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昔ながらのお鮨屋さんの物語・サボテンと玉子焼き

 
 からり、と引き戸が開いて乾いた埃っぽい風が冬の侘びしさを吹き込んできた。修司は、でかかったあくびを慌てて引っ込めながら「いらっしゃい!」と何とか威勢を取り繕った。
 給料日前の昼時、まばらな客が残した皿を急いで片付けながら、上目遣いにさりげなく客を伺うと、さらさらと艶のある黒髪を耳元で切りそろえ、額に垂らした前髪の下にある眼鏡の濃い青がいやに目立っていた。年の頃は修司より少し上くらいの若い女だ。華やかな美しい面立ちのようにもみえるが、口紅すらつけていない化粧気の皆無な顔や、色彩感の乏しい服装のせいか、若い女にふさわしい活気とはうらはらの濃い翳りが漂い、砂漠に荒涼と佇むサボテンを思わせるとげとげしい孤独感を放っていた。
 どうやら目が不自由らしく、ゆっくりと引き戸を閉めている反対側の手には白い杖がみえた。こんな昔ながらの鮨屋に若い女客が一人で来るのは珍しく、どう声を掛けたものやら戸惑っている修司に、女客は「カウンター、いいですか」と聞いた。修司が「どうぞ」というと、慣れた調子で歩を進め、慎重に腰掛けた。眼鏡の奥に伺える瞳はごく普通に開いているので、一見するとわからないが、視線がどことなく定まらない様子に視力の不自由さがみてとれた。
 修司がお茶とおしぼりを出すと、サボテンは迷いなくとりあげ、その拍子に細い紅色の縫い跡が数本、色白の手首の内側にくっきりとのぞいた。
切り傷の跡のようだった。品書きを説明しようとした修司が一瞬息を呑む気配に、さりげなく手首を隠し「にぎりをお願いします」と、品書きも聞かずにそっけなく言った。
「はい」
 返事をしながら修司は内心舌打ちをした。
 修司の店の品書きは並鮨と上鮨とちらし鮨だけで、あとは客の注文で握っている。「にぎり」はいわゆる並鮨のことで、亡くなった親父は「にぎりこそ江戸前鮨の真骨頂だ。にぎりが一番美味くなくちゃ鮨屋とはいえねえ」と口癖のように言っていたものだが、ゆでた海老や鹿の子にして醤油をつけてあぶったイカ、酢締めのコハダ、干瓢巻きや河童巻きなど、値段の割に手間がかかる。それに、ネタは準備してあるからいいようなものの、巻物は一人分だと余分がでてしまう。その心を見透かしたようにサボテンは「一人分ですみません。あと別に玉子を二人前握って下さい」と修司の方を見ずにいった。
「玉子・・・・・・承知しました」修司の返事がかすかに震えた。

「修ちゃん。いつまでも玉子焼にこだわるなよ」
 健太は顔を合わせると修司に諭すようにいう。同業で父親同士付き合いの深かった富鮨の健太は修司にとって兄貴分のような存在だ。
 健太に会ったのは小学校六年生の冬だった。
冷たい粘つく雨が陰気な寒さを募らせ、店は暇だったが、母は出前に出ていた。
 修司が宿題をしながら晩飯を待っていると表の戸が開き、しばらく間が空いたと思ったら「あら、あなたT小学校の子でしょ。うちの子も同じ学校なの。たしか運動会の時リレーの選手だったよね」と母の甲高い声がした。親父はどんなに店が混んでいても「鮨桶の出入りは暖簾をくぐらなけりゃだめだ」と、出前の出入りに勝手口を使わせなかった。店を隔てる境の戸をそっと開けて伺うと、修司より何学年か下の見たような女の子が来ていた。
「あんまり足が早くて、おばさんびっくりしちゃった。うちの子は六年の取手修司。ちょっと太めで、園芸クラブなの。知らない?」
 女の子は首をかしげている。母は商売柄顔覚えが良いが、同じ小学校でも学年が違えば子供同士はお互いわからないのはよくあることだ。
 母は修司の待つ部屋に帰ってくると「ねえ、あんた、お店に来てる可愛い子、同じ学校じゃないの」と声をかけた。
 修司の母は、若い頃患った神経系の病気が原因で、唇がヒョットコ面のようにとがり、目がやや飛び出し気味の容貌をしていた。友達からは「ヒョットコおばさん」とからかわれ、愛嬌はあってもお世辞にも美人とはいえず、服装にもあまり気を遣わない母は、若くてきれいな友人の母親達と比べてあきらかに見劣りし、修司は最近特に恥ずかしく思っていた。
