見出し画像

言葉の持つコンテクスト、さらに想像可能性と実現可能性と論理空間

  野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』分析の続きです。これまでの記事は、以下のマガジン

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む(野矢茂樹著)|カピ哲!|note

をご覧ください。なお、本文中の引用は(一部野矢氏の『論理学』からのものを除いて)すべて野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』筑摩書房、2006年からのものです。

********************

 野矢氏は富士山関数「富士山―x」の値域・定義域について下のように説明している。

富士山関数「富士山―x」の場合には、「富士山-白い」はよいが、「富士山-走る」はナンセンスとなる。そこで、定義域は{「白い」、「噴火する」}であり、値域は{「富士山-白い」「富士山-噴火する」}である。

(野矢、89ページ)

・・・ここで「富士山-走る」(野矢、89ページ)は論理空間としてナンセンスと言い切れるのかどうか・・・山から突然足が生えて走り出すような漫画を描くこともできるし想像・空想もできる。しかし現実世界を考えるとナンセンスである。そんなことは起きない。
 しかし見方を変えれば、地殻変動、プレートの移動により山が地球上を移動する。これをすごく長いスパンで見れば「走る」と言えなくもない(?)。ただ富士山の生成過程を考えればやはり走ってはいないか・・・しかし富士山ではない他の山に関してはそういうことが言えるかもしれない。このように「富士山-走る」あるいは「山-走る」という命題は「走る」という言葉をどのように解釈するかによっても論理空間として成立するかどうか見方が変わってくる可能性があるのだ。
 とりあえず「走る」という言葉を、人間や動物が走るような意味として解釈するとしても(ムカデやヘビはどうなるのだろうか?)、「富士山―走る」「山―走る」という命題(?)は実現可能性としてはナンセンスで、想像可能性としてはナンセンスとは言い切れないのではなかろうか。いや、そんなこと想像などできない、そもそも足がついている時点で山ではないよという人がいるかもしれないが・・・
 「ウィトゲンシュタインが宇宙飛行士となってロケットに乗って旅立つ」というのは現実世界を考えると、ウィトゲンシュタインの時代に宇宙飛行できる技術などなかったのだからナンセンスだが、想像はできる。ウィトゲンシュタインが宇宙に行っていろいろな冒険をするという物語を作ることもできそうである。実現可能性を考えれば(過去を変えるということは)ナンセンスであるが、想像可能性を考えれば論理空間にある命題であると言えるのではなかろうか。
 「ウィトゲンシュタインは2で割り切れる」(野矢、88ページ)は具体像を想像すらできない。ウィトゲンシュタインの体が真二つになってしまうという想像はできるかもしれないが(すみません・・・)それが2で割り切れるということではないだろう。しかし人によっては体積や体重で二等分すれば良いのでは、と考える場合があるかもしれない(物騒な想像で本当にすみません)。
 このようにその言語表現が論理空間の範囲にあるか否かは、その言葉をいかに解釈するかというコンテクストの問題が実はあるのだ。その言語表現が指し示す対象が具体的にいかなるものを指しているのか、その解釈が明確に(具体的対象として)指し示されていない限り、論理空間の範囲にあるか否かを決定することさえできないのである。
 とくに論理学においてはそのコンテクストの問題をすっとばした上で論理を勝手にアプリオリであるかのように取り扱ってしまっている。もちろん野矢氏やウィトゲンシュタインについても同じである。
 さらに別の事例を考えてみよう。ある同一人物、たとえば私の知っているAさんという人が、分身の術のようにそこに二人いることを想像はできる。映像で表現することもできる。しかし現実として考えるとナンセンスである。あるいは「昨日午後1時にAさんは自宅にいてかつ友人宅にいた」とう状況を空想できるかもしれないが、実際にはそんなことは無理である。
 ただ、将来技術が進歩して私が自宅にいながら意識を旅行先に持っていくようなことが可能となったとすれば、ナンセンスであると言いきれなくなるかもしれない。このように論理空間とは完全に固定されたものであると断定さえできない。
 「ウィトゲンシュタインは宇宙飛行士であった」(野矢、28 ページ)ことが「可能性として考えられる」(野矢、29 ページ)のに、「富士山―走る」がナンセンスとなるのは、規準の不明確な恣意的な判断であると言えるのではなかろうか。野矢氏(ウィトゲンシュタインもか)は時に実現可能性を規準にし、時に想像(空想)可能性を規準にされているのである。では野矢氏は「昨日午後1時にAさんは自宅にいてかつ友人宅にいた」を可能性として考えられると判断されるのか、あるいはナンセンスと判断されるのだろうか? (たぶん後者だろうが)
 述語論理には「議論領域(domain of discourse)」というものがある。議論されている範囲をたとえば「人間」というふうに設定した上で命題の真偽を判断するのである(野矢茂樹著『論理学』東京大学出版会、1994 年、96ページ)。
 ここまで説明してきたように、命題の真偽だけでなく命題が論理空間にあるか否かに関しても、前提となるコンテクスト設定、まさに議論領域と同様なものが存在しているのである。述語論理における議論領域についても、「人間」という言葉に対応する具体的対象が明確に指し示されているからこそ論理の真偽が議論されうるのである。
 もう一度、野矢氏の説明を見てみよう。

「論考」の場合は関数はただ言語のあり方を整理するための便法にすぎない。それはそれ自身対象となりえるような実質をもたない。ただの入力項たる名と出力項たる命題の対照表にすぎない。いわば、ウィトゲンシュタインは関数を徹底的にノミナルに捉えるのである。

(野矢、91ページ)

ウィトゲンシュタインが解明に用いる関数はそのような言語外の対象をいっさい要請しない。あくまでも言語の中にとどまり、われわれの言語使用のあり方を整理する道具立てにほかならない。すなわち、「ポチ‐x」等の穴あき命題は、名を定義域とし命題を値域とする、言語内的な関数なのである。

(野矢、93ページ)

・・・この説明に反して、ウィトゲンシュタインの議論は決して「言語内的」なものではなく、言語に対応する対象が明確に指し示されている上で成立する言葉と言葉の関係なのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?