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「The 100」論または殺人と戦争をめぐる人間性とヒューマニズムについて

 アメリカで2014年から2020年にかけて放送された「The 100」をNetflixで観た。シーズン7まで全100回の大作で、1日1シーズンまるごと観ても全部観るには1週間かかるところ、私は約3ヵ月かけて観終えた。

 この作品を通して、私はかねてから考え続けてきた「仲間を恒常的に殺す唯一の種=ヒト」について改めて思いをめぐらせ、「人間性」「ヒューマニズム」の偽善性を思い起こさずにはいられなかった。

完璧なディストピア作品

「The 100」はこれ以上ないほどの完璧なディストピア作品で、人間の醜悪さ、残虐性、偽善性、とりわけその凶暴性をこれでもかというほど描き尽くす。シリーズの大部分は戦争場面で、残忍なシーンも多く、これをある種の「戦争ドラマ」とみることもできよう。しかし、おおかたの戦争ドラマや戦争映画が善悪、正邪の二元論で描かれ、最後は正義が悪に打ち勝つのに対し、この作品は、昨日の正義は今日の悪、善人が突如殺人鬼に変貌するかと思えば、残虐な人物が正義のためにたたかう。絶対的な「正義」などどこにもなく、それは主人公(たち)とて例外ではない。

 普通、ドラマの主人公に対して、視聴者は多かれ少なかれ自己投影することにより共感を得、ヒロイン・ヒーローの疑似体験を通して満足感を得る。ところが、この作品の主人公たちに少しでもそのような思い入れをすると、視聴者はたちまち裏切られることになる。その裏切りを通して、視聴者は彼ら彼女らに嫌悪や憎悪を覚えることすらあるだろう。

原作者は若き女性作家

 この作品は同名小説のドラマ化であり、原作者はカス・モーガンという37歳の女性作家だ。小説第1部の出版が2013年(3部作~2016)、彼女が28歳の年であり、テレビドラマ化が翌年からなので、小説とドラマがコラボして同時進行していったことになる。(小説の日本語版はまだない。)

 日本であれば、原作はマンガ、そしてアニメでドラマ化、映画化といったところが順当な作品ともいえる。

 この若い作家が、私が考えているような人間に対する否定的な価値観をどの程度共有していのるかは不明だが、彼女が少なくとも殺人や組織化された殺人=戦争を極致とする人間の性(さが)について深く洞察していることは、ラストシーンを観ても明白だ。どんなディストピア小説でも、エンタメ作品であれば結局ハッピーエンドになるものだが、そんな先入観を裏切るようなこの作品の結末は、私の期待をおおかた満足させてくれるものだった。

延々と繰り返されるたたかい

 物語は、人類を滅亡させた核戦争から97年後、宇宙空間で生き残った人々の子孫2400人が生活する宇宙ステーション=アークから始まる。200年経たないと地球が再び人類が生きる環境を取り戻さないと言われていたが、システムの障害でアークの酸素が3ヵ月しか持たないことが分かり、未成年者の囚人100人が地球の環境を確かめるため、強制的に地球に送られることになる。

 彼らがたどり着いた地球は、緑豊かな環境を取り戻していただけでなく、少数だが壊滅的な放射能被害を生き抜いた人々の子孫も暮らしていた。彼らは数千人単位に「くに」をかたちづくって王を戴き、さながら古代国家のような生活を営んでいた。

 アークから舞い降りた「空の民」は彼ら「グラウンダー」から警戒され、やがて一触即発の緊張関係から戦争へと導かれていく。そうしてひとつのたたかいが終わると、次の敵が現れ新たな戦争が始まり……、ついには、人類が滅亡前に残した原発が老朽化からメルトダウンを起こし、人類第2の滅亡を迎える。

 その危機を乗り切った少数の人間は地下シェルターで命をつなぎ、一部は再び宇宙へ逃れ、最後は時空を隔てて延々とたたかいの連鎖が続き、最後の最後に「最後の審判」の時を迎える、という筋書きだ。

正気としての殺人・戦争

 核戦争で終末を迎えて生き残った人類が、一度は12の宇宙ステーションを合体させて一体となったものの(実際は数人で構成される議会とその議長に支配されている)、地上で異なる集団同士間の争いを繰り返し、最後は時空を超えた「最終戦争」へと突き進む。

 その中で、主人公たちもたたかいを余儀なくされ、多くの人々を殺す。彼らはそのことに罪悪感を抱き悩み苦しむが、結局は「家族を守るため」「仲間を守るため」(それはひいては「国を守るため」という大義に通じる)と言って自己を正当化していく。主人公のクラークが、たたかいのたびに繰り返す「仕方なかったの」という言葉にすべてが集約されている。