 その晩の母は、雨に湿った髪がぼさぼさとあちこちに暴れて寝起きの頭のように乱れ、見慣れたとぼけ顔が特に醜悪に感じられた。修司は嫌悪の目をそらしながら「知らねえよ。それより腹減った。ヒョットコばばあ、飯」と空腹の腹立ちをつっけんどんにぶつけた。母が顔を曇らせながら台所へ行こうとすると、親父が後を追うように来て「余計なこと言うんじゃねえ」と一喝して店に戻った。母は肩をすくめて台所へ入っていった。すぐに一声二声して客の帰る気配が伝わり、引き戸が閉まった、と思ったら親父が脱兎の勢いで台所へ飛び込んでいった。
「ばかやろう。お前のせいで鮨が台無しになっちまったじゃねえか」
 親父のすさまじい見幕に対し「何のこと?」母は脳天気な返事をした。
「とぼけるな。お前が帰って来るまであのお客さん達は上機嫌で鮨を食ってたんだ。お前が声を掛けたとたん、気まずい雰囲気になって、せっかくの鮨を全部食わずに帰っちまったんだぞ」
「だって、修司の小学校で見かけた可愛い子だから声をかけただけよ。何にも悪いこと言ってないじゃない」
「お前は何年鮨屋の女房やってやがんだ。鮨屋ってのは、鮨さえうまけりゃいいってもんじゃねえ。気分良く食ってもらわなきゃだめなんだよ。自分の胸に手を当ててみろ」
 母も負けてはいない。
「雨の日は出前の方が忙しいってのに、濡れて寒い思いをしたあたしが帰るなりその言い草は何よ。あたしに店に出て欲しくなかったら、もっと若い者を大事にしたらいいじゃないの。今時、おかもち何年なんて、出前ばかりやらせるから若い者がいつかないんじゃない」
 親父は昔ながらの修行スタイルで、若い者を雇うとしばらくは出前ばかりをやらせる。だから皆、しばらくすると早く握り方などを教えてくれる他の店に移ってしまう。
「だからお前はヒョットコ面のボケナスなんだ。鮨屋は出前の仕事だって大切にしなきゃいけねえんだ。ぼさっと運んでねえで、通夜の時の鮨、おめでたい日の鮨、暑い日寒い日、出前をしながらどんな工夫がしてあるか見るのが修行なんだ。そんな気働きもねえやつなんか、はなっから鮨屋になる資格はねえ。そんなこともわからねえのか」
 親父は叩きつけるように怒鳴って店に戻っていった。
「悪かったね。ヒョットコでなけりゃ今頃こんな所にいるもんか。あの客みたいな良いご身分さ」
 母は顔をさらに歪めて悔しそうに吐き捨て、黙々と膳に向かった。修司は母の顔を見ずにさっさと飯をすませた。風呂の後、ズボンのボタンがとれていることを思いだし、母に付けてもらおうと思ったが、派手な音を立てて食器を洗う背中に気圧され、仕方なく慣れない手つきでボタンをつけた。
 鋭い針先で幾度か指を刺し、冷え冷えした陰湿な痛みがさっきの母の醜悪な顔と重なり、修司は舌打ちをして顔をしかめた。
 
 親父は、客の前では物事に拘らない大雑把な人間を演じているが、その実、繊細かつ神経質な性格で、衛生面を特に気遣わなくてはならない鮨屋としては大切な資質でもあった。だから裏も表もなく、時に無神経とさえ思えるほど、おおらかな母とは対照的で、二人が喧嘩をするのは日常茶飯事だったが、いつも後を引くことはなく、互いに補い合っている、という信頼が根底に流れていた。
 しかし、このときだけは翌日も翌々日も互いに口をきかず、険悪な空気が漂ったままだった。確かに親父があれほどの見幕で怒るほどのこととは思えず、母の不機嫌を修司はもっともだと思っていた。
 そして、喧嘩をした翌々日の夜遅く、母はくも膜下出血であっけなく亡くなってしまった。
 健太に初めて会ったのはそのときだった。母の死という重い現実が、あまりの唐突と慌ただしさの中で宙に浮き、修司は放心状態だった。葬儀の済んだ晩、大人達が後片付けをしている間、修司が所在なさそうにしていると「おい、いいもんみせてやろうか」と高校生だった健太が声をかけてきた。そしてポケットからスマートフォンをだし、修司にみせた。そこには金髪女のヌード写真が映っていた。修司が仰天していると「健太!なにやってんの」という声に健太は慌ててスマートフォンをポケットに突っ込み、にやっと笑った。笑顔からこぼれる人なつこい八重歯をみたとたん、修司は一気に涙がこみあげ思いきり泣いた。健太はハンカチを修司に押しつけ、黙って傍に立っていた。
