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【Story of Life 私の人生】 第12話:お引越し 

こんにちは、木原啓子です。
Story of Life 私の人生 
前回は、 第11話:練馬へ 〜 運命の日曜日 をお送りしました。
今日は、お引越しにまつわるお話をしようと思います。

引越しが決まってから2週間の間、荷造りがどんどん進んでいき、部屋は段ボールの山で埋めつくされていきました。
両親ともに不機嫌で、話しかけても「今忙しいから、近寄るな」という感じ。
我が家から笑顔と笑い声が消えてしまい、まるでお葬式のような日々が過ぎていきました。
転校手続きも同時進行で進んでおり、学校でも「ケイコちゃんは、4月いっぱいでこの学校からいなくなっちゃいます。みんな寂しくなるね。」と、担任の先生がクラスのみんなに発表しました。
私は内心「あんたのせいじゃん!」と思いましたが、口に出すわけにもいかず、言葉を飲み込むしかありませんでした。
引越しを知った幼なじみ達も「本当にいなくなっちゃうの?」と。
親達からは「今生の別れじゃないんだから」と言われても、子供達にしてみたら「毎日遊べない」イコール「一生会えなくなるかも」な訳です。
いつも通り一緒に遊んでいても、何かの拍子で「私がいなくなる」という話題になってしまい、寂しくて、みんなで2週間泣いて過ごしていました。
今になって思えば、兄弟姉妹同然に育ってきたから、家族同然だったのですね。
感情的には、家族と別れるのと同じだったなって思います。
奇しくも、両親の子供時代の「擬似体験」をすることになってしまった訳です。

そして、4月29日、(昭和)天皇誕生日の朝になりました。
朝早くから、引越し屋さんや、お手伝いに独身寮のお兄ちゃん達が来て、荷物の運び出しが始まりました。
私のところには、幼なじみ達がお別れに来てくれ、大人達が作業している間じゅう、みんなでワンワン泣きました。
お昼前に荷物の積み込みが終わり、母は引越し屋さんのトラックに乗って出発。
私は父と電車で、あの「忌まわしい」練馬の「田舎」に行くことになりました。
幼なじみとその親達が、十条駅まで見送りにきてくれ、泣きながらバイバイしました。

練馬の新居に着くまでの間、ずーっと泣きじゃくっていた私。
父は「お前のせいでこうなったんだから、泣くんじゃない」と。
はい、確かに私のせいです。
でも「お父さんもお母さんも、助け舟を出さなかったじゃないか」って、私は私なりの言い分があるのですが、それを言ったらおしまい。
これ以上、叱られるネタを作りたくない私は「何も言わないのが正解」と、また感情に蓋をしてしまいました。

例の、後ろが竹林のバス停から歩いて新居に着くと、既に荷物の運び込み作業が始まっていました。
チョロチョロしていると邪魔になるので、荷物が運び込まれるのが終わるまでの間、部屋の隅っこで、周りが段ボールで埋め尽くされていく様子を、ただぼーっと眺めていました。
少し経ったところで、先生ご夫妻が子供3人連れて、2階の様子を見に上がってきました。
そこで、初めて子供達をちゃんと紹介してくれたのですが…
先生が子供達に言った驚愕の言葉!
「今日からお手伝いさんがお二階に住むことになったんだよ。この子はお手伝いさんちの子のケイコちゃん。仲良くしてね。」
「え?お手伝いさんちの子って?先生、何を言ってるの?」と、話がとっさに理解出来ず、ただ呆然とたちすくんでいた私。
母には、先生の言葉が聞こえていたのだと思います。
即座に「ケイコ、ちゃんとご挨拶しなさい!」と、厳しい口調で言われ、母の顔を見たら、怒りMAXの表情!
とりあえず「初めまして、ケイコです。よろしくお願いします’。」と自己紹介したところを見届けた母は、作業に戻っていき、先生一家も下に戻っていきました。「お母さんは、きっと私がすぐに挨拶しなかったことを怒っているのだ」と、その時は思っていたのですが、今になってよく考えてみれば、先生の子供達に向かって「お手伝いさんの子」と紹介したことに憤慨したのだろうと思います。
「娘の担任の先生だったけど、主従関係は何もない。こっちから頼んで「お手伝いさん」の仕事をもらった訳じゃない。そっちから懇願したんじゃないか!」という気持ちの方がずっと強かったのだろうと思います。

余談ですが、その日から転居するまで4年間、我が家は「先生の家の、住み込みのお手伝いさん一家」というステータスになってしまいました。
出来は悪くても、一応「公務員」である父も、「住み込みのお手伝いさんの旦那さん」と呼ばれることになってしまった訳です。
引越し初日から、家族全員不幸のどん底に落とされた気分になり、我が家は不穏の空気が漂うようになっていきました。

練馬で迎えた初めての夜のこと。
3人とも無言で夕飯を食べ、両親は荷解きを続け、私は夕食が終わった後の片付けと茶碗を洗ってから、段ボールの山に囲まれて寝たのですが…
生まれた時からずっと、赤羽線(今の埼京線)の線路に近く、かつ夜でも明るくて賑やかな商店街の中で育ってきた私には、何の音もなく、周りが真っ暗な新居と、藤野や行田の田舎が一緒に思えてきて、怖くて眠れなくなりました。
その日から、毎日夜中になる頃に不安と恐怖感が襲ってきて、赤ん坊でもないのに、しばらくの間、夜泣きしていたこと覚えています。

余談ですが、トイレ事情も私にとっては苦痛でしかなく、本当に最悪でした。
生まれて初めて使う「家の中」にある「汲み取り式」トイレ!
十条は、私が生まれた頃にはどこも「ハイタンクの水洗トイレ」だったので、「落ちてしまったらどうしよう」という恐怖に、蓋を開けると蠅がブンブン飛んで出てくるという、虫の恐怖が全く無かったのです。
また、2階にはトイレが無かったので、1階に降りて行き、先生の家と共同で使うことになります。
2世帯合わせて8人で1つのトイレを使うので、誰かが入っていると出るまでの間、ずっと我慢するしかない。
先生の家族と鉢合わせすると、先に譲ることになる訳です。
トイレを我慢することが、かなり苦痛でした。

汲み取り式トイレはこんな感じだった

また、お風呂も1つしか無かったので、先生一家が入り終わった後に「お風呂どうぞ」と声が掛かってから、1階に降りて、お風呂に入らせてもらうことになります。
最初に父が入り、後から私と母が入って、お風呂掃除をして「お風呂いただき、有難うございました」と挨拶してから2階に戻るのがルーチンでした。
一番最後にお風呂に入るので、子供からするとかなり遅い時間になる訳です。
十条では、家にお風呂が無かったけど、好きな時に銭湯に行って、大きいお風呂に入れました。風呂上がりに牛乳を買ってもらったり、帰り道にわらび餅を買ってもらったりしていたのに…それももう出来ない。
待っている間、寝落ちすることしばしば。よく「お風呂だから起きなさい!」と親に叱られました。

こうして練馬の生活がスタートしたのですが、辛いことは家の中だけでは済まなかったのです。

〜続く。

今日はここまでです。
次回は、第13話:転校生の苦悩 に続きます。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
またお会いしましょう♪

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