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安曇野からお庭のささやき

安曇野に住み始めて数十年たちました。自然を身近に感じるようになり、いろいろなことをおしえて貰ったような気がします。そんな日々の気持ちを言葉にしてみました。

1はじめに
 鉛色の空から次々にはがれ落ちる雪が、繭玉から引かれる絹糸のように柔らかな雨に変わる。輝きを増した風が軽やかに野山を見回り、枝が孕む固い冬芽に目覚めの用意をささやく。
 やがて凍てついていた大地が熱を蓄え、その熱を託された風は、時に嵐となって木々を折れんばかりにしならせ、生き物すべてを長い冬の眠りから一気に呼び覚ます。口を閉ざしていた樹木の新芽が微笑み、萌葱色の芽吹きは溶けかかった雪を持ち上げて、おずおずと顔をのぞかせる。
 木枝が淡い緑のレースに縁取られ、埋もれていた草たちが春の陽を求めて背丈を競い合う。
あんなところに見慣れない草
が、去年植え替えた花や草はきちんと芽をだすだろうか、これは株分けしようか、それとも次の年にするか、あれこれ思案に暮れつつ、頬に当たる風の冷たさに身をすくめながら庭を見回るのが春先の楽しみだ。
 植物は物言わぬ生き物でありながら、したたかな知恵者であり、数々の理を物語っている。
 失敗続きの「枯らしの名人」ダメダメガーデナーが庭から学んだ数粒をここに撒いておきたい。

2 植えっぱなしはダメよ
「植えっぱなしはだめですよ」
縁あって八ヶ岳にガーデニングの達人を訪ねたときの言葉である。
彼女の朝は咲いている花が絶えないよう、しぼんだ花殻を摘みとることから始まるという。咲いた花をそのままにしておくとすぐ種を作り、花の時期が終わってしまうからだ。恋多き人が若々しいのと同じだが、恋愛だけでなく独自の知的好奇心を絶やさず、探求意欲が旺盛な人にもたとえられよう。
 だが、冒頭の達人の言葉に「ど素人」の私は驚き尋ねた。
「せっかく順調に繁殖している場所を植え替えるなんて、もし枯れてしまったらと思うと怖くてできません」
「怖いでしょう。でも株分けをすればいいのです」
 なるほど、隙間なく増えているのは喜ばしいが、あまりに密集していると互いに根を張る余地がなくなってしまう。密集を放置していたら、急に元気がなくなることもあった。
 株分けで掘り起こすことにより、春から初夏の暖かく新鮮な空気を地中に送り込む。分かれた株は新たな場所でまた根を張り、繁殖していく。
 これ以来、春になると植え替えに勤しむようになったが、家人に「あんまり毎年いじらない方がいいのでは」と忠告された。
「植えっぱなしはだめだから」と反論したものの、確かにこの作業も数年に一度が適度なようで、毎年のように株分けしてしまうと落ち着いて根を張る暇もない。
 組織の中の人間も、長く同じ場所に留まり過ぎると倦み、仕事をおろそかにしたり、よからぬ利得を考えたりするものだが、根を張る間もない移動も考え物である。ほどほどに新鮮な空気を入れることが肝要だろう。
 また「植えっぱなしはいけない」という言葉には株分け以外に多様な意味がある。樹木には根元にはびこる雑草や、隙あらば寄生しようと忍び寄る蔓にも気をつけなければならない。
 つまり「植えたら終わり」ではなく「植えたら始まり」であり、手入れを怠れば枯れるか他の植物を席巻するかのどちらかになる。
 庭の手入れは組織の運営に通ずる。植物の生態を人間に見立てれば良いのだから。

