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言葉=概念なのか? :竹田現象学における「本質観取(本質直観)」とは実質的に何のことなのか(その3)

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引用部分は、竹田青嗣著『現象学入門』(NHKブックス、1989年)からのものです。

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4.言葉=概念なのか?


 竹田氏は、言葉と概念とをほぼ同じものとして扱っているように思える。

ある概念(言葉)を外在的な客観に対応するものとして捉えるのではなく、ただ<主観>のうちの内在的な意味系列として捉える

(竹田、63ページ)

個的な事実、あるいは諸理念において、それをなんらかの言葉で呼ぶとき、その言葉が<主観>の中で持っている普遍的意味様式。

(竹田、64ページ)

言葉を用いる際、その言葉が持つ「普遍的意味様式」というものが伴っているというのである。しかしこれについては既に説明した。個的な事実を言語表現した時に、その言葉の意味となるのはその個的な事実そのものであって、そこに何らかの普遍的意味様式、あるいは「本質」というものが新たに現れてくるわけではないのだ。これも既に述べたが、言語表現によってそこからさらに別の事柄を想像したり連想したりすることもある。それらもやはり個別的・具体的経験なのであって、「概念」あるいは「本質」なる事物が新たに現れたりするわけでは決してないのである。
 「普遍的意味様式」と竹田氏が呼んでいるものは、個的な事実を他の事象と因果的に関連づけた上で導かれる二次的な意味であると考えられる。まずは具体的知覚経験があった上で、そこから事後的に因果付けされるものなのだ。要するに”後付け”の説明であると言うことである(そもそも因果とはそういうものである)。
 ある音を聴いて「ピアノの音だ」と思ったのであれば、そこにはその音と「ピアノの音だ」と喋ったり考えたりした事実があるのみであって、そこに「普遍的意味様式」が伴っていると考えるのは、事後的な因果推論、そして本当にその時その「普遍的意味様式」が”作用”していたかなど、確かめようがない。
 また、私たちはピアノの音を聴くとき、普通はいちいち「あぁ、ピアノの音だ」などと具体的に考えたりはしない。ただ音を聴いて、ピアノについて考えたり、心地良さその他の情動的感覚を抱いたり、何かの情景を連想したり、そういった様々な連想をしたり、ついつい体を動かしてしまったり、自分も口ずさんでしまったり・・・それらも具体的な経験であることに変わりはない。
 つまり「概念」という用語がミスリーディングなのである(多くの哲学理論において様々な混乱を引き起こしている用語である)。果たして「概念」というものが私たちの具体的経験として現れているのであろうか? 言葉は具体的経験として現れる。しかし「概念」というものはいったい私たちの経験の何を指してそう呼んでいるのであろうか?
 一つ考えられることは、「概念」とは言葉とそれに対応する対象事物との組み合わせだということである。「概念そのもの」はない。しかし具体的事物と言葉とは実際に具体的経験として現れている。
 私たちは”芸術の概念が変わった”とかそういうふうな表現を聞く、あるいは読むことがある。それはこれまで芸術と認められなかった行為が、技術的に、あるいは表現方法的に(あるいはその他の要因で)高められたりすることで、芸術愛好者たちの琴線に触れることでこれも芸術であると認められたりする場合などが考えられる。あるいはある芸術家(と呼ばれる人)が想像を超えるような芸術作品を作り上げたりした場合であろうか? つまり「芸術」という言葉に対応する事物に変化が起こったということなのである。つまり芸術という「概念」というものが既にあって、その「概念」なるものが変化するわけではないのである。

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