 以来お互い一人息子ということもあって兄弟のように遠慮のないつきあいをしている。
 
「確かに親父さんの玉子焼は美味かったよ。あれだけはどこの店でもだせるものじゃあない。だけどさ、今は鮨ってグローブ、じゃねえ、えっとグローバル、そうそうグローバルなくいもんなんだぜ。カリフォルニアロールやイチロールの時代にそんなもんにかかずらってたら遅れちまうぞ。玉子焼なんて今時どこでもでも売ってるし、通販の冷凍もんだってなかなかだぜ」
 健太はスマートフォンをいじりながら修司に説教めいた口調でいう。
「でもなあ。常連が早く親父の玉子焼を覚えろってうるさいんだよ」
「ほっとけよ。それより、もう親父さんもいないんだから、高い値段が取れるイクラやウニを入れたらどうだ。回転寿司にすらあるようなネタだぜ」
 親父は「鮨なんてのは、そもそも庶民の食い物で、汗水垂らして働く連中のささやかな楽しみだったんだ。魚をどれだけ美味く食わせるかの技を売るのが本来の鮨なのに、包丁も使わねえネタなんぞ邪道もいいとこだ。だいたいマグロのトロなんてべらぼうな値段をありがたがってるが、昔はただ同然だったんだ。マグロの旨味は赤身にこそあるんだ」とネタにマグロのトロを含め、ウニや魚卵を使わなかった。
「修ちゃんだから話すけど、俺、友達に頼んでインターネットの飲食店サイトに、美味しい店だってクチコミ投稿してもらおうと思ってるんだ。俺だってさ、やらせは嫌だけど、今は客が自分の舌じゃなくて他人の評判で店を選ぶ時代なんだよ。これ、親父には絶対内緒だぜ。ばれたら殺されるからな。こう言っちゃなんだけど、俺、修ちゃんが羨ましいよ。親父さんがいない分大変だけど、自分の好きなように店をやれるじゃねえか。俺の親父なんて頑固なうえ、いまだに口八丁手八丁でかなわねえよ」
 健太はいつもそう愚痴った。
 母親が急死した後、常連客が悔やみをいうと、親父は「まったく亭主より先に逝っちまうなんて一生の不作って奴ですぜ。どこかの若い娘世話してくれませんかね」と強がっていたが、一歩店を離れるとほとんど口を開かなくなっていた。たまさかの休みに親父と二人で黙々と食事をするのも鬱陶しく、修司はよく健太の家で晩飯をご馳走になったが、親父は何も言わなかった。
 店の手伝いはさせても修司に鮨屋を継げともいわず、高校卒業後の進路を決める時「鮨屋を継ぐ」といったら「煙草だけは絶対に吸うな」とだけ言い、後は時間をみては鮨の握り方や魚のさばき方を教えた。親父と口をきくのはその時くらいで、高校を出てから調理学校を卒業し、何とか一通りのことができるようになると、親父はそれを待っていたかのように心臓を患った。
 入院して二週間ほど後、親父は「すまねえ」と消え入るように言って亡くなった。おそろしく理不尽なことで母や修司を叱りつけても、謝ることなどありえなかった親父の、最初で最後の詫びだった。
 病院の霊安室で、母が亡くなって以来まともに合わせていなかった親父の顔をしみじみ眺めた。げっそりとえぐられた頬に、点々と顔をのぞかせる白髪交じりの無精髭は、無数のとげが刺さっているようで、それは修司が親父に向けてきた無言の呵責にみえた。修司は親父の髭を剃った。剃刀を持つ手が震え、青白く乾いた膚が切れて紅い筋がついた。
「ごめん」
 思わず口をついた言葉に返事のあるはずもなく、蒼く乾いた頬に手を添え、ゆっくりと髭を剃り続けた。
 
 親父の死後、店を開けるのは、修司にとって大海にいきなり放り出されたような心細さだったが、それを助けてくれたのも健太だった。
「親父と喧嘩してさ」という口実で店に来ては、生来口下手で客あしらいに慣れない修司の代わりに「きょうは健ちゃんと修ちゃんのイケメンコンビがいるから若いお姉さん方で大繁盛だぜ。俺、ほんとにこっちの店に移ろうかな」などと冗談を飛ばし、店を活気づけてくれた。健太のアドヴァイスで、ある程度のことは何とかこなせるようにもなった。
 しかし玉子焼だけは、親父が焼いているのをろくに見たことがなかったし、母の死後は時折きらすことすらあった。修司も余裕がなく、たかが玉子焼などいずれ覚えればいい、と気楽に考えていた。ところが、いざ、自分で玉子を焼いてみると、とても親父のようにはいかない。それなのに出前も含め、単品で玉子の鮨だけ注文する客が多いのには閉口した。
