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竹田現象学における「本質観取(本質直観)」とは実質的に何のことなのか(その2)

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3.「理念」「本質」という”何か”が新たに現れることはない(どこまでも言葉と個別的・具体的な経験だけしか現れない)

 竹田氏は「本質」について次のように説明されている。

例えば、どんな音もみな、「それ自体として、或る本質を持ち、そしてその最上位に、音一般もしくはむしろ聴覚的なもの一般という普遍的な本質を持つのである。

(竹田、58ページ:『イデーンⅠ』「二節、事実と本質との不可分理性」からの引用)

 <私>がいま聴いているこの音は、「いまここにあるこのもの」として「偶然的な事実存在」である。ところが、同じこの音は、「音響」とか、「音」一般といわれる「述語要素」を持ち、この側面は「必然的」なものだ。この音の前者の側面をわれわれは「事実」と呼び、後者の側面をその「本質」と呼ぶ。

(竹田、58~59ページ)

現象学(のみでなく哲学理論一般)において言語の位置づけがなおざりにされている印象を受ける。これは「偶然的」「必然的」の問題ではない。ただ言語化されたかどうか、その知覚経験が言葉により説明されたかどうかの問題なのである。言葉でその事象(知覚経験)が表現されたとき、その知覚経験がその言葉の意味となるのである。知覚経験そのものは何ら変わることはない。
 「音」とは何かと聞かれれば、何かの音を出して「これが音です」と答えるしかない。何でも良いから音を出すのである。そこに偶然とか必然とかはない。それを本質と呼んでよいのかも分からない。しかしそれが「音」という言葉の(究極的な)意味なのである。
 音というものを波長で説明できるかもしれない。「下は20Hz程度から、上14,000Hzから20,000Hz程度までの鼓膜振動を音として感じることができ、この周波数帯域を可聴域という」(ウィキペディアより:https://ja.wikipedia.org/wiki/聴覚 )ことからこの周波数の弾性波のことを「音」の本質であると言うこともできる。しかし音と波長との関係とは、人が聞こえる音がまずあって、それを何らかの計器で測定することで得られる因果的なものである。様々な波長を試し、人が聞き取れるかどうかで(狭義の)音波というものが導かれる。つまりまずは人が聞き取れること、誰かしらの知覚経験として現れるということが前提となっている定義なのである。
また、それらは人の(あるいは動物も?)の「耳」で聞くものと考えらえるかもしれない。これも音と、人間の体(脳を含め聴覚に関わる様々な器官)の様々な機能を因果的に結びつけた上での定義である。
 それら因果的理解を本質と呼ぶのかどうか・・・辞書に掲載されている「音」の意味と言えそうではあるが・・・そもそも「本質」というものの定義・意味が恣意的ではある。
 ただ順番を間違えてはならない。言葉の意味とは究極的には実際に現れる知覚経験そのものに行きつくのであって(そしてそれが最初にあって)、上記の波長や「耳」で聞くものといった意味は、それら知覚経験(とその他の様々な事象)を因果的に分析し関連づけた上で導かれる二次的なものなのである。

どんな「経験的もしくは個的直観」も「本質直観」(理念を観て取る働き)へと転化させられる(第三節)ということ。つまりどんな事実も言葉の意味へ置きなおせるということだ。

(竹田、59ページ)

音が聞こえるのは「直観」であろうか? そもそも「理念」というものはどこにあるのだろうか? 私たちが実際に経験していることは、ある音を聞いて「ピアノの音だ」と言語化したことだけである。「理念を観て取る働き」など経験してはいない。そして言語化したとき、その音(知覚経験)が「ピアノの音」という言葉の意味である、ということだけなのである。そして「どんな事実も言葉の意味へ置きなおせる」=「どんな事実も言語表現できる」かどうかの保証はない。
 あるいはその音を聴いたとき、ピアノを思い出すであろうか? あるいはピアノが弾かれている情景を想像するだろうか? ピアノにまつわる気持ち(情動的感覚?)やら色彩やらを想像するであろうか?
 いずれにせよ、それらもすべて具体的・個別的経験(知覚や心像)である。それを「本質」と呼ぶのは自由なのかもしれないが、具体的経験が「本質」と呼ばれる何か別のものに変化したわけではないのである。
 ヒュームは抽象観念・一般観念といえども、結局のところ「特定の名辞に結びつけられた個別的観念(particular ideas)」(ヒューム、29ページ)にほかならない、「抽象観念は、その代表(表象)の働き(representation)においてどれほど一般的になろうとも、それ自体においては個別的なものなのである」(ヒューム、32ページ)と述べている。実際私たちの日々の経験を振り返ってみても、実際そうなっている。
 ちなみに「印象」とは、「心に初めて現れるわれわれの諸感覚、諸情念、諸情動のすべて」 (ヒューム、13ページ)、「観念」とは「思考や推論に現われる、それら印象の生気のない像」 (faint image))(ヒューム、13ページ)である。ヒュームは人間の精神に現われるすべての知覚(perceptions)がこの印象と観念の二種類に分かれるとしている 。「観念(idea)」と呼ばれているものの、具体的には心像(image)のことなのである(ただし『人間本性論』においてヒューム自身の「観念」という言葉の解釈にブレがあることも事実ではあるのだが)。

どんな個的直観も本質直観へ転化されるのだが、本質直観は個別直観なしに想起や記憶のうちだけでも成立すること。これはたとえば、いま<私>が現にある音を聴いていなくても、任意にたとえばヴァイオリンの音を想像的に喚起し、そのヴァイオリンの音(ね)は「音響だ」とか、「楽器の音だ」とか考えることができるということだ。

(竹田、59ページ)

という竹田氏の説明どおり、私たちは「音」や「ピアノの音」「ヴァイオリンの音」を想起することもできる。しかしそれもやはり個別的・具体的心像、具体的な音であることに変わりはない。
 結局のところ、ヒュームの言う印象・観念と言葉との関連づけなのである。印象・観念が現れ、言葉が現れ関連づけられる。そしてその言葉からさらに別の観念(心像)が連想される、どこまでもこのような連鎖反応でしかなく、そこに「理念」というものを見出すことはできない。
 繰り返すが、どこまでも実際に鳴っている音と想起される音と、「音」という言葉しか見出すことはできないのである。本質と呼ぼうと単に意味と呼ぼうとこの点には変わりがない。

 わざわざ「個的直観」「本質直観」と言い分ける必要をどうしても感じられないのである。かえって「本質」と呼ばれる“何か”が新たに現れるかのような錯覚をもたらしうることを考えれば、「本質観取」という言葉はミスリーディングであるとさえ思える。

<私>がある個物を見る(感覚する)。この個物はそれを<私>がいまここで経験しているものとしては「事実」である。ところがこの個物はある言葉で呼ばれうる(「ピアノの音」とか、「電車の音」とか)。この言葉それ自体が含む普遍的規定性、それが「本質」であると。

(竹田、59ページ)

その「事実」はまさに「ピアノの音」「電車の音」の意味である。他のピアノの音も「ピアノの音」である。本質あるいは普遍的規定性とはいったい何なのであろうか?


<引用文献>


竹田青嗣著『現象学入門』NHKブックス、1989年
デイヴィッド・ヒューム著『人間本性論』木曾好能訳、法政大学出版局、1995年


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