幼い時の行動指針が今の私をつくっていた

私は最近、自分自身について一つ重要な気づきがありました。
まだうまく言語化できないかもしれないのですが、少し書いてみようと思います。

気づきのきっかけは『対話の哲学』の中にある一節を読んだことです。

それは、カント倫理学の定言命法に触れた文章で、ある行為が普遍的法則になった状況を考察しているところでした。

以下にその部分を抜粋します。
たとえば、いま私がひとのものを「盗もう」としているとしてみよう。そして、この「盗む」という行為が普遍的法則になった状況を考えてみよう。つまり、すべての人間がすきあらば、ひとのものを盗むという状況を考えてみよう。そうすると、私は自分のものが盗まれないかと四六時中警戒していなければならない。そんな状況を私は望まないはずである。したがって、私は自分の行為は倫理的でないという評価を与えざるをえない。
 さらに、私が「困ったひとは助けない」ということをみずからの行動指針にするとしよう。私はこの行動指針が普遍的法則になるように意志するわけにはいかない。なぜならば、そんなことをすれば、他人の愛や同情を必要とする場合はいくらでも生じるのに、私はそうした援助をすべてみずから失ってしまうはめになるからである。~村岡晋一著『対話の哲学』P54より~

ここを読んでいて、私はふと幼いころに、自分自身がこのような行動指針を決意した瞬間があったことを思い出したのです。
かなり遠い記憶ですが、たしか、幼稚園に通っていたころのことだったと思います。
私のそれは、どんな行動指針だったかというと、たしか「誰も私自身に関わらなくていいから、私も関わらない。」という理論だったと思います。
今から思うと、本当に傲慢で浅はかな考えですが、この時の自分の中で、とても納得して決意した記憶が明確に残っています。
でも、なぜこのようなことを考えたのか、そこのところが思い出せない。
でも、かなり強い決意だったので、私は即座に行動に移し、誰かと関わる時に、そっけない態度を取り始めました。
そうすると、友達が私を悲しそうな目で見つめて離れていったのが心に残りました。それでも、私はその行動指針を守りつづけます。
そしてしばらく経ったころ、子供社会の絶対的な介入に会います。
突然、男子の友達が私のところに何人か現れ、私の手足をそれぞれがひとつづつ持って、私を持ちあげ、そのまま幼稚園中を練り歩いたのでした。
私は恥ずかしさでいたたまれない気持ちでしたが、幼稚園を一周し終わった友達たちは、私を下して、「おまえ、最近生意気だから」とだけ言って、立ち去ったのでした。
このことをきっかけに、私はその行動指針を普遍的法則から消し去さざるをえないことを痛感しました。
私の場合は、関わってもらえないから困るという経験からではなく、社会から介入されないということは不可能なのだという理由でした。
今から考えても、子供の行動はなんと効果的なのだろうと驚嘆する思いです。
その友達のしたことは、私に、社会との関係性を断ち切ろうとしていたことを一瞬で諦めさせました。
子供の社会とはかくも健全なのだと思わされます。
とにかく、私は、その時の恥ずかしさと、友達の悲しそうな顔の記憶から、自分の考えた理論が間違っているのかもしれないと思い直したのでした。

この時の記憶はこの後、すっかり忘れていましたが、この度のきっかけで思い出したことで、なぜこの時このような決意をしたのだろうとあらためて考えてみました。

おそらく、それは、幼い目から見た、私の両親と親戚関係の複雑さと煩わしさから導きだした、この世を渡っていくための自分なりの解決策だったのだと思います。
事実、この後も、私はかなり長いあいだ、自分のことを誰もしらない人たちの環境で生きていきたいという憧れがどこかしらにあったのを覚えています。
その浅はかな憧れは、ムーミンや夢千代日記の世界を羨ましいと思っていたことからもわかります。
ムーミンは、私にとって、とても不思議な世界でした。それは、ムーミン谷の主要な面々にはムーミン以外に親や親戚の存在を感じさせるものがいなかったからです。
みんな大人でもなさそうなのに、親がいないのに生きていけていることがとても不思議で、なにか自由な世界に思えたのでした。
夢千代日記はテレビドラマで放映されたの中学生ぐらいの時に観て、ちゃんとした内容もつかまぬままに、あの、身寄りのない人同士が身を寄せ合って生きていっている世界が私には理想に思えたためでした。
(ここで、断っておきたいのですが、私は親との関係性は悪くはありません。単に親と親戚の間でおこる複雑な関係性を客観的にみる経験が私に直接かかわる以上の煩わしさを感じさせたのだと思います。
私の子供時代もそのあと成人してからも、普通に幸せな家庭環境でした。)

それでも、私は、それを憧れとしつつも、家族というどうしようもなくつながった人々、その周りの人々との関係性は、絶対断ち切れないものなのだということを受け入れ、その中で生きていく決意をしたのだと思います。

このことを考えていて、もう一つつながったことがありました。
それは、私が出会ってからずっと自分の指針としてきた、『維摩経』についてです。
維摩経とは、仏教の経典の一つで、聖徳太子の時代に日本に伝わったと聞いています。内容は、世俗の者である維摩居士という人が、ある時、病気になり、それを知ったお釈迦様が、弟子の菩薩たちに、誰か維摩のところにお見舞いに行ってきなさいというのを、次々に、自分はかつて維摩にこれこれのことでやり込められたことがあるので、とてもお見舞いに行くことはできないと辞退して、最後に残った文殊菩薩がついに代表でお見舞いにいくことになる。そこで、維摩と文殊菩薩のやり取りから、様々な問答が繰り広げられるというお話仕立てのお経です。維摩居士は、世俗の中に居ながらに、菩薩をやり込めるほどの悟りをひらいている。初めてこのお経の存在を知った私は、ここにとても共感しました。それまでも、出家しないと悟りを開くことができないという考えに疑問を持ち続けていました。
出家しないとできないことなど、この世の中で意味がないのではないかという強い思いが私の中にありました。

それが、なぜ私の中で、確信ほどの強さで思うのかがわからなかったのですね。
でも、この度、幼稚園のころの体験から決意した行動指針が今の私の中で、こんなにも強く自分を支えていたのだということを気づいたのです。
それは、幼稚園社会で教えられた、ひととのつながりであり、思いしらされた孤立の不可能さであり、人の間にいるという絶対的な価値だったのだなと。

それに気づいた今、あらためて『維摩経』が新しい意味を伴って私の目の前に再びあらわれたのでした。

人の生きていく指針は、こんなにも幼い時に決めているものなんですね。


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