 常連は最初のうち「親父さんの玉子焼きは絶品だったからなぁ。修ちゃん、頑張って覚えろよ」と励ましてくれ、修司も暇をみては玉子を焼いた。
「うーん、ふっくら感と味の、なんていうかコクって奴かなあ。何かそこが足りないかな」という注文に山芋を多くすると「ちょっと粘りすぎだね」など、駄目出しの連続にお互い疲れ、常連の足も次第に遠のいていった。玉子の鮨の注文もだんだん減り、修司は焦る半面、安堵もしていた。
 鮨屋になったのは、母の死後、万年人手不足の店を成り行きで手伝い、勉強もあまり好きでなかったことから、何となく店を継げばいい、多分親父もそれを望んでいる、と思ったからだ。
 小中学校の同級生が修司の店でよくクラス会を開いてくれた。彼らの多くは大学へ進学し、勤め人になっていて、酔いが回ってくると必ず「取手君はいいなあ。若くして一国一城の主じゃないか。俺たちなんかそんなこと夢のまた夢だよ」とうらやましがった。修司はその度卑屈に笑い、曖昧な返事で誤魔化した。
 一国一城の主とはいえ、現実はそれほど甘いものではない。鮨屋としてはやや時代遅れともいえる親父のやり方をそのまま受け継いでいるが、それは熟練の技あってこそ生きるもので、自分に同じ力量がないことは身に浸みてわかっていたし、さりとて健太のように流行を取り入れ、新たな展開に踏み出す勇気もなかった。
 そんな情けない自分にしみじみ嫌気がさし、修司は同級生をみているうちに、自分には鮨屋のほかにやれることや、やりたいことがあったのではないか、と思い始めていた。玉子焼も面倒になり、最近は店で買ったものを使う日が多くなっていった。
 
 だから、常連でもない一人客から玉子の鮨単品の注文がきたことに修司は動揺していた。うわのそらで天気の話などしながら「にぎり」を出した後、黙って玉子を握って出した。サボテンはにぎりの玉子を一口食べるとけげんな顔をしたが、そのまま食べ終え、次に別注の玉子の鮨に手を伸ばした。そしてひとつ食べ終えると「ここ、ご主人変わられました?」とまともに修司を見た。修司は、ぎくり、と視線をそらしながら「あ、その、父は亡くなりまして、僕が店を継ぎました。父をご存知ですか?」と逆に聞いてみた。
「いえ、ご存知、というほどではないんです。ただ、以前いただいた、ここの玉子のお鮨が忘れられなくて。お亡くなりになってたなんて。ごめんなさい」
 サボテンはそれきり黙ってゆっくりと鮨を食べ続けた。修司はまた玉子か、と心の中でうんざりしながら食器を洗い始めた。少なくとも修司が店の手伝いを始めてからみかけた客ではないし、第一、女の一人客などほとんど見たためしがないから、昔誰かに連れられて来たのかもしれない。それにしても、こちらが顔も見覚えないような客なのに、親父の玉子焼を覚えていて店にきてくれるのかと思うと、親父に習っておくのだった、としみじみ後悔した。
 早々に食器を洗い終わってしまった修司は、若い女の客と二人きり、という初めての状況に、どうしていいやら途方にくれた。サボテンの目には、修司の顔などほとんどみえていないようだ。しかし、かすかな気配にも敏感に反応し、こちらの心をすべて見透かされてしまっているようで、まさにサボテンのとげに背中を押しつけられ、少しでも動くとちくちく痛む、どうしようもない居心地の悪さを修司は持て余した。
 とりあえず、お茶のおかわりをだすと「あ、すみません。ありがとうございます」といって卓に指先を滑らせ、静かに湯飲みを持ち上げて熱いお茶を飲んだ。そして大切なものを温めるように両手で湯飲みを包み込むと「昔、この近くに住んでいて、よくここのお鮨を出前に頼んだことがあるんです」と懐かしげな顔をした。
「ああ、そうでしたか」
 修司はほっとすると同時に胸のつかえがおりて、サボテンのとげが少し和らいだ。そういう事情なら納得がいく。
「でね、当たり前だけど『にぎり』には玉子がひとつしかつかないでしょ。子供だったからかもしれないけど、玉子が一番おいしくて、最後まで大事にとっておくんです。五ミリくらいの厚さで上質の毛織物ようにきめ細かくしっとりして、表は焦げ目がないきれいな卵色で、ご飯を大切に包み込むように寄り添った裏側にはこんがりと薄茶の焼き色がついてて。鮨桶の黒色に緑色の笹の葉と玉子焼の取り合わせが鮮やかで、食べるのがもったいないくらいだった。この鮨桶を玉子のお鮨で一杯にして、それを一人占めして食べられたらどんなに幸せだろうと思ったこともありました」
