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あの頃の経営不振。そして今もピンチ!

2016年の春、ケイコロールというブランドは生まれました。

その年、山元染工場は未だかつてないほどの経営不振に苦心しておりました。売上は1000万円をきり、何が何だかわからないままに、運転資金がどんどん無くなって、設備投資以外での借金を初めて(私の人生においては初めて)したりしました。私たち夫婦が事業を継承してから3年目でした。経営不振の原因としては、いくつか思い当たることがあります。

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守りの経営 

義母は、40代の頃に突然に夫をガンで失くします。それまで義母は、あくまで「社長の奥さん」であり、メインの経営者ではなかったんだと思います。ところが、夫の急逝によっていきなり、歴史ある会社を継ぐことになった義母は、「なんとか息子にうまく会社を渡してやらないと!」ということで、奮闘します。そのころは、発注が枯渇することはなかったと思います。大儲けとは言わないけれど、割といつでも自動的に発注がある状態というか。とにかく、納期を守って製造をこなしていくことに義母は注力したことと思います。

でも、そんな状態は長くは続きません。映画や時代劇ドラマの本数は徐々に減っていきますし、景気の悪化があれば、真っ先に減らされるのは「衣裳制作」の予算です。だからこそ、常に会社の未来をいろんな可能性をもって探るべきなのですが、40代で突然経営者になった義母は、攻めることより、とにかく会社を守ろうとしたんだと思います。とにかく「守る」こと。これまで通りの顧客に対して、これまで通りに営業をかけて、これまで通りに作る。そうやって義母は山元染工場を守ってきました。

そうして、1998年ごろから、うちの夫へ事業継承するまでの15年ほど、義母は会社を守りきるという偉業を成し遂げました。

「ほんまに偉業を成し遂げましたな!」と思います。同じ嫁として。それはそれは、私には想像しきれないような苦労があっただろうと思います。初代であるじいちゃんが亡くなった年の一年後に夫を亡くすなんて・・・。ドラマかよ。

とにかく、守りの経営が必要な時期もあるかもしれませんが、ずっとそのままというわけにはいきません。挑戦!挑戦の時期がやってきた!それがたまたま2016年ということだったのかもしれません。

このへんのことが、「どうしてケイコロールというブランドが生まれたのか」の理由の大きな一つです。マグロ漁船方式、さらに守りの経営をなんとかせねばってことで。

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災害の影響

東日本大震災があったのは2011です。当然、世の中の自粛モードに伴って、グッと受注は減ったのですが、それでもその頃はまだ、全てがストップした感じではありませんでした(コロナでは全てがストップしました・・・!)。ただ、この震災を機に、徐々に受注が減っていった感じです。ジリ貧状態です。

おそらく、舞台衣裳にお金をかけずに映像や舞台を作る工夫をされるようになっていったのか、なんか、そんなんかなあ。


閉鎖的な経営精神

初代であるじいちゃんは、「人を見たら泥棒と思え」と冗談半分、本気半分でよく言っていたそうです。過激なことを言っているようですが、じいちゃんからすればあながち大げさなことではなく、「裏切り」や「泥棒」行為を目の当たりにすることは幾度となくあったようです。昔の工場は、人の出入りもたくさんで、うちの大事な商売道具である「巻き見本」(デザイン帳のようなもの。プロの絵師さんに依頼して制作した柄を何十種と集めて染めたもの。舞台衣裳用だから、むちゃくちゃ貴重!)を持っていかれてしまったり、取引先との伝票のやり取りを盗まれてしまい取引先そのものも失ってしまう、そんなことが色々あって、工場に来る人に対して警戒心があったんだと思います。

舞台衣裳関連という特殊なものづくりが、なんだか旨味のある商売だと思われやすいというのもあるかもしれません。妬み的なものも多くあったと思います。

そんなじいちゃんのそばにいた義母も、その義母に育てられたうちの夫も、二人とも警戒心をバリバリに受け継いで商売をしていました。実体験をもってそうしていたわけではなくて、家族からの教えでそうしていたわけなので、何に対して警戒をするべきで、何に対してオープンであるべきか、整理がついていなかったのではないでしょうか。

私が嫁に来た頃は、うちの工場には出入りの業者さんと取引先さん以外は、誰も来ることがなく、組合や商工会議所にも入ることなく、だ〜れも山元染工場の存在を知らないような状況でした。

何十年も、新しい人との出会い、新しい技術との出会いがほとんどない状態だったんだと思います。


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そんなことで、いろんなツケが回って来たという感じでしょうか。2015〜2017くらいの2〜3年間は、本当に不振でした。私としては、本当に不安な気持ちで、毎日がキツかったです。今でこそ、「ここは私たち夫婦の会社なのよ!」という感じですが、その頃はまだ義母もリーダーシップをもって工場に居て、がっつり働いていましたし、夫も私もまだまだ頼りない夫婦だったと思います。とにかくいろんなバランスがグラグラしていました。

ケイコロールをスタートした2016年はまだ、一人目の子供が2歳で二人目が0歳でした・・・。売上が不振で、工場の中の全てが不安定で、子供が生まれたばっかりで、産院の病室でも、ずっと胃がキリキリしてました。

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↑この写真は、0歳をオンブしながら、胃をキリキリさせながら、「ヤバイ!とにかくヤバイ!」とケイコロール立ち上げのために奮闘している様子です。

そのころ、たまたま車でよく聴いていた星野源の曲は、今もあんまり聴きたくないです(星野源は悪くない)。もう一生、あんな気持ちは味わいたくない。と思ったけど、今は今でまあまあピンチですけど!!笑

コロナピンチ!!

2016年のピンチからまだ4年しか経ってないのにさ〜・・・ピンチのサイクル早いってばよ〜・・・。


でも今は、同じピンチでも、なんか、全然違うんです、気持ちが。それがなんでかってのは、また改めて書こうっと!

つまりは、ピンチはチャンス的な?そんな話でした!



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