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映画「ミュンヘン」 スピルバーグ監督 2006年制作を観て

世界中で賛否両論の話題作のようだ。ミュンヘンオリンピック事件の実話をもとにした映画。

ミュンヘンオリンピック事件は、1972年 9月5日に西ドイツのミュンヘンでパレスチナ武装組織「黒い九月」により行われたテロ事件。イスラエルの五輪選手たちが襲撃され惨殺された。

主人公はアヴナー。イスラエル人、祖国建国のために尽くした英雄の息子。ミュンヘンオリンピック事件を背景に「黒い九月」を掃討する任務のリーダーに白羽の矢が立った。妻は妊娠7か月、一切の社会的な痕跡を消して任務に当たれとの命令を受けるか否か悩んだが、イスラエルのためと信じて受けることにした。妻はニューヨークに避難させた。

そして、情報屋にルイという謎の男を雇い大金を与え、次々とアヴナーは戦果を挙げていった。しかし潮目が変わるということがあるもので、ある時点でルイに翻弄されることになる。それは、アテネで狙っているグループがいると言って、そのためのアジトを紹介するが、狙っているグループにも同じアジトを紹介して鉢合わせすることになる。そこで狙った男と話す機会があり、パレスチナテロ組織は何のために働いているのか?と聞いたら「祖国のためだ。私たちは祖国が欲しい」と言った。それは何千年の流浪の民だったイスラエル人も同じ気持ちなのだ。ただ祖国が欲しい、その想いで何百人の人を巻き添えに犯行を繰り返すのは、お互い様なのだが、どちらかが国を獲得すれば、どちらかは国を失う、というジレンマを抱えてパレスチナ・イスラエル問題は現在も続いている。パレスチナはもう国際的なテロを行うこともなく徐々に家や土地を収奪されて水や電気も不足する中、国際機関の援助で細々と生きている。

この潮目が変わったころ食事の席で、そろそろ引き時ではないか?とアヴナーは言われたが、テロリスト全員を殺すまでやらなければいけないと答える。その頃から、仲間が次々と襲われ、チームが櫛の歯が抜けたようになっていく。ついにアヴナーも標的にされ尾行がつき狙われる側になったのだ。それは、ルイが相手側に情報を売ったからである。恐怖に怯えるアヴナーは、妻や娘に危害が及ぶのではないかとの危惧で焦燥感に苛まれる。寝付けなくなり、悪夢にうなされるようになる。走馬灯のように自らが犯した暗殺の光景が浮かぶ。アヴナーは容疑者11人のうち7人を暗殺したが、後から後から武装組織のリーダーは後継者が出てくる。「いつになったら終わるんだ」という焦りも生まれてくる。

そうして、イスラエル当局からアメリカからイスラエルに戻って働かないかとオファーがあったが、アヴナーは頑なに固辞した。その時のアヴナーの胸に去来した思いは、国家とは何か?人生を犠牲にして守る価値があるのか?という思いだったのではないか。アヴナーの母親は「あなたを誇りに思うわ。私たちの祖国を守ってくれたのだから。」と言ったが、アヴナーの「僕が何をしてきたか、話を聞きたい?」との言葉に、母親は「いいえ」と拒絶したのだ。祖国を守るために僕がどんなことをしてきたのか、知りたくもないのだ、というアヴナーの絶望はこの仕事を辞めさせるに十分だった。アヴナーは何ものでもない社会的に抹殺されたものとして生きることを選び、国を捨てたのだ。

これらの1970年代の話は、2006年制作されたこの映画が言いたいこと「テロとの戦争とはなんなのか?」という問いにつながるのではないか。2,3年前まで私にもツイッターを通じて米軍兵士という人からメールが来て、訓練の様子や作戦の一端を垣間見させたことがあったが、彼らはアフガニスタンでタリバンと戦って撤退したのだ。

領土としての国家は無ければ流浪の民となるが、ベドウィンのように国家を持たない民族もいる。農耕民族には国は必要だと思うが、どこかで本末転倒して国家のための国家になるときがあることが恐ろしい。「国家とは何か?」この問いは、これからも続くだろう。グローバル時代に国境が薄れていく一方、ナショナリズムは依然活発だ。国家という共同幻想に振り回されない人間でありたいと思う。

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