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ジャニーズ帝国は疑似カルト集団だ

先週7日に開かれたジャニーズ事務所の記者会見を見て気づいたことは、いわゆる「ジャニーズ帝国」はカルトと同類だということだった。


 

記者会見で感じた違和感


 故ジャニー喜多川の4桁にも及ぶかもしれないという空前の性犯罪が満天下に暴かれる契機となった3月のBBCのドキュメンタリーのなかで、登場した元ジャニーズjr.の男性らが「ジャニーさんは今でも好きです」と言ったことに、リポーターは大きな違和感を吐露していた。
 それと似た違和感を、今回の記者会見を見ていて感じた。東山紀之らの発言はまるでドラマのなかの政治家の発言を聞くようで全く説得力がなく共感を呼ばない。すべてがウソであることが明々白々であるように思われる。だが、ひょっとすると彼らにとっては、それらはすべて「真実」であるかもしれない。
 そう思って思い出したのが、麻原彰晃逮捕後のオウム真理教信徒らによる記者会見だった。彼らは「麻原は間違っていた」として謝罪し、今後はまともな教団を目指すと表明したように記憶しているが、それを信じた者はほとんどおらず、彼らとの間にコミュニケーションを可能とするような共通言語も共通認識も存在しなかった。

通過儀礼=イニシエーション


 実際、ジャニー喜多川はジュニアの少年らをグルーミングし、「合宿所」という特殊な空間をつくり出して、少年たちをマインドコントロールしていった。たしかに、教団信徒の目標は「救済」であり「解脱」かもしれないのに対して、ジュニアらの目標は歌手や役者としてのメジャーデビューであり、その足がかりとしてバックダンサーになることだったかもしれないが、そうした現世的な目標もある種の「救済」といえなくもない。
 そうしたジュニアらにとって、ジャニーの性行為の強要を受け入れることは、メジャーへの通過儀礼=イニシエーションであったといわれる。邪教とも呼ばれるカルトでは、絶対的権力を持ち信徒らを精神的に支配している教祖が、イニシエーションと称して信徒らに異常な性行為を強いることは、これまたよく聞く話だ。

現役タレントから出ない #MeToo


 3月以来の騒動を見ていて、私がいちばん不思議に思うのは、元ジュニアや一部の元メジャーデビュー組の性被害の告白はあっても、現役のタレントからただのひとつも #MeToo の声が上がらないことだ。
 最近になって、「自分はジャニーさんからそのようなことはされたこともないし、聞いたこともない」と発言するタレントも複数現れているようだが、その言葉を額面通りに受け取る者はあまりいないだろう。
 なぜなら、ジャニーにとってジャニーズ事務所という存在は一義的には自分の性的欲求を満たすための便利なツールであり、芸能事務所という属性はあくまで二義的意味しか持たなかったであろうからだ。ただ、不幸にして(ジャニーにとっては幸運にも)ジャニーはその方面に才能があり、事務所がどんどん肥大化していったことが、空前ともいわれる性犯罪を生む結果を招いたのだった。
 ジャニーズのタレントらが、他の芸能事務所のタレントたちといちばん違うのは、一見してジャニーズだと分かる風貌の男たちばかりである点だ。それこそ、ジャニーの「好み」=嗜好性の表われにほかならず、ジャニーの眼鏡に適った少年たちだけがジュニアに入門することができたのだ。東山紀之など、街を歩いているところを車から目撃したジャニーに直接スカウトされたと自ら述べている。(「週刊朝日」)

脱落者と成功者の違い


 数々の証言から推察する限り、ジャニーの毒牙にかからなかった者は、途中で逃げ出した(=退所)少年しかいないはずだ。通過儀礼を避け続けてメジャーデビューが果たせた者がいるとはとうてい思えない。
 たしかに彼らは、ジャニーの陵辱に耐えきれずに脱落し、一生消えぬトラウマを負い続けることになった元ジュニアらとは異なり、その「修行」に耐え「通過儀礼」をくぐり抜けた強い精神力の持ち主らであり、なかには北公次のように酒や薬物でそのトラウマを紛らす者もいたであろうが、大部分はジャニーとの行為を記憶の奥底へ封じ込めて平常心を保つことに成功し、公私ともに充実した人生を送っていることだろう。

メラネシアの島々のイニシエーション


 文化人類学の分野ではよく知られていることだが、太平洋のメラネシア系の島々には、男児が成人の男になる通過儀礼として、一定期間、特定の居所に留まって成人男性から性的行為を受ける習慣がある。だからといって彼らが同性愛者ということではなく、長い歴史のなかで培われてきた儀式であり島の習慣のひとつに過ぎない。
 これは公然の事実であり、この通過儀礼を受けなければ成人男性になれないので、それを受けた少年は、トラウマを負うこともなく、成人してからは普通に女性と結婚して子どもをもうける。このように、外から見れば異常と思われるイニシエーションも、その社会のなかでは「普通のこと」たりうるのだ。 
 同様に考えれば、ジャニーズ事務所や「合宿所」は、社会から隔絶したひとつの独立した社会であり、その社会の内部ではジャニーによる異常な行為は、大人のジャニーズタレントになるための不可欠な「通過儀礼」として合理化できるのだ。
 ジャニースの内部に留まる限り、いや、たとえ事務所を退所したとしても、精神的にジャニーズという社会に呪縛され続けている限りは、ジャニーによる異常な行為はちっとも異常ではなく、ましてや犯罪などであろうはずがない。ジャニーは父親のような優しい存在であり、神のように崇拝する対象にほかならない。

ジャニーへの思慕と敬愛


 だから、現役タレントらから #MeToo の声が上がらないのは、自己保身のためといえばその通りだろうが、私はそれ以上に、彼らには未だにジャニーに対する思慕があり、それは長い間持続してきたジャニーズという疑似カルト集団のなかでのマインドコントロールゆえのものであると思うのだ。
 ジャニーの性犯罪は、人により強弱や持続性に違いはあれ、すべての被害者にトラウマを生じさせたであろうが、一方で、グルーミングによってつくり出されたジャニーへの思慕と敬愛も普遍的に存在し、そう簡単に否定し去ることができるものではあるまい。東山がジャニーの行為をいくら「鬼畜の所業」と断罪し、「今は愛情はない」と言っても、それが空虚に響くのはそのせいだろう。
 ましてや成功したジャニーズタレントたちにしてみれば、ジャニーあっての今の社会的地位であり、とりわけ義理と人情の情緒を重んじるこの国においては、ジャニーを裏切ることなどありえない非道と不義理であり、ジャニーを性犯罪者として告発する者など、裏切り者どころか悪魔のような存在に映るかもしれない。

ジャニーズ事務所の解体が被害者救済への第一歩


 そのように考えてくると、7日の記者会見で明らかにされた藤島ジュリー景子社長の退任と東山紀之新社長の就任といった茶番が「解体的出直し」に全く値しないことは言をまたない。法的問題はさておいて、ジャニーによる4桁ともいわれるすべての性被害者の救済のためには、文字通り、ジャニーズ事務所の解体こそが、その第一歩とならなければならない。
 そうしてこそ、彼らの多くが囚われているだろう今はなきジャニーのマインドコントロールから彼らを解き放つ困難な作業が、初めて緒に就くことを可能にするだろう。そして、それこそがジャニーによる性犯罪被害者の真の救済への道になるのだと思う。
 


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