見出し画像

限りなくネコ科になることのススメ

5年前の日記を読み返している。

「えべっさん」(恵比寿神社のお祭り)の日が誕生日という91歳になったおめでたい父と電話で話をした。毎日自転車か徒歩で最低一時間、だいたい三時間は動き回る父は、ご近所さんや出先で出会った人と会話を楽しみ、美味しいものを食べよく寝るのが日課。「見栄はってええかっこしようと思うたら、あかんのやで。好きなこと、やりたいことだけテキトーにやっとたら、ええの。」が口癖で、ストレスもなく、生きてるだけで幸せというお方。うちの猫と会うことができたら、きっとすぐ仲良しになるだろうなぁ〜という、限りなくネコ科の父だ。お誕生日おめでとう!」

今日生きていたら、96歳。

しかし、彼とて子供の頃からこんなにお気楽だったわけではない。子供の頃は、兄弟を背中にくくりつけ、家事の手伝い。中学になれば、奉公。大戦中は、「戦争が終わっては、しばらく外国に行けなくなる。多分一生行けない。」と思い、終戦間際に志願兵として出征。

「外国に行ってみたかったんや。アホやろ、ワシ。」という父は、外国の中でも一番寒くて辛いシベリアに抑留された。運良く日本に帰ってきてくれたので、その後私が生を受けることになったのだが、、、
一つまちがったら、凍土に骨を埋めていてもおかしくない状況にいた。

その後、家庭を持ち家族を養い、、、高度成長時代の日本とそれまでの半生の記憶の狭間で、「生きていること、生かされていること」に相当の違和感を感じながら生きてきたに違いない。

言葉少なではあったが折々に、「我慢したらアカン」「そんなに頑張らんでエエ」「体を大事にしなさい」「エエ格好したら、あかん」と嗜めてくれた父であった。「見栄をはらんと、自分のために気楽に生きたらエエんや」とよく言われた。

元々ネコ科の父であったはずだが、野良猫家族を安全に養っていく負担がなくなり、私たち子供が巣立ち、再び夫婦だけの生活になった頃には、持ち家で年金暮らし。母の介護が10年間続いたが、その合間に墨絵を描き、近所の人に陶芸を教え、車椅子の母を押しながらご近所さんと会話を交わす。「いつも、ニコニコしている献身的なご主人」として、近所で評判の父だった。そして、なぜかご近所の人が食べ物をどんどん持ってきてくれる「お供物付き」の猫だった。「大物やな、、」と、娘の私はいつも感心したものだった。

そろそろ、私もわがままな飼い猫になるかな?いや、まだ早いか?もう少し爪でも研いでまだ虎のふりでもしておこうか?

還暦を前に、そんなことを考えるようになっている。