 数千人規模の古代国家並みの集団の間での「極限状況」での戦争とはいえ、いや、だからこそ、そこには戦争というものの本質が余すところなく暴き出される。それはそのまま、現代の戦争(例えば、現在進行形のプーチンによるウクライナ侵略)にも通じる。

 原作者は、戦争が組織化された最悪の殺人であるということからも目を逸らさない。そして、問題を殺人・戦争で解決しようとすることの愚かさからも。また、殺人や戦争が人間の狂気ではなく、まさしく正気であることも喝破する。

仲間を殺す唯一の種=ヒト

 動物は種の保存=DNAの継承という大原則に則り、同じ種や属同士では普通殺し合わないものだ。少なくとも、大脳の発達した鳥類や哺乳類に限れば、そういえる。

 例外的に見られる仲間同士の殺し合いも、それなりに合理性・合目的性がある。それは主に、縄張り争いと生殖活動にともなって見られるものだ。

 前者は、時にヒートアップして傷ついた個体が死に至ることもあるが、鳥類の縄張り争いなどは、たいてい威嚇行動ですむ場合が多い。

 生殖活動における雌をめぐる雄同士のたたかいも、それぞれの種に特有にルールがあり、「相手を殺すまでたたかう」というルールは存在しない。クジラの一種であるイッカクは、その特徴である長い角を海面から突き出し、長さを競って優劣を決めるといわれる。鳥類の場合は、オスが自らの毛並みや囀り、ダンス等を誇示するディスプレイを行い、相手を選ぶ権利は雌にある。

 生殖活動にともなう殺しとしては、哺乳類のいくつかの種で認められる雄による雌の連れ子の殺害もあげることができる。雌は子育て中は発情して新たな雄を受け入れることがないため、雄が子どもを殺して雌の発情を促すという、残酷ではあるがある程度合理性のある行動だ。

縄張り争いから始まった殺人・戦争

 では、ヒトはいつから、そして何故、ヒトを殺すようになったのだろうか? それは思いのほか古く、もしかするとヒトがチンパンジーと枝分かれして間もなくのことだったのかもしれない。そして、その原因は道具の使用にも関係しているかもしれない。

 ヒトは道具を使って狩りをし、獲物を得ることを学んだが、狩りをする道具はそのまま仲間を殺す武器にもなる。

 チンパンジーも石を投げることを知っており、群れ同士のあらそいでは石を投げたり、木の枝を振り回したりしてたたかう。しかし、そのことで相手の群れの構成員を殺すことはめったにない。

 しかし、腕力も知力もチンパンジーに勝るヒトが、群れ同士のたたかいで相手に投げた石が頭部に命中し、相手の命を奪ったとしよう。普段なら、どちらかが形勢不利となった時点でたたかいに決着がつくものが、仲間を失った集団は怒りと復讐心に駆られてヒートアップし、たたかいがエスカレートするかもしれない。もし、そうならなくとも、次に両集団がたたかう時、やられた方の集団は相手の命を狙ってより大きな石を投げることだろう。

「武器」が石から矢、それを放つ弓と進化するにつれ、群れ同士のたたかいは殺人を目的化し、時にジェノサイドさえ引き起こしただろう。

ヒトは何故ヒトを殺すのか?

 以上見たように、殺人の究極形ともいえる戦争は、ヒトの縄張り争いという集団本能に基づくものであり、現代では通常、国家間の軍隊による戦闘という形態をとるが、革命やクーデター、国家内の異なる民族や宗教集団間の内戦という形態もある。

 しかし、戦争という大量殺人を除いても、ヒトは日常的にヒトを殺す。陽が射さない日はあっても、殺人事件の起きない日はない。法務省が毎年刊行している『犯罪白書』を見てみると、「殺人の動機・原因」として最も多くあげられているのは「憤怒」「怨恨」だ。そして、加害者・被害者の関係を見ると、約半数を占めるのが親族間の殺人であり、それも含め9割近くは面識のある者同士の殺人が占めている。

 「憤怒」や「怨恨」を具体的に見れば、「生活困窮」や「保険金目当て」「債務返済」といった金銭がらみのものが少なくないが、上述したような殺人の起源を考えるなら、お金に困らない社会や貨幣経済を超越した社会を想定しても、殺人は数が減ることはあってもなくなることはないだろう。

 殺人はヒトの本能として内面化されているのだ。一生のうちにそれを実行する者は少数であっても、「殺意」は誰にでも芽生えうることがなによりもの証だ。かくいう私自身、今までの人生で特定の人や人々に「殺意」を抱いたことが複数回ある。

「人間性」とは何か?

