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「ひろゆき論」(伊藤昌亮)を読んで-2

ひろゆきを生みだした『状況を招来してしまったことの責任の一端は、現在の日本の知のあり方にもある。新たな情報知に対して人文知はどう向き合うべきなのか、そして今日のネオリベラリズムに対してリベラリズムはどう取り組むべきなのか、それらの点が現在、あらためて問われているのではないだろうか』と結んでいる。

この結論が重要なのはいうまでもないが、私は少々悲観的である。というのも、ひろゆき氏以降の若者たちは大方、リベラリズムのできた歴史と意義を知らない、他方大人といわれる人々はプログラミング的思考が理解できない。その懸け橋となるべき中間層は現代の社会を担うことで忙しい。かくて相互理解が難しい。

現在は過渡期であるが、このまま進んでいったらリベラリズムは死ぬのではないか。人文知が絶え情報知によるネオリベラリズム一色になるのではないか、と危惧する。いや、その前に専制的な政権が生まれる可能性もある。そうしたら、戦えるのはリベラリズムなのに。ネオリベラリズムでは呑まれてしまう。

『ホッブズは人間の本性を利己的・排他的とし、そこから自然状態においてはいわゆる「万人の万人に対する闘争」が現出すると考えたが、それに対しロックは、人間の本性を社会的・理性的とし、したがって自然状態においても自由で平等な状態が自然の法によって実現していたとする』。ー「近代社会思想史」(城塚登著)より

ひろゆき化はロックからホッブズへの退行であり、ネオリベラリズムはリベラリズムからの退化だと思う。

リベラリズムが消え去ったとき、なぜ自分たちはこんな殺伐とした世界に生きているのだろうと思うだろう。出来得るならば、ひろゆき氏は「論破王」の称号を返納し、歴史的偏見を捨て去り、若者たちを導いて新たな世界をより豊かなものにしていって欲しい、と思うのだ。

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