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「きく」ことを選んだ人たちへ〜遠慮と配慮〜

遠慮と配慮、どちらも他者との関わりの中で出てくるものですが、性質が全く違うことに気づいていますか?

もちろん両者には歴史的にみて適切な状況がありますが、ここでは遠慮という言葉が知らずに生み出してしまう負の副産物の一部として読んでいただけるとありがたいです。

遠慮というととても奥ゆかしいことのように感じるかもしれませんが、他者と関わる時に距離を生み出すことでとても邪魔をするものでもあります。

遠慮とは、それが適切に働かない場合、嫌な言い方をすれば、自分は悪いことをしないために関わらないことを決心している状況かもしれません。

ここでいう悪いことというのは、厚かましさ、違反者、などで、遠慮というのは、自分で自分にそれを課す場合、それににならないでおこうという、何か自分に禁止する方向に働く力ですが、これを見てもこの場合の遠慮というのは、どちらかというと他者のためというより自分に焦点が当たっている姿ではないでしょうか。

控えめな態度ではありますが、自分を守ろうとする態度なので、ここには自分だけが正当なものであろうとする力が生まれ、それは周りの人にも伝わり一気にお互いの間に距離を生み出します。
これが場に水臭さや他人行儀、探り合いの雰囲気を生み出す原因となります。

これが厄介なのは、自分がその状態になっていることに自分では気づきにくいことです。そして、プロフェッショナルであろうとする事と表裏一体になっていることでもあるので、そのあたりの自覚がさらに求められるところです。

一見同じような態度でも真逆の働きが生み出されるのが配慮というものです。

配慮の時は、自分が間違わないためというよりは、相手の気持ちや状況を気遣っているので、距離が遠くなることはないでしょう。
もちろん、配慮も単なる思い込みであれば、押し付けになってしまう恐れもあります。

ですので、ここでの本当に大切なことは、相手への確認があるかどうかでしょう。
確認とは相手への尊重にほかならないのです。

もちろん、ここで取り上げているのは、相手の話をきく対話の場面ですので、そうではない場面、例えば、電車の中などで席を譲る場面など当てはまらない場面もあります。

話をきいて対話を深める場面では、自分が配慮のつもりでも、相手に本当はどうかの確認を怠るなら、それは近づこうとしない遠慮と言えるかもしれません。

話をきく時、こちらが遠慮すると相手も何も話せない状態が起こりがちですが、配慮や気遣いがない場では話す気持ちも失せてしまうでしょう。

なんでも話しやすいダイレクトな場作りとは、自分の中に起こっているのが、遠慮なのか、配慮なのか、そしてそこに相手への尊重があるかどうかに気づいていくところから始まるのではないでしょうか。

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