 人類を他の動物たちと峻別するものは何だろうか?
 道具の使用か? 道具の使用はチンパンジーなどヒト科の動物やカラスなどの鳥類でも確認されている。

 言語の使用か? 多くの動物たちが鳴き声によって仲間とコミュニケーションをとっているし、最近の研究(鈴木俊貴京都大学特定助教)によると、シジュウカラは10以上の「単語」を組み合わせた百数十種類の「文章」によってかなり高度なコミュニケーション能力を身につけていることが分った。

 喜怒哀楽などの豊かな感情だろうか? チンパンジーの笑いや仲間の死に臨むゾウの涙などがよく知られているが、そうでなくとも、イヌ、ネコ、インコなど、ペットを飼っている人なら、彼らがいかに感情豊かな動物たちであるかを知っているはずだ。

 では、ヒトを他の動物と峻別する特性は何かといえば、人同士が日常的に殺し合うこと、つまり殺人にほかならない。

「人間性」という言葉を辞書で引くと、「人間特有の本性。人間として生まれつきそなえている性質。人間らしさ」(デジタル大辞泉)と出ている。だとすると、殺人こそ「人間性」の表われということができよう。

 同様に、「ヒューマニズム」という言葉を辞書で引くと、「人間性を称揚し、さまざまな束縛や抑圧による非人間的状態から人間の解放を目ざす思想」(同上)とある。これを見て、最大限に皮肉を込めて敷衍すれば、「ヒューマニズム」とは「殺人を抑制している法や社会の軛からヒトを解き放ち、殺人し放題の社会を目ざす思想」とでもいうべきか?

 まさに「The 100」で描かれている世界こそ、そんな「ヒューマニズム」に満ち溢れたディストピアにほかならない。

「人間は崇高で特別な存在」なのか?

 19世紀にチャールズ・ダーウィンが進化論を発表するまで、人間は動物界から超越した「神」のような存在と信じられていた。いや、その後も長らく、人々は人間を他の動物たちから区別し、自分たちを「特別な存在」だと思い続けてきた。

 よく残虐な殺人行為を「鬼畜の行い」と称する。人間の負の側面を凝集させた想像上の存在である「鬼」はともかく、「畜」=畜生すなわち哺乳類や鳥類をはじめとした動物を残虐行為に当てはめるのは、的外れも甚だしい。

 ちなみに、仏教用語の「畜生道」は俗に近親相姦のことを意味するが、初めに述べたように動物界はDNAの継承という合理性・合目的性に沿って動いているので、近親交配は極限状況や人為的な環境を除いて、一般的に避けられるようなシステムを種ごとに形成している。ところが、ヒトの世界では予想以上に近親相姦が、特に男性による女性へのそれが日常的に行われていることが、最近のMeToo運動に触発されたフラワーデモなどでの被害女性らの勇気ある告発によっても明らかになっている。「畜生道」どころか、人の道=「人道」というべきかもしれない。

人間中心主義からの脱却が必要

 ヒトの殺人や戦争がいかに動物としての道に背く行為かという議論に対しては、生物学的見地からではなく、社会科学的見地から見る必要があるという反論も可能だろう。例えば「戦争は政治の延長」といった見方などだ。

 だが、殺人や戦争を社会学や政治学等の観点から見た分析・研究は山ほどあるだろう。しかし、それらはいずれも「人間社会」の内側から見た主観的見解に過ぎない。いわば人間中心主義の産物だ。

 今必要なのは、人間社会の外から、すなわち動物界というより広い観点からヒトを客観的に分析することだ。それは天動説から地動説へのコペルニクス的転回に等しい作業だ。

唯一の希望は女性のリーダーシップか?

「The 100」に戻ろう。原作者が女性であることはすでに述べたが、そのせいか、この話では物語の重要人物の大半を女性が占めている。ヒロインであるクラークしかり、第2の人類滅亡後、地下シェルターでリーダーになるオクタビアしかり、優秀なエンジニアであるレイブンしかり、また、地上の国々の指導者らも多くが女性だ。

 この物語に登場する主要人物(集団を率いていくリーダーたち)はほとんどがマッチョで超人的な生命力の持ち主なのだが、彼女らも例外ではない。クラークやオクタビアらも数え切れないほどの人を殺す。私が唯一、この作品に不満な点だ。

 殺人犯の男女比は、だいたい3:1から4:1で圧倒的に男性の方が多い。軍人の多くも男性だ。この数字に男と女の本質的な違いが隠されているように思うのだが、残念ながら「The 100」は、無意識的にか意図的にか、その点をめぐる男女の性差がほとんど描かれていない。

 私は日本の政治の世界にも、世界の政治にも、女性のリーダーや議員らがどんどん増えれば、人間社会はよりましで平和な方向へと進むものと期待している。

 しかし、一方で3:1や4:1は単なる程度の差に過ぎないのかもしれない。何故なら、それは100:0では決してないからだ。たとえこの世が女性だけの世界になったとしても、殺人も戦争もなくならないのだろう。カス・モーガンがそこまで見通してこの作品を書いたのなら、脱帽するしかない。

殺人や戦争にも合理性がある?

