は一切ないということを、暗示的に明示的に示すことで、オタクの希望は雲散霧消したのだ。
 このように、シンエヴァは旧エヴァ同様オタク批判ないしオタクの脳の破壊活動を行ったのだが、1997年と異なる点が一つある。それは、我々オタクに救済の手が差し伸べられることは永久にないということだ。1997年当時は、謎めいた終わり方をしたことで、我々の解釈の余地が存在した。Q上映後も同様である。しかし、今は何もない。そこには、赤くも青くもない荒涼たる大地が広がっているだけである。この先庵野氏が再びエヴァを手がけたとしても、そこには期待も失望も投げかけることはないであろう。そこにはただただ虚無があるだけである。シンエヴァ本編には旧エヴァのあの熱量、狂気は綺麗に拭い去られ、庵野氏は幸せになり、どうやらキャラクター達もそれぞれの幸せを手にしたようである。恐らく、序が上映された時点で気づくべきだったのだ。カラーの経営者となった庵野氏が1997年当時と同じような熱量を持ってエヴァに取り組むことは出来ないということに。ここから言えることは、エヴァンゲリオンは1990年代後半のある時期に発生した一回限りの現象であり、偶像としてのエヴァはとっくに死んでいたということである。シンエヴァはそれをわかりやすく示したに過ぎない。このような状態から我々エヴァオタクはどう生きるべきであろうか。エヴァンゲリオンという神話が破滅したとしても、我々は現実の中で生き続けなければならない。それこそ庵野氏が1997年当時から発していたメッセージである。しかし、人類補完計画などという発想が出てくる程度にはこの世は苦しみに満ちている。そこでフィクションを鎮痛剤として摂取し、なんとか生きている人も多いのではないだろうか。
 ならば、せめてエヴァを自分の手で埋葬し、傍らでその他の作品に触れながら養生するほかあるまい。そこから死体蹴りをするも良し、ゾンビにするのも良しである。ひょっとしたら、いつか在りし日のエヴァを心の底から供養し、思い出とできる日が来るかもしれない。このような日を夢想して、今はただエヴァンゲリオンというコンテンツの死を眺めるだけである。

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