3 個性を見極める
 植物の個性は人間同様に多様である。ひたすら日当たりと暖を好む物、強い陽射しを嫌い木漏れ陽でなければ育たない物、多くの肥料を求めるかと思えば、肥料を嫌う物もある。
 肥料のことでは無知ゆえに情けない経験をしたことがある。梅雨時、大量の「おから」をもらったことがあった。とても食べきれず、おからは栄養があるからと樅の木の根元にそのまま撒いたら、その年の夏、葉がぽろぽろ落ち始め、とうとう枯れてしまった。いわゆる肥料枯れと思われ、本当に可哀想なことをしてしまい、クリスマスが来る度に胸を痛めたものだ。
 土質、日当たり、風当たりといういわゆる風土がぴったり合えば、手入れなどしなくても勝手に殖えていくが、風土が合わなければどんなに手を尽くしても枯れてしまう品種もあるし、他の土地から移植した物は、風土に合わせて花が小さくなったりと形を変えてしまう。だから、高山植物などを盗掘して自宅の庭に植えたところで気候や土壌が異なれば、同じ趣は望めないうえに、結局枯らしてしまうことになる。自分本位の人が造る庭で、花はきっと泣いていることだろう。
 また、隣り合う物同士の相性も大切である。
 苺の隣にミントを植えておいたら、苺の隙間を縫うようにミントが根を張ってくる。苺とミントは味といい色合いといい相性が良い。つまり、一緒に育つ物同士は食べ合わせも良いが、隣り合わせで育ててはいけない植物もあり、その食べ合わせも体には好ましくないと思われる。自分の都合にあわせて無理に造る菜園には、ときおりこうした間違いが起こるが、自然にまかせた庭は正しい食も教えてくれる。また、雑草が生えてもそれが囮となって害虫に食べられることで、育てたい植物を守ってくれることもある。
 ただ、寄り添いながら育っても、とちらかかが相手を席巻してしまいそうなときは、ある時期からは片方を抜いた方が良い場合もある。
 個性を生かしていくには知識を蓄え、知恵を働かせなければならない。
 ところで、枯れたと思っていた樅の木は数十年後、周辺の松を伐採し、日当たりが良くなったら、新たに芽を出した。植物の強さには舌を巻くばかりだ。

4 根強い物を取り払う
 薄(すすき)は秋の月見には欠かせないけれど繁殖力が強すぎて庭を席巻してしまう。地中に吸いついているかのように根を張るので、畳半畳ほどもはびこると、根こそぎ抜くのが億劫でつい放置してしまい、さらに繁殖を許してしまった。
 梅雨時、まだ芽が10センチほどしか育っていない頃に、意を決して抜くことにし、降り続いた雨で地面が柔らかくなったところを狙って決行した。草のカーペットのようになった一部を掘り起こし、全体を力一杯ひきはがすと、大きめの玄関マット大にまとまった根っこのかたまりがごっそり抜けた。その重たかったこと。
 翌春、その場所にいろいろな草木が顔をのぞかせた。元々地中にあったものか、他から種が飛んできたか、鳥が運んだか。理由はともかく、結果的に多種多様な植生となった。
 強く根を張るものをひきはがすのは大変な労力が必要である。
しかし、長年はびこっている物の善し悪しを見極め、時に思い切って引きはがしてみると、若い芽が育ち、新たな風景が広がることもある。
 


5 花はなぜ美しい
 強い草は単体でも生きられる。しかし庭が一種類の草だけになってしまったらなんと味気ないことだろうか。しかしありがたいことに自然に任せておけば、植物は土壌の成分を分け合い、色彩も含めその地に適した花が育つ。
 自分の庭の花が最も美しいと思えるのは初秋である。水引草の紅白、ホトトギスの薄桃色、露草の明るい青など趣ある配色は、土壌という庭師の傑作である。
 そうした花々を見ながら、なぜ花は美しいか考えた。花だけでなく蝶や蝉など自然の生き物の模様ほど見事ものはない。もちろん生物学的な理由からなのだが、彼らは生命を紡ぐためだけに自らを整え、人間のように「綺麗に見せたい邪心」がない。
 一部の隙もない完璧に合理的な形、色、紋様は、厳しい鍛錬を経た人だけが至る、無我の境地のなせる業が浮かんでくる。