「卵色、ですか」
 目が見えないはずなのに、なぜ色を知っているのか怪訝に思った修司の様子を察したようにサボテンは「ああ、私は生まれつきじゃなくて、事故で目を悪くしたから、一応いろいろなものの記憶はあるんです。今でも全然見えない訳じゃないけど、ひどい遠視で近くはほとんどぼやけてるのに、普通の人がみえないような遠くの景色がはっきりみえるんです。でも、みえる色はセピアだけ」と他人事のように淡々と説明した。そして、下を向いて少し黙った後「実はね、私の記憶にある最後の色がここの玉子のお鮨なんです」ときりだした。
「私は昔この界隈に住んでいたんですけど、一才くらいの頃父と母が別れてしまったんです。父方の祖母は水商売だった母を嫌って、祖母が追い出したようなものです。祖母は父の再婚を望んでいたのですが、父は多分母に未練があったせいで乗り気ではなかったんです。私を手元に置いたのも、そうすれば、いずれ母とよりを戻せると思っていたのでしょう。祖母は『おとうさんが再婚できないのはお前のせいだ。まったくあんな水商売上がりの女に似ちゃって可愛げのない』ってよく嫌みをいわれました」
 サボテンはきゅっと眉をひそめ、修司は思わず目をそらした。
「母が再婚したという話があった少し後、父は行方不明になってしまいました。ある朝学校へ行く私と一緒に家を出て、途中の分かれ道で父は私の顔を見ずに軽く左手をあげ、私は右肩が下がった前屈みの背中に向けて手を振って別れました。それ以来何の音沙汰もなくなり、一人息子を溺愛していた祖母はショックですっかり呆けてしまって。家の中に塩をまいたり、夜中にわめいたりして、祖父も私の面倒をみるどころではなくなって、結局、再婚していた母に引き取られることになったんです」
 堰を切ったようにしゃべるサボテンの話は、相づちの打ちようもなく、返事に詰まった修司は、こんなとき健太がひょっこり顔をだしてくれればいいのに、と願っていた。
「母が迎えに来たのは冷たい雨が降っている日でした。母が家を出て以来一度も会ったことがないから、母の記憶は全然なくて、久し振りどころか初めて会うような不安がありました。でも、子供の目にもわかる仕立ての良いスーツを着たきれいな人だったから、とても嬉しかった。母と祖父との話が長引いて夜になってしまったから、駅に行く途中でご飯を食べようと店を探したら、よく出前をとったここのお店が私の目にはいったの。そうだ、大好きな玉子のお鮨を食べられるのも最後かもしれない、と思って、母にここでお鮨を食べようっていったの」
 夢中で話しているうち、サボテンはいつしか子供のようにくだけた口調になり、一口お茶を飲んだ。
「お店に入るのは初めてだったから、二人でこわごわ引き戸を開けると、お客さんは誰もいなくて、カウンターの向こうにお父さんがいて『いらっしゃい。どうぞ』っていってくれた。私は一度お鮨を握っているところが見たくて、カウンターにまっしぐらに座ったの」
 修司は「ああ、それで・・・・・・」と言葉を呑み込みながら、店に来た時迷わず席に着いた理由に合点した。
「にぎりを注文する母に、別に玉子のお鮨をねだったの。私は初めて見る大好きなお鮨屋さんに有頂天になってしまって。自分に引き取られるのを喜んでると母が勘違いしたのかもしれないけど、私のはしゃいだ様子が嬉しかったんでしょうね。お鮨もとてもおいしかったから母も楽しそうに食べてたわ。お父さんが玉子のお鮨を握っているとき、あなたのお母さんだと思うんだけど、女の人がお店に入ってきて私に声をかけたの」
「母が、ですか」
 重苦しい空気が澱む中、修司は一瞬、頭を打たれたように、めまいがした。
「私は宝石箱みたいに色とりどりのネタケースや、お父さんがお鮨を握る手つきに夢中で、あまり話を聞いてなくて生返事をしてたら、母が突然不機嫌になって黙り込んでしまったの。そしてまだ食べ終わっていないのに『もう帰るから』とお勘定を払うと私の手を引っ張って店をでてしまったのよ。私は泣きそうだった。だってまだ大好きな玉子のお鮨を食べてないのに」