 先に、動物において仲間同士の殺し合いが基本的に見られない理由を見た。だとしたら何故、ヒトがその誕生以来、殺人を日常的に行ってきたにもかかわらず、同じヒト属のネアンデルタール人やデニソワ人は絶滅し、ホモサピエンスだけが生き残ったのか? 文明社会が発展し、兵器もその殺傷力を増し、ついに世界を何度も滅ぼすだけの核兵器さえ手に入れたにもかかわらず、何故人口は増える一方なのか?

 ちなみに、ネアンデルタール人の絶滅については諸説あるが、今日、彼らとホモサピエンスが交雑して、アフリカ人を除く現代人にネアンデルタール人のDNAが引き継がれていることが明らかになったからといって、それが平和的に交雑した証拠にはならない。戦闘行為におけるレイプや奴隷として従属させた関係での交雑であった可能性もある。

 現生人類は、単一種であるにもかかわらず、皮膚の色や、民族・宗教の違いだけでも殺戮するくらいなのだから、明らかにわれわれとはDNA的な違いを持つ亜種のネアンデルタール人らを殺し尽くしたとしても、なんら不思議はない。

「The 100」で最終核戦争が起きたのは、ある科学者が開発したAIが暴走して、増えすぎた人口を減らす目的でなしたことであったのだが、それも、もしかしたらヒトの生存のための合目的的な行為だったといえるのかもしれない。

 食物連鎖の頂点に立つヒトは、捕食者を持たない。かてて加えて、文明の発展は乳児死亡率を低下させるとともに平均寿命も向上させ、人口は爆発的に増加してきた。もしかしたら、殺人・戦争は増えすぎた人口を抑制するという意味において、理にかなった行為なのかもしれない。

 だとしても、人類が真に語本来の意味で「人間性」にあふれた生き物で、知能の高い賢い生き物なら、人口を抑制する他のもっと合理的な方法があるし、それを行うことは十分に可能なはずなのだが……。

ヒトが殺人をやめられるふたつの可能性

 だとすると、ヒトがその悪しき「人間性」を克服し、殺人をやめることは可能なのだろうか?

 私はそれにはふたつの可能性が考えられると思う。

 ひとつは、残忍さを秘めたチンパンジーから、より平和的な性質を備えたボノボという種が生じたように、ホモサピエンスから新たな人類が枝分かれする道だ。

 しかし、自然界で新種が発生するのは、ガラパゴス島の例を持ち出すまでもなく、孤立した種の集団が、独自の進化を遂げることによってなされる。

 一方、ヒトは今日、南極大陸を除いて世界中で繁殖し、なおかつ交通手段の発達により距離を超えて交わるようにすらなっている。

 もし、にもかかわらず、「新人類」の誕生に期待が持てるとしたら、それは人類が宇宙に進出し、地球から遠く離れた惑星で何世代にもわたりその星の環境に適応する中で進化を遂げる場合が考えられるだろう。

 もうひとつの可能性は、遺伝子組み換えだ。殺人を引き起こすDNAを特定し、遺伝子操作によってそのDNAを殺人を引き起こさない「平和的な」DNAに置き換えるのだ。そうすれば、人類は末永く、殺人も戦争も引き起こさない平和な動物として繁栄していくことができるだろう。

人類は超文明社会へ至る前に絶滅する?

 私はかねてから、人類が宇宙に進出し、もっと高度な文明を持った宇宙人たちと交流できるようになるためには、国家を超越し、ひとつの人類として平和的に繁栄することによって超文明社会を切り拓いていく必要があると考えてきた。

 奇しくも「The 100」のラストシーンでは、人類の「超越」ということがテーマとなる。そして、殺人の連鎖を断ち切れない人類には「超越」する資格はないとの「審判」が、一度は下される。当然だろう。

 もし、現在のまま、人類が超文明社会に突入したら、遠い将来、宇宙戦争を引き起こして宇宙そのものを消滅させる愚をも犯しかねない。

 しかし、宇宙誕生以来138億年間、この宇宙が存在し続けてきたからには、かつて地球人のような愚かな知的生物が超文明社会に突入し、宇宙を自在に操るような存在になったことがないことを意味する。

 人類も、上述したふたつの方法のいずれかにより殺人という宿痾を断ち切らない限り、超文明社会に至る前に、何らかの原因によって絶滅する運命にあるとみて間違いないだろう。

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