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父を想う

2023年9月が終わるころ、父は亡くなった。70歳だった。

その年の8月下旬に入院したときにはもう末期の状態で、緩和病棟で過ごすことになり、それからひと月ぐらいで父はいなくなってしまった。あっという間だった。

◇◇◇

父は大工をしていた。

中学を卒業してから修行に入り、亡くなる2年ほど前までずっと現役で働いていた。私は小さい頃に現場に連れて行ってもらい、父の仕事を見学させてもらったことがある。大きな木材を運んだり、釘を打ったり、ひとり黙々と作業する姿を「すごいなぁ。」と見ていた。夏の酷暑と言われる日も冬の体の芯まで冷えるような日も冷房も暖房もない中で働く父を尊敬していた。


私と父は仲が良いとは言えなかった。
かといって、仲が悪くいがみ合っているというわけでもなかった。

中学生のいわゆる思春期に入った頃から親に対して反抗するようになり、とくに父を毛嫌いするようになった。もともとあった父との距離がまた一段と開いていったのもその頃からだ。

それから成長し大人になっても父との距離が縮まることはなかった。顔を合わせても会話を弾ませることはなく、一言、二言、言葉を交わすだけ。そんな状態でずっと来てしまった。

父は決して子煩悩というタイプではなかった。

家族旅行は1回しか行ったことがないし、クリスマスや誕生日にケーキを買ってきてくれたこともない。

とても自由な人で休みの日はフラフラと一人で出ていってしまう。子育ては母に任せきり。そういう時代だったといえばそうなのかもしれないが、私としてはもう少し家族でどこかに出かけたかったものだ。

父との距離があった分、母との距離は近かったように思う。会話はほとんど母としかしてこなかった。そして、いつの間にか父対母と私という構図ができていた。

父はとても難しい人だった。

頑固だし、不機嫌になるとそのオーラを撒き散らし、ひとりムスッとして物に当たることも多かった。

父が不機嫌になると家の雰囲気が一気に悪くなり、私はそれがとても嫌だった。そんな父の姿も、私と父の距離を作った原因のひとつだと思う。

実家で父と暮らしていた頃は、父の嫌なところばかりが目についた。

テレビのボリュームをやたらと大きく上げるところ、母の作る料理をあからさまに不満顔で見るところ、自分の機嫌を自分で取れないところ、、、

父といると小さなストレスが溜まってしまう。

そんな小さなストレスを感じたくなくて距離をとっていたかもしれない。私は父と同じところに居たくなくて、父がいる時は自室にこもっていた。

私は父といるのが苦手だった。
どう向き合ったらいいのか分からなかった。

◇◇◇

父が緩和病棟に入院してから、私はできるだけお見舞いに行った。母と一緒の時もあれば一人で行くこともあった。

父のため、というのももちろんあったけど、自分が後悔したくなかったからだ。

面会時間は30分と決められていた。

30分間、ぽつりぽつりと会話をした。
もともと会話の少ない父と私。話すことがすぐになくなり沈黙することの方が多かった。でも、私はそれでよかった。特別な会話をしなくても、「私」は側にいる。父に一人じゃないと思って欲しかった。

◇◇◇

父が亡くなったとき私はたくさん泣いた。
緩和病棟に入ると分かってから、覚悟はしていたつもりだけど、いなくなるとやっぱり寂しい。もっと、父と会話をしてこればよかった。

私は父のことを想った。

私が小さいとき熱を出して寝ていると、仕事から帰った父が私の額に乗っているタオルを変えてくれたこと。

漫画についていた付録を私が寝ている間に組み立ててくれたこと。

私がオセロを覚えたら相手になって遊んでくれたこと。

私がうつ病になって引きこもっているときも、それから会社勤めが上手くいかず転職をくり返しても、私を一切否定しなかったこと。

実家に顔を出すと「体調はいいか?」と気にかけてくれたこと。

父のお見舞いへ行くと、「無理して来なくていいよ。」と気遣ってくれたこと、、、

あんなにも苦手だった父なのに、嫌なところしか目に入らないからできるだけ避けてきたのに、なぜだろう?

私の想い出の中にいる父は優しいのだ。


苦手でどう向き合ったらいいのか分からなかった父だった。だけど、父からちゃんと愛情をもらっていた。私はそれが嬉しいのだ。


私は父に感謝している。


#創作大賞2024

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