 衝撃で錯綜し、からまる記憶の糸を必死でたどりながら混乱する修司をよそに、サボテンは昨日のことのように無念そうな表情をした。
「怒ったように早足で駅へ向かう母の後を、私は傘をさしてうつむきながら少し離れてぐずぐず歩いてたの。どうして父はいなくなってしまったのか、何でこんな人についていかなきゃならないのか、何とか引き返せないのか、そんな想いが頭の中を堂々巡りして。そして下を向いたまま通りを渡りかけたとき、車にはねられたの」
 修司は背中に水を浴びせられたような気がした。
「命は無事だったけど頭を強く打ったせいで視神経に損傷を受けてね、近くはほとんど見えないのに、100メートル先の遠くは見えるという変な視力になったうえ、色の世界も失って、私に見える色はセピア一色だけになってしまったの。だから最後に見た正確な色がここのお鮨の玉子色というわけ」
「そうでしたか」 
 かろうじて返事をした修司の指先が細かく震えた。
「それから、まあ、いろいろあって・・・・・・」
 あらためて手首の紅い筋をみるようにうつむいたサボテンの頬に髪がさらりとかかり、頬に白さが増した。
 修司は波立つ心を気取られないよう固く目を閉じ、拳を握りしめて沈黙をこらえた。水を打ったように静まりかえった店に、引き戸を通して子供達がはしゃぐ甲高い声が響き、自転車のチリンチリンという警笛の音が通り過ぎた。遠くに焼き芋屋のスピーカーが流す間延びした音が繰り返されている。
「あるとき、遠くに父特有の右肩が下がった前屈みの姿がみえたの。慌てて追いかけたのだけど、私が近づこうとすればするほど父は私の視界から消えてしまう。私は追いかけるのをあきらめて立ち止まったまま父を見送ったの。誰か女の人に寄り添い、穏やかで幸せそうだったわ。その顔を見ているうちに父を恨んで苛立っている自分が馬鹿馬鹿しく思えてきたの。ああ、父は自分の人生を好きなように生きているんだ、と気がついて、ようやく目が覚めたわ」
 サボテンは顔を上げて遠くをみるような目をして「失ったものを取り戻そうともがかずに、今あるものを生かそうってね。それで、他の人には見えない遠くの風景を私の目に映るセピア一色の濃淡で絵を描いてみたの。近くはほとんど見えないから最初は滅茶苦茶だったらしいけど、だんだん感覚が分かってくると面白くてね。私は自分に見える風景をそのまま写し取っているという意識しかないんだけど、細部がものすごく緻密な絵なんですって。どうして手元がみえないのにそんな風に描けるのか皆驚くのよ」と笑った。
 修司は「そんなことができるんですか」と応えながら、親父が鮨を握る瞬間は絶対に手元をみていないことを思い出していた。それは客と談笑したり、桶に入れる鮨の彩りをみるためだけでなく、指先に神経を集中させるため、あえて作業から視覚を遮断していたともいえる。そう思うと手元を見ないで細部を描ける、という彼女の能力もありうることと思えた。
「知り合いが伝手のある画廊に持って行ったら『色彩が安易にはびこる現代、セピア一色というシンプルで潔い色調は斬新だし、極限のような緻密さは視覚への執着を、モノトーンな色彩はそこからの解放を語り、矛盾した精神が見事に調和している。是非描き続けるべきだ』なんて言われたの」
 サボテンは目を閉じ、少しはにかみながらも誇らしげだった。
「でも皮肉なものね。そんなことができるようになったとき、手術で普通の視力や色が取り戻せるかもしれないって話になって。最初は私も喜んだわ。当然手術するつもりだった。でもしばらくすると、普通に『見える』世界はそんなに素晴らしいのか、そこに戻ったら後悔しないか、せっかく手に入れた今の世界を手放してもいいのかって思い始めたの。いろいろ考えて、結局このままでいることにしたの。それに、母にとってサボテンみたいにとげとげしかっただけの娘ができる唯一のことって、彼女の記憶を若くてきれいなまま、とどめておいてあげるくらいだから」
 笑い話のように何気なく彼女が口にした「サボテン」の一言が修司の胸を刺した。店に入ってきた瞬間、明らかに自分より年上と思ったほど大人びた印象は、あの晩以降彼女が辿った時の証なのだ。
「私だけの絵を描こう、私はそのために在るんだ、と思ったらすべてを受け入れることができたの。そうしたらこの世界を手に入れた理由を知りたくなったわ。今まであのときの母の不機嫌を怒り、憎んでもその理由を聞いたことはなくて。自分勝手よね。それで、あの晩なぜあれほど不機嫌になったのか訊いてみたの。母は不承不承話してくれたわ」
 修司は息を詰めて言葉を待った。 
「店に入ったとき、親子とはいえ私とはしばらくぶりだったから、母もぎこちなかったのね。でもこのカウンターで並んでお鮨を食べてたら、なんだか親子って実感が湧いてきて嬉しくなったらしいのよ。そしたら、あなたのお母さんが店に入るなり、私が運動会のリレーにでたとか何とかいって私の方だけに親しそうに話しかけてきたの。あなたのことでしょうね、自分の息子も同じ学校だとか、他愛ない話だけど母には何のことかさっぱり判らなくて。のけ者にされたうえ、母親のくせに娘のことなんか何にも知らないだろう、水商売あがりの女に母親の資格なんてあるのか、って堅気の奥さんに責められた気がしたといってたわ」
 親父が死んだ後、あの晩急に帰った客の不機嫌が不可解だっただけに、親父もさぞ心残りだったろうと、修司は、ささやかながら安穏と暮らしていた一家を暗い穴に突き落としたあの日を思い出しては、顔も知らない客をいつしか恨めしく思うようになっていた。
 ままならない店の切り回しに、どうしてもできない玉子焼へのいらだち、すべてはあの疫病神のような客がもたらしたものだと、落ちたまま深々と掘り進んでいた暗い穴に、いきなり強烈な光を当てられたようだった。そしてその光で、あの晩、修司の母が悔しそうに吐き出した「ヒョットコでなけりゃ、あの客みたいな良いご身分さ」という言葉と醜悪な形相が浮き上がった。
「すみません。自分の母が失礼をしたせいで・・・・・・」
 修司が絞り出すように言うと「ごめんなさい。違うのよ。あなたのお母さんが悪いんじゃなくて、私の母が劣等感から勝手に不機嫌になっただけ。自分のつまらないひがみ根性が私を傷つけたといって泣いて謝ったわ。母は私に謝り通しで生きてきて、私もそれが当たり前だと思ってた。でも、それも終わりにしないと。彼女はもう十分すぎるくらい罰を受けたから」と、彼女は手首の紅い縫い筋に視線を落とし、かすかに眉をひそめた。
 真冬の冷たい雨に濡れ、晩飯を待つ修司のために急いで出前から帰った、ぼさぼさ頭の母は、見知った子供が母親らしき女性と楽しそうに鮨を食べているのを見た。その女性は、仕立ての良い服を着た華やかな美しい容貌の人だった。化粧して着飾ったところでさして見栄えの変わらない自分と違って、すべてが垢抜けていたにちがいない。客の素性と二人の微妙な空気を読んだか、あるいはサボテンの家の事情を耳にしていたのかもしれない。おおらかなヒョットコ面の底に潜む「女」という細い針が冷たく光り、自分は堅気の商売をしていて、子を持つ母親としてあなたの娘の日常もよく知っているのだ、という優越感を何気ない言葉のはしに縫い込んだ。
 今のサボテンなら間違いなく感づくその邪気を、勘働きの鋭い親父が見逃すはずもなく、だからあれほど母を厳しく叱責したのだ。あの晩、雨さえ降っていなければ母は出前にいかず、店を通って親子と顔を合わすこともなく、嫉妬が冷えた針となって母の心を刺し、彼らを傷つけることもなかった。あの晩の雨は痛いほど冷たかった。
 
 沈んだ空気を振り払うようにサボテンが顔をあげると、白い頬がうっすらと桜色に染まっていた。
「この界隈にいた頃はあまり楽しい思い出はなかったけど、ここのお鮨をとるときだけは良いことがあって、家族は皆上機嫌だったわ。事故のせいで一度はつらい記憶になってしまったけれど、この間、鯛のあら汁を飲んだ時、ふとここの玉子焼の味がよぎったの」
 修司にとって昔年の謎が解けた。鯛のすり身と山芋を入れていたのはさすがに判っていたが、あら汁を入れているとは思わなかった。すり身には多分「あら」も使ったのだろう。
 鮨屋の玉子焼は冷えた状態で使うから、しっかりと上品な味がでる鯛のあら汁を出汁に使えばいいつなぎになるし、「あら」は少量でも滋養があり、汗水垂らして働く人のために鮨を握る親父が考えついたのだろう。修司は自分のうかつさに唇をかんだ。
「それ以来どうしても、あのとき食べ損ねたきれいな黄色い玉子焼が頭を離れなくて。自分を生き直すお祝いにきょう思い切って来てみたの。残念だけど仕方ないわ。もっと早く来られなかった私が悪いんだから。お父さんの玉子焼はね」
 サボテンは生唾を呑み込み、修司は全身耳になって言葉を待った。
「上品な甘味に微かな塩味と焦げ目の香ばしい風味がして。口に入れると、玉子焼がほろりと崩れてほんのり酸っぱいご飯と溶け合うの。まるで上質のスポンジケーキを食べたみたいだったわ」
「スポンジケーキ」
 おもわずつぶやきが口に出た。修司が小学校三年の頃、骨折したことがあった。何日か家で療養しているとき、母が台所でカシャカシャ音を立てているのが聞こえた。退屈なのでそっとのぞくと、何かを泡立てている。 
 いつか友達の家に遊びに行った時、彼の母親が同じ事をしていて、何をしているのか尋ねると、友達は「卵を泡立ててケーキを焼くんだよ、ママのケーキはうまいんだぜ」と自慢していた。ご馳走して貰ったケーキはふわふわとおいしく、ケーキが家できるものだと修司は初めて知った。
 だから卵を泡たてているのはてっきりケーキを作るためだと思った修司が「何それ、ケーキ作るの?」とわくわくしながら声をかけると、母は修司に気づいていなかったらしく体をびくっと震わせたが、すぐに振り返り「みーたーなー」とヒョットコの真似をしておどけ、修司はいつものように笑い転げた。
「残念ながらケーキじゃないよ」といいながら母は手を止めると、いつになく真剣に目を光らせて「修ちゃん。今みたこと外で絶対喋らないでね。お母さんと修ちゃんだけのひ・み・つ」そういって小指を絡めて堅く指切りげんまんをさせられた。その意味は良く判らなかったが、母の作業がケーキ作りでないことに落胆し、それきりそのことは忘れてしまっていた。
 母の泡立てるふっくらした卵は親父の玉子焼の生命だった。母と指切りをしたときの包み込まれるようなぬくもりが、修司の小指の先に懐かしく広がった。鮨を握るため、いつも冷たい父の手と違って、母の手はふくよかに温かかった。
 しばし恍惚としていたサボテンは、放心している修司の様子に気がついたか「ごめんなさい。つまらない話をしてしまって。お勘定お願いします」と席を立った。修司はサボテンと向かい合い、二人の視線がぶつかった。
「あの、また来て下さい。親父の、いえ俺の玉子、焼きます。玉子の代金はいりません。金払っても良いと思ったら、払って下さい。きょうもにぎりの分だけ一二〇〇円頂戴します」
 サボテンは桜の花びらのような薄い唇を微かに動かした。夾雑を極限までそぎ落とし、清廉を彫り取ったような口元に、客のいないがらんとした店で一人鮨を握る親父の姿が重なった。
 すっぱりと思いを極めた末の穏やかな表情に時は凪ぎ、言葉は呑み込まれた。指先を離れ、生命を得た鮨は生き生きと桶に並び、親父の存在は途方もなく遠く、大きく、修司を圧倒した。修司は今、目の前に在る端正な形に触れようとする衝動をかろうじて抑えた。
 サボテンは黙ってバッグを探ると千円札を二枚差し出した。修司が受け取り「ちょっとお待ち下さい」と釣り銭のある場所へ行こうとすると「お釣りはいいわ。あのとき、お父さんは玉子の代金をとらなかったし」と言い置くとさっさと背中を向けて杖をあやつり、引き戸を開けた。
「あの・・・・・・」
 とっさにカウンターの内側から出ようとしたら、店の奥で電話が鳴った。修司が逡巡している間に引き戸は閉まった。電話に出ると「おーい修ちゃん。今から一時間ばかり助けてくれよ。通夜の大量注文が入ってんだけど、親父がぎっくり腰で使えねえんだよ」と、のんきな健太の声が聞こえた。
「すぐ行くよ」
 今までにないぶっきらぼうな調子に、健太は一瞬気圧されたようだった。修司は受話器を叩きつけ、慌てて表に走り出たが、昼下がりのまばゆい陽光の中、行き交う雑踏にサボテンの姿はなかった。
 かすかに湿った風が冬を押しやるように勢いよく吹きすぎ、握りしめた二枚の千円札がひらめいて、修司の小指をさらりと撫でた。
 

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