6 陽射しと風通し 
 庭木が育ってくると枝と枝が重なり合い、うっかりそのままにしておくと病気になることがある。枝同士が密になり、風通しが悪くなったのが原因と思われる。そこで剪定するのだが、枝を不自然な形に変えてまでも陽射しを求めて張り合う姿は、まるで喧嘩の様相である。日頃の不精を詫びつつ、病んだ枝を中心に大胆に切り落とし、木々の間に風を通してやる。すると、陽射しの加減が変わったからか、ずいぶん前に植えたものの根付かなかったと思っていた植物が、地面から急に顔を出すことがある。土に還ってしまったと思っていたが、実は地下でじっと芽を出す機会を伺っていたのだろう。
 風通しの悪い組織は病気になりやすく若い芽も育たない。そういうときは大胆な改革が必要であり、同時に、今は不遇を囲っていても、いつか何かの事情で陽射しが変わることもあるのだから、決して「腐って」はいけない。陽射しを浴びた若い芽の輝きにふとそんな想いがよぎった。

7 地中の争奪戦
 植物の根は脳、枝葉は手足のように思えることがある。陽当たり、風当たり、他の植物の繁り具合など、地上の様々な情報を枝葉が収集し、根に伝え、根はその情報を元に勢力を広げていくのではないだろうか。
 植え替えをしようと若木を掘り出してみると、根は意外な方向に延び、他の根と複雑に絡み合っていることがあり、わずかでも陣地を広げようと互いに凄まじい争いをしている様子は怖ろしいほどである。植物は動かず音もたてない物静かで穏やかな印象があるが、生命体として少しでも勢力を広げようとすることは他の生物と変わらない。木々や花々に彩られた美しい庭も、地中で互いに根を張り合う様子は、物言わぬ分、却って凄まじい執念を感じる。

8 寄生植物の恐ろしさ
 庭を手入れしていて最も恐ろしく思うのは、蔓を巻く植物である。細い苗木、低木、ある程度の高さに育った草花などにいつの間にか忍び寄り、コイル状に蔓を巻きつけていく。そして次々に近隣の植物に触手を伸ばし続け、年々蔓を太らせるものもある。
 事情があって、数年間ほとんど庭の手入れができなかった時期があった。ようやく庭を見回ることができるようになったとき、一番手こずったのが蔓だった。夏はぜの木肌に蔓が食い込み、木を締め上げ、蔓は枝先まで縦横無尽に巻きついていた。
 根元から根を引き抜き、根気よく蔓を引きはがすと、木肌にはでこぼこの痕跡が残り、あまりの痛々しさに、思わず「ごめんね」と涙がでてしまった。特別な手入れをしなかったものの、数年後には、その痕跡は綺麗に消えてしまったのだから、生き物の治癒能力には驚くばかりである。
 それ以来、初夏から夏にかけて草が生い茂る季節には、蔓を巻く寄生植物には特に注意を払って、引き抜くようにしている。それらはまず、茎が細い、もしくは枯れかかっているなど弱った植物に巻き付き、そこを足がかりに縦横無尽に触手を伸ばし、他の植物を締め上げていく。
 人間界でも、最もやっかいで怖いのがこのように寄生・依存するタイプではないだろうか。彼らは、常に依存・寄生できる対象を探し、踏み台にしながら、したたかに生き延びていく。
 この植物は何の益もないと思っていたが、あるとき、そうでもないことに気づいた。根元から蔓が巻きついている植物は、枯れかかっているなど弱っている可能性が高いので、思い切って抜いてしまうか、丁寧に目をかけて手入れをしなければならず、そのことを教えてくれていると思うようになった。また、とても丈夫なので、焚き付けの小枝などを束ねておくには最適だ。
 かつて、人が山と生活を共にしていた時代は、この蔓もロープとして大いに重宝されたので、木々が巻きつかれるままになることはなかった。
今は人の生活が自然から乖離してしまったため、蔓が延び放題に木の幹を締め上げ、枝先に絡みついているため、樹木が弱り、伐採にも難儀しているという。
 彼らを上手に活用する手だてはないものだろうか。
  
9 一年の手仕舞い
 朽ち葉を落とした枝の間に、きりりと澄んだ瑠璃色の空が現れたら、冬支度を始める。陽射しを求めて思い思いの方向に伸びすぎた枝や、樹木同士、縄張りを競うようにかち合った枝を剪定して束ね、次の冬に暖炉の焚き付けに使えるよう乾かしておく。雑草を掘り起こし、果樹や花木の根元に溝を掘り、暖炉の灰や堆肥など、それぞれに適した寒の肥料を仕込む。
 最後の仕上げに、バネのようにからみついて木肌を締め上げている蔓を根元から引き抜き、木の枝を折らないよう気をつけながら辛抱強くほどいてやる。この作業が一番根気を要し、抜け目のない寄生植物を憎々しく思うこともあるが、彼らにも大切な役割がある。
 引き抜いた太い蔓を幾重かの輪に形作り、細い蔓で固定して丸い台を作った後、庭仕事の合間に拾い集めた松ぼっくりや剪定した常緑の枝などで飾り、花のない冬に家を彩るリースを作るのだ。
 薪がはぜる暖炉の前で、今年過ぎ去った諸々のできごとなど、取り留めもなく思い起こしながら蔓を巻いて形を整える。彩りに用意した紅いドライフラワーや黄金色の乾燥果実、月桂樹などの香草が、明々と踊る炎で暖められて、馥郁とした香気を放つ。素材の水気がすっかり抜け、円熟した濃密な香りは、ささやきとなってひそやかに辺りを漂う。その心地よい声に耳を傾けて素材を組み合わせていく。リース作りは、庭仕事の後に待っている最高のご褒美だ。
 初冬の森や庭を見回り、素材を吟味しながら採集し、香草などに工夫をこらしたリースは、自然豊かな香りで住む人の心を満たし、虫除けとなって冬中家を守り、春の到来とともに燃やされ、土に還っていく。
 森や庭の自然素材を使うリースが、現代では贅沢になってしまったが、一年の手仕舞いに行う作業が、里山や森に思いを馳せ、自らの来し方を振り返る貴重な時間となっている。

10 四季の庭音(にわおと)
 雪解けの滴が大地を微かに震わせ、柔らかな芽吹きを抱いた枝が、温もりを帯びた風に軽やかにそよぐ。埋もれていた種たちが陽射しを求め、辺りを伺いながら、こそりと萌えて土を割る。
 春の庭からは、かくれんぼをするいたずら小僧達のひそやかなささやきと、くすくす笑いが聞こえてくる。

生気溢れる夏の庭の饒舌は、駆け抜ける季節の瞬きを圧倒する。
夜明けを待ちかねて響く蝉達の大合唱、息詰まる草いきれを放つ夏葉のざわめき、絶え間ない鳥のさえずり、轟きわたる雷鳴、大地を叩くすさまじい夕立、夜露を抱く草に隠れ、飽くことなく続く虫の音の饗宴。
 
 かさり、と乾いた音に振り返ると、朽ち葉が一枚、木立を縫って、輝く暮れ陽と戯れながら土に還っていった。華やかな秋の陽は、募る惜別を鎮め、旅立ちに温もりを添える。
 彩り満ちた木々の葉がささやきを交わす秋の庭は、内気な絵描きと聡明な詩人が、僅かな言葉で深い情感を通わせる穏やかな語り合いを想わせる。

灰白色の寒空から舞い降りる雪が、枯れ木や地表をしんしんと白く覆う沈黙の季節、あまたの生き物は大地の懐に抱かれ、昏々と長い眠りにつく。すこやかな寝息には、豊かな生命が脈打っている。
 冬の庭を封じる凛とした静寂は、生命の眠りを見守る寡黙な番人である。

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