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今度こそ、自己紹介をするケイコロール。

こんにちは!

先日、自己紹介の記事でイキナリ夢を語りました、ケイコロールの山元桂子です。

今度こそ、ちゃんとブランドの自己紹介をしたいと思います。


私は、ケイコロールという、染めもののブランドを主宰しています。

ケイコロールというブランドは2016年の春に生まれました。今年で5年目の弱小ブランドです。いくら弱小でも、ブランドを運営するってむちゃくちゃ面倒臭いです。経営しなくっちゃいけないですから。

なぜ、こんな面倒くさいことをすることになったのか、以下に書いていきます。


「ケイコロールを始めるまで、何をしていたのか」

・昭和5年創業の、山元染工場に嫁にいったのは2009年。26歳のときでした。

25歳までは、芸大の大学院生として現代美術作家として活動していました。工芸や染織という領域で勉強しつつ、現代美術がなんだか面白くって、訳がわからないながらもとにかく作品を作っていました。研究テーマは「装飾」や「日本の飾り」。思いのほか、大学の先生や有名なキュレーターさんに期待していただき、個展だけでなく様々な企画展にも招待していただいたりしていました。

いろんな流れがあって、ピュアアートな世界とはゆっくり遠ざかっていった感じです。この「いろんな流れ」については、いつかnoteに書きたいなと思います。

・大学院修了してからは、母校の非常勤講師をしたり、派遣の事務をしたり、ネイリストをしたりしていました。私の人物像を知っている方はきっと、「ネイリスト?!」ってなると思います。「美容」とは最も程遠い人物、私ですから。そのへんもまた、後日書いてみたいなあ。大学院での研究テーマに関わってくることだから。


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「どうしてケイコロールというブランドが生まれたのか」

・私が嫁にいった山元染工場という染め屋は、昭和5年に京都で創業した、「舞台衣裳」専門の染め屋です。今年(2020年)で創業から91年目ですね。すごいですね、91年て・・・。京都ではまあ、老舗のうちには入らないかもしれませんが。「舞台衣裳」なんて、ニッチなモノを専門に制作してきたことを思うと、すごい年月です。私の夫で、四代目です。

夫のじいちゃんが初代。夫のお父さんが二代目。夫のお母さんが三代目で、夫が四代目ということです。

舞台衣裳専門って、京都にたくさんある呉服関連の染め屋さんと何が違うかというと、作ったモノの行きつく先は全てエンタメ業界なので、ほとんどの場合、エンタメのプロが着用なさいます。子ども歌舞伎やお祭りの衣裳の場合は、一般の方が着用されますが、作るときにはもう、誰が、どこで、なんの役のために着るのかということが決まっています。あとは、映画やドラマや舞台、CMやイベントなどで役者さんたちが着用されることが多いです。

あと、舞台衣裳というとドレスを思い浮かべる方も多いかと思いますが、うちの場合は、たいていの場合が和装です。時代劇とか、江戸時代系も、戦国時代系も、平安時代系も、大正時代系もやります。お殿様でも、農民でも、お姫様でも、ヤクザ者でも、チンドン屋さんでも、衣裳はその役柄のキャラクターを説明するための大役を担っています。性格や年齢や職業を、見た目で説明する必要があるのです。

そんな大事な衣裳を、うちはデザインから染め、場合によっては形にするところまで関わって、91年も制作してきました。我が嫁ぎ先ながら、なかなか稀有な、おもしろい会社だなと思っています。

ただ、舞台衣裳事業には大きな問題があるのです。それは、バクチ性の高さです。大きな制作会社さんが、大きな映画や舞台を、大きな予算を使って、大きく作るんだ!と決めたら、うちには仕事が発生するかもしれませんが、その流れ・・・、だれが読むことが出来ますか・・・?すげえ特殊な人脈で、「来年の春あたり、時代劇映画の制作発表があるらしい!」なんて知ってたとしても、舞台衣裳にどの程度予算を割くのかなんて、わかり得ません。営業努力でどうにかなる範疇があまりに狭い!

うちには通例の繁忙期もなければ、毎度の閑散期もないのです。

マグロ漁船と同じです。台風が来て海が荒れれば、船を出すことも出来ないし、というか、よしんば出港できたとして、ソナーが魚群を探知したとしても、ベテラン漁師の勘をもってしたって、大きなマグロを釣り上げられるかどうかは、運みたいなところも大きいと思います。

うちの舞台衣裳事業は、まさにそれです。時代物の映画を作るかどうか、地域のお祭りの衣裳を新調するかどうか、台風や地震が来てイベントを自粛するかどうか、予測ができないし、私たちにはどうしようもないことが多いわけです・・・。

自然と基本姿勢が「待ち」になるわけです。

長くなりましたが!その事業のバクチ性を緩和しようと、自分たちで判断して自分たちで努力できる範囲を大きく広げようとして、自社ブランドであるケイコロールをスタートしました。


・あと、やっぱり山元染工場の事業の特殊な部分、おもしろい業態を、舞台衣裳事業以外にも活かしたかったです。基本的には「下請け」体制で仕事を受けるのにも関わらず、衣裳の企画段階からお客様と一緒に考えたり、デザインはまるっと任されることも多いし、OEMというよりはODMという、クリエイティビティを持った仕事の仕方を昭和5年から続けているところ。

京都の染め屋さんというのは、通常は「加工」屋さんなのです。染めという加工を販売するのです。本当に細かく分業化されているためです。

ところがうちは、企画デザイン〜生地を仕入れる〜染める〜仕立てて納品という、一貫制作というところがとっても稀有なのです。染工場なのに。


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・あと、舞台衣裳用の型紙を活用したかった。

これも大きいです。舞台衣裳用だから、な〜んだかおかしな、派手だったり、ダサ可愛かったり、変な柄が型紙として91年分蓄積されています。

これらを資産として活かしたかった。


・何が何でも、山元染工場を続けたかった。私たち夫婦は、就職をしたことがないし、本当に自営業以外は出来ないよっていう、協調性の無さです。廃業、倒産、転職するわけにはいかんのです。子どもらを育て上げるまでは!

継続、なんとしてでも、事業継続!!



ああ、長くなっちゃった・・・・。

なんだかんだ言いましたけど、これらは全部表向きですね。

実は、要は、私はやっぱり自分の感覚、自分のクリエイティビティを発揮したかったんじゃないかと思います。

そして、とにかく褒めて欲しい!私を褒めて!こんなん作れるよ?!

こ〜んな可愛いテキスタイル染めたりするよ?!

こ〜んなおばはんが、子育てしながら!!


みたいなね。そんな感じかなと思います。



もしもサポートいただきましたら、その日のハイボールの美味しさはいつもの15倍になります!そして、そのエネルギーでさらに染めものを染めるスピードが、いつもの1.2倍ほどになります